第十章「バレかけます」
セシルが私の屋敷に入り浸るようになったのは、外交晩餐会の件からしばらく後のことだ。
最初は週に一度の茶会だったのが、いつの間にか三日に一度になり、今や「そういえば今日はまだ来ていないわね」と思う日の方が珍しくなっていた。
マリーは最初こそ戸惑っていたが、最近では当たり前のようにセシルの分の茶を用意している。
適応が早い侍女だ。
その日も、セシルは昼過ぎにやってきた。
私が書き物をしていると、断りもなく向かいに座った。
随分と遠慮がなくなった。
「フローラ様、少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この前の茶会で、ハーバート侯爵の奥様に話しかけていたときのあのお顔——あれは演技ですか?」
私は書き物の手を止めた。
「どのお顔?」
「なんというか……とても温かみのある、柔らかいお顔。ハーバート夫人が亡くなったお子様の話をされたときに」
少し考えた。
「あれは……半分かしら」
「半分?」
「子どもを亡くした親御さんの話を聞くと、自然と胸が痛くなるのよ。だからあの顔は本物に近い。ただ、その感情をどう外に出すかの調整はしているから、そこは技術ね」
セシルがじっと私を見ていた。
「本物の感情を、技術で出力する」
「そういうこと」
「……むずかしいですね」
「慣れれば自然にできるようになるわよ」
セシルがため息をついた。
「私、フローラ様のことを最初は警戒していたんです」
「知ってる」
「演技がうまい人って、怖いじゃないですか。何を考えているかわからないから」
「そうね」
「でも最近は……むしろ逆に思えてきて」
セシルがカップを両手で包んで、少し考え込む顔になった。
「フローラ様って、演じているのに一番正直な人かもしれないって」
「どういうこと?」
「だって、相手のことをちゃんと考えて、相手が必要としているものを出してあげているでしょう。それって……思いやりじゃないですか」
私は少し黙った。
「演技と思いやりは、別物よ」
「本当にそうでしょうか」
セシルが真っすぐにこちらを見た。
「相手のことを考えて、相手が傷つかないように言葉を選んで、相手が安心できるように振る舞う——それが全部『演技』だとしても、受け取った側には本物の温かさとして届いているんですよ。フローラ様の周りの人たちを見ていると、そう思うんです」
答えに詰まった。
セシルの言葉が、思ったよりも深いところに刺さった。
(この子、鋭いわね)
「……難しい話をするわね」
「だってずっと考えているんです、フローラ様のことを」
「何を」
「どこまでが演技でどこからが本物か、って。でも最近、それを区別することに意味があるのかなって思い始めていて」
「どういう意味?」
セシルがカップを置いた。
「フローラ様は二十年以上、前世で演じ続けてきたんですよね」
「ええ」
「それだけの時間、人の感情に寄り添い続けて、人を理解しようとし続けて——それはもう、フローラ様の一部になっているんじゃないですか。演技で身につけたものでも、身についてしまったならそれは本物では?」
私はしばらく、何も言わなかった。
窓の外で鳥が鳴いている。
庭の木が風に揺れている。
静かな午後だ。
(この子には、かなり見えているのかもしれない)
「……セシル」
「はい」
「あなたは、私が全部演技だと思っている?」
「最初はそう思っていました」
「今は?」
セシルが少し笑った。
「今は——そこまで完璧に演じられるなら、もう本物なんじゃないかって思っています」
「それは褒めているの?」
「褒めています。……でも正直、哲学的な問いになってきて、私には答えが出ないんですよね」
「私にも出ないわよ」
「えっ、フローラ様でも?」
「自分のことが一番わからないものでしょう」
セシルがしばらく考え込んだ。
それからふと、思い出したように言った。
「……あ、でもひとつだけ、絶対に演技じゃないものがありますよね」
「何が?」
「騎士団長様への対応」
私の手が、少し止まった。
「……どういう意味?」
「この前の茶会で、アレクシス様の話題になったとき——フローラ様、少し間が長くなっていましたよ。それだけです」
「そんなことはないわ」
「いいえ、ありましたよ。私はそういうの見逃さないので」
にこにこしている。
こういうとき、セシルの笑顔は妙に無邪気だ。
計算ではなく、本当に楽しそうな顔。
(これだから侮れない)
「アレクシス様のことは、単純に気になる相手というだけよ」
「気になる、というのは?」
「読めない人だから。私の演技に対してどう反応するか、計算通りにならないことがある」
「それって女優として気になる、ってことですか」
「そういうこと」
「本当に?」
「本当に」
セシルがじっと私の顔を見た。
かなり長い間、見ていた。
「……フローラ様」
「なに」
「今、少しだけ目線が下がりましたよね」
「そんなことはないわ」
「下がりました」
「気のせいよ」
「フローラ様が人の目線の変化を一ミリ単位で読む方だということを、私は知っています。だからご自分のそれも、私には読めます」
この子は本当に、侮れない。
私は紅茶を一口飲んで、話題を変えることにした。
「そういえば、王太子殿下の最近の様子はどう?」
「話を変えましたね」
「変えていないわよ」
「変えました。でもまあ……殿下は今、かなり参っていると聞いています」
「そう」
「フローラ様が淡々としているほど、殿下は混乱されているようで。自分が手放したものの大きさに、今頃気づいているのかもしれませんね」
セシルが少し遠い目をした。
彼女も、ルーカスの傍に置かれていた時期があっただけに、思うことがあるのだろう。
「セシルは、殿下に対して何か感情はあるの?」
「複雑です」
「そうね」
「利用されていた部分はあると思っています。でも……特別恨んでいるわけでもない。ただ、疲れました」
正直な答えだった。
「賢い選択ね、距離を置くのは」
「フローラ様みたいに上手く立ち回れたらよかったのですが」
「あなたはあなたのやり方でいいわよ。私のやり方が全員に合うわけでもないから」
セシルがまた少し笑った。
それからまた少し間があって、彼女が小声で言った。
「……フローラ様」
「なに」
「アレクシス様のことなのですが」
「まだその話をするの」
「少しだけ。……あの方、最近フローラ様がいらっしゃる場には必ず姿を見せますよね」
「職務でしょう」
「全ての場が職務、というわけではないと思いますよ」
「……」
「しかも大体、フローラ様の死角から視線を向けています。気づいていないですよね、フローラ様」
私は少しだけ黙った。
気づいていた。
気づいていたのだが、あえて気づかないふりをしていた。
その理由が自分でもよくわからなかったから。
「……そう」
「そう、だけですか?」
「それだけよ」
セシルがまたじっと私を見て、それから静かに微笑んだ。
何かを確信したような顔だった。
「フローラ様が演じられない場面を、私はいつか見てみたいです」
「そんな場面は来ないわよ」
「来ると思います」
断言するので、私は少し眉を上げた。
「根拠は?」
「女優の勘、とでも言っておきましょうか」
「あなたは女優じゃないでしょう」
「フローラ様の傍にいると、少し移るんです」
セシルがくすくすと笑った。
それにつられて、私も少し笑った。
夕暮れが近づいていた。
部屋に橙色の光が差し込んで、二人分の影が長く伸びていた。
セシルが帰った後、私は一人でしばらく窓の外を眺めていた。
演技と本物の境界線。
セシルが言ったことが、頭の中でぐるぐると回っている。
そこまで完璧に演じられるなら、もう本物ではないか——と。
(どうかしら)
自分でも、まだ答えが出ない。
ただ一つだけわかっていることがある。
アレクシスのことを考えるとき、何かが違う。
演じようとする前に、まず何かが動く。
それが何なのかは——もう少しだけ、考えないふりをしていようと思った。




