第八章「恋愛演技のはずでした」
ことの始まりは、セシルからの手紙だった。
晩餐会から数日後、彼女から茶会の誘いが来た。
二人きりで、という条件付きで。
私は少し考えてから、承諾した。
セシルの屋敷は、こぢんまりとしているが趣味のいい造りだった。
庭に季節の花が丁寧に手入れされており、主人の性格が滲み出ている。
応接間に通されると、セシルはすでに待っていた。
社交用の笑顔ではなく、少し張り詰めた顔で。
「来てくださってありがとうございます、フローラ様」
「誘ってくれたのはあなたよ。せっかくだから伺いたかったし」
茶が運ばれ、しばらく当たり障りのない話をした。
でもセシルの目が、ずっと何かを測っていた。
やがて彼女は、カップを置いて真っすぐにこちらを見た。
「フローラ様に、正直にお話ししてもいいですか」
「どうぞ」
「私は……計算して動いています。天然のように振る舞っていますが、全部考えてやっています」
来た、と思った。
でも顔には出さない。
「そう」
「フローラ様はとっくに気づいていますよね」
「最初に会ったときから、ね」
セシルが少し笑った。
社交用ではない、苦いような笑いだ。
「やっぱり。……フローラ様も、演じていますよね」
「ええ」
否定しなかった。
この子には通じないと思ったし、通じない嘘をつく意味もない。
セシルがため息をついた。
「晩餐会の夜、フローラ様を見ていて思ったんです。私は一生あの域には届かないって」
「そんなことないわ。あなたの天然演技は、かなり完成度が高い」
「褒めていただいても、あの場での立ち回りはできません。あれは……技術だけじゃなかった」
セシルは少し俯いてから、また顔を上げた。
「仲良くしてほしいんです、フローラ様と。敵じゃなくて」
「最初からそのつもりよ」
セシルがぱちりと瞬いた。
「……え?」
「あなたのことを、最初から嫌いじゃなかったわ。面白い子だと思っていた」
しばらく間があった。
それからセシルが、今度は本当に笑った。
計算の混じっていない、ただ嬉しそうな顔だ。
その笑顔を見て、私は少し安心した。
この子の奥には、ちゃんと素の感情がある。
それがわかっただけで十分だった。
問題はその帰り道に起きた。
セシルの屋敷から馬車で戻る途中、王宮に近い大通りを通ったとき、前方が騒がしくなった。
野次馬が集まっており、道が塞がれている。
聞けば、酔った男が絡んで揉め事になっているらしい。
馬車が止まった。
しばらく待っていると、騒ぎを収めに来た近衛の騎士が数人やってきた。
その中に、見知った背中があった。
アレクシスだ。
彼は無駄のない動きで状況を把握し、短く指示を出した。
騒ぎはあっという間に収まった。
さすがだと思った。
そのとき彼が馬車の方を振り返り、私と目が合った。
(……奇遇ね)
アレクシスが少し眉を動かした。
表情が変わらない人だが、眉だけは微妙に動く。
それがこの人の感情のバロメーターだと、最近わかってきた。
彼は馬車に近づいてきた。
「エーデルハイト嬢。こんな時刻にどちらへ」
「セシル様のところへ伺っていたの。帰り道でこの騒ぎに出くわして」
「しばらくかかる。迂回路を案内しよう」
「ありがとう」
彼が馬車の傍らを歩きながら先導してくれることになった。
夕暮れの大通りを、馬車がゆっくりと進む。
私はふと、窓から顔を出した。
「アレクシス様」
彼が視線だけこちらへ向けた。
「あの騒ぎ、あっという間に収めてしまったわね。さすがですわ」
「慣れているだけだ」
「いつもそうおっしゃるけれど、慣れてできることというのは、それだけ積み重ねてきた証拠じゃないかしら」
アレクシスが少し黙った。
「……そういう見方は、あまりされない」
「みんな結果だけを見るから?」
「そうだ」
「もったいないわね」
言ってから、私は少しだけ反省した。
これは演技ではなく、本当にそう思って言った言葉だ。
前世でも、努力の過程を見てくれる人間は少なかった。
結果だけで判断される——それは舞台の世界でも同じだった。
だから共感した。
でも彼にとっては、その言葉がどう聞こえたかまでは、そのとき考えが至らなかった。
屋敷まで戻ると、アレクシスが馬車の扉を開けてくれた。
降りながら礼を言おうと顔を上げたとき——彼の目が、いつもと少し違った。
