第十一章「情緒崩壊王太子」
ルーカスから直接手紙が来たのは、外交晩餐会の成功から半月ほど後のことだった。
封を開けながら、マリーが微妙な顔をしている。
「……お嬢様、これは」
「見せて」
受け取って読んだ。
内容は短かった。
「一度、話がしたい」
それだけだ。
差出人は確かにルーカスで、筆跡も本物に見える。
公式の書状ではなく、個人的なものだ。
(来たわね)
こうなることは、ある程度予想していた。
セシルが「殿下は今かなり参っている」と言っていた。
公の場でことごとく失敗し、世論を失い、それでも私が淡々としている——その状況に、ルーカスは今どういう心境でいるのか。
返事をするかどうか、少し考えた。
無視するのは簡単だ。
でも無視し続けると、向こうが何か予測のつかない行動に出る可能性がある。
一度向き合っておいた方が、長期的には安全だ。
(会うとしたら、何を演じるか)
考えて、すぐに答えが出た。
「もう吹っ切れました」演技だ。
怒りでも悲しみでもなく、ただ穏やかに前を向いている——それが一番、ルーカスには効く。
場所は王宮の一室を借りることにした。
二人きりは避け、マリーを同席させる。
当日。
私は淡いグレーのドレスを選んだ。
哀しみを引きずっているわけでも、華やかに振る舞うわけでもない、中間の色だ。
ルーカスは先に来ていた。
私が部屋に入ると、彼は立ち上がった。
——その顔を見て、私は少し驚いた。
思ったより、疲れた顔をしている。
目の下に薄い影がある。
よく眠れていないのかもしれない。
「来てくれたのか」
「お手紙をいただきましたから」
席についた。
向かい合って座る。
マリーが部屋の端に控えている。
ルーカスがしばらく口を開かなかった。
何から言えばいいか、迷っているようだった。
(珍しいわね。あの人が言葉に詰まるなんて)
やがて彼が口を開いた。
「……最近のお前を、見ていた」
「はい」
「茶会でも、晩餐会でも。お前が笑っているところを」
「そうでしたか」
「お前は……元気そうだな」
「おかげさまで」
静かに、穏やかに返す。
責めない。怒らない。
ただ、「もうここに波風は立たない」という空気を出す。
ルーカスの顔が、わずかに歪んだ。
「俺のことを、恨んでいるか」
間を一つ置いた。
0.5秒ではなく、もう少し長めに。
「……恨んでいません」
「なぜだ」
「恨むほどの気力が、以前はありませんでした」
ルーカスが息を呑んだ。
「以前は、という言い方は」
「今は少し、元気になりましたから。恨むより、前を向く方が楽だと気づきましたの」
「前を、向く」
「ええ」
私は静かに微笑んだ。
悲しみも怒りも含まない、ただ澄んだ笑みだ。
ルーカスの顔が、今度はっきりと崩れた。
「お前は……俺に何も言わないのか」
「何を、でしょう」
「恨み言でも、怒りでも、何でも。あれだけのことをされたのに」
「殿下」
私は静かに彼の名を呼んだ。
「過ぎたことを掘り返しても、何も変わりませんわ。殿下には殿下の道がおありでしょう。私には私の道がある。それだけのことです」
「それだけのこと……」
ルーカスが額に手を当てた。
「お前は……変わったな」
「そうでしょうか」
「以前のお前なら、こんな話し方はしなかった」
「人は変わりますから」
ルーカスがしばらく黙った。
長い沈黙だった。
やがて彼が、少し低い声で言った。
「……俺は間違っていたかもしれない」
「殿下」
「お前を悪役だと思っていた。でも、そうじゃなかったのかもしれない。今更そう思っても遅いとわかっているが——」
「殿下」
私はもう一度、静かに遮った。
「その言葉は、今の私には必要のないものです」
ルーカスが顔を上げた。
「必要ない、とは」
「恨んでいないと申しました。それは本当のことです。ですから謝罪も必要ありませんし、弁明も必要ありません。……私はもう、そこにいないのです」
「そこに、いない」
「殿下との婚約があった頃の私は、もういません。今の私は、別の場所に立っています。殿下のいる場所とは、違う場所に」
ルーカスの顔が、見る見るうちに青ざめた。
(効いているわね)
脳内で冷静に観察しながら、表情は変えない。
怒りをぶつけても、泣いて見せても、相手はそこに「感情」を見る。
感情がある限り、まだ繋がっている余地が生まれる。
でも穏やかに「もうそこにいない」と言われると——相手には何も残らない。
戦う相手がいなくなる感覚だ。
「待ってくれ」
ルーカスが前のめりになった。
「俺はまだ、お前に——」
「殿下」
私は静かに立ち上がった。
「セシル様は、とても素直な方です。あの方と誠実に向き合われることをお勧めしますわ。それが殿下にとっても、セシル様にとっても、よいことだと思いますので」
ルーカスが固まった。
完全に、思考が止まったような顔だ。
私は一礼した。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」
そのまま部屋を出た。
廊下に出た瞬間、マリーが音を立てないように素早くついてきた。
少し歩いてから、マリーが小声で言った。
「……お嬢様、今の最後のひと言は」
「なに?」
「演技ですか」
「どう思う?」
マリーがしばらく考えた。
「……本当にそう思っていらっしゃるから、言えた言葉のような気がします」
「正解よ」
セシルは素直な子だ。
計算もするけれど、芯には本物の感情がある。
ルーカスにはもったいないかもしれないが、それは私が決めることではない。
馬車に乗り込んで、私は窓の外を見た。
空が高い。
よく晴れた日だ。
(これで一区切りね)
ルーカスとの関係は、今日でほぼ終わった。
向こうが何を感じようと、私の中ではもうそこは閉じている。
それは演技ではなく——本当のことだった。
翌日、セシルが顔を真っ赤にして飛び込んできた。
「フローラ様! 昨日殿下に会われたそうですね!!」
「ええ」
「殿下が昨夜から寝込んでいると側近から聞きました!!」
「まあ」
「まあ、じゃありません! 一体何をおっしゃったのですか!!」
「大したことは何も。ただ、前を向いていると伝えただけよ」
セシルが額に手を当てた。
「それが一番効くんです、あの方には……」
「そうなの?」
「感情をぶつけてくれる方が、殿下には対処しやすいんです。穏やかに『もう関係ない』と言われると——崩れるんです、ああいうタイプは」
「経験談?」
「多少は」
セシルが深いため息をついた。
「……フローラ様は、容赦がないですね」
「容赦をする理由がなかったのよ」
「そうですね」
セシルがしばらく窓の外を見てから、小さく言った。
「……殿下が立ち直ったら、私もちゃんと向き合ってみます」
「そう。それがいいと思う」
「フローラ様に言われると、なぜか背中を押された気がします」
「押したつもりはないけれど」
「それがまた、フローラ様らしいですね」
セシルが今度は柔らかく笑った。
その日の午後、アレクシスから短い書状が届いた。
「昨日の件、無事に終わったか」とだけ書かれていた。
(見ていたのかしら)
知らせていないのに、昨日のことを知っている。
情報収集能力が高いのか、それとも別の何かで気にかけていたのか。
私はしばらく書状を眺めてから、「おかげさまで」とだけ返事を書いた。
短い返事だったが——書きながら、少しだけ口元が緩んでいた。
それに気づいて、すぐに引き締めた。
マリーには見られていなかったはずだ。
たぶん。