表情は変わらない。
でも目の奥に、何か静かなものが宿っていた。
(……何かしら、この目)
少し気になったが、その日はそのまま屋敷に入った。
問題が起きたのはそれから一週間後だ。
王宮の廊下で、偶然アレクシスと二人になる機会があった。
用件があってのことではなく、単に廊下で行き合っただけだ。
でも周囲に誰もいなかった。
私はそのとき、少し試してみようと思った。
社交界での立ち位置をより安定させるために、騎士団長との関係を「好意的な知人」くらいに持っていくのは悪くない——そういう計算だ。
(軽めの恋する令嬢演技を入れてみようかしら)
大がかりなものではない。
少しだけ、ほんの少しだけ、好意があるような気配を滲ませるだけでいい。
私はアレクシスに近づいた。
「アレクシス様、先日はありがとうございました」
「先日とは」
「迂回路を案内してくださったこと。おかげで無事に帰れました」
「職務の範囲だ」
いつもの返し方だ。
私は少し微笑んで、視線を柔らかくした。
「職務でも、助けていただいたことは助けていただいたことですわ。……本当に、頼りになる方ですね」
声のトーンを少し落とす。
目線をわずかに上目がちにする。
これで「敬意と好意が混ざった眼差し」になる。
アレクシスが、止まった。
足が止まった、というより——全体が、止まった。
呼吸も含めて、一瞬そこで固まったような感じだ。
(反応した?)
私は少し驚いた。
無表情の人間というのは、こういう演技に反応しにくい傾向がある。
感情の動きが少ないから、外からの刺激が入りにくいのだ。
でもアレクシスは、明確に反応した。
彼はしばらく黙ってから、視線を少し外した。
「……それほどのことではない」
声が、わずかに低くなっていた。
(あれ)
私は内心首を傾げた。
声が低くなるのは、感情を抑えているときの反応だ。
それも、照れや動揺を隠しているときの。
(まさか、本気で受け取った?)
いや、でも軽い好意の演技を一回入れた程度で、そんなに動くものだろうか。
私は少し混乱した。
そのとき、アレクシスがまっすぐにこちらを見た。
「……一つ聞いていいか」
「なんでしょう」
「エーデルハイト嬢は、いつも本気で言っているのか」
「……何を、ですか」
「俺に向けて言う言葉が。努力を認める言葉も。頼りになると言ってくれた言葉も」
思わぬ直球だった。
私は一瞬、返す言葉を失った。
(え、この人、気づいている?)
いや、違う。
気づいているのではない。
気づいていないから、こそ、聞いているのだ。
「本気かどうか確認したい」と思うほど、その言葉が気になっている——つまり。
(……本気になってる?)
「……本気ですわよ」
私はとっさにそう答えた。
演技的に正しい返しだったかどうかは、正直わからない。
ただ反射的にそう言っていた。
アレクシスの眉が、わずかに動いた。
今度は眉を寄せる方向ではなく、少し上がる方向に。
彼は何も言わなかった。
ただ一礼して、その場を離れた。
私は彼の背中を見送りながら、脳内でずっと同じ言葉が繰り返されていた。
(えっ、重っ!?)
いや、重いというのは失礼かもしれない。
でも、軽い演技を一回入れただけで、あの反応は想定外だ。
計算が狂った。
マリーが廊下の端から駆け寄ってきた。
「お嬢様、今のは……」
「見ていたの」
「少し遠くから……お嬢様の演技が通じたのかと思ったら、お顔が珍しく困っていたので」
「困っているように見えた?」
「ええ、かなり」
私は額に手を当てた。
これは演技ではない。
本当に少し、困惑していた。
(騎士団長は騙されない、と思っていたのだけれど)
騙されていないのかもしれない。
騙されていないからこそ、ああいう反応になったのかもしれない。
どちらにしても——計算通りにならなかった相手というのは、前世を含めてほとんどいなかった。
屋敷への帰り道、馬車の中でずっとそのことを考えていた。
マリーは何も言わなかった。
珍しく、気を遣ってくれているようだった。
(次にあの方と話すときは、少し気をつけなければ)
そう思いながら、でも心のどこかに、小さな何かが引っかかっていた。
それが何なのか、このときの私にはまだわからなかった。




