第十二章「騎士団長、限界」
アレクシスの変化は、じわじわと、しかし確実に現れていた。
以前は「危険因子の監視」という目で見ていたのが、最近は違う。
それでも視線の鋭さは変わらないのだが、その温度が少し違う。
気づいていた。
気づいていたのに、あえて何も言わないでいた。
セシルには「目線が下がる」と見抜かれていた。
マリーは最近、意味深な顔をしながら何も言わなくなっていた。
言わない方が効果的だと判断しているのだろう。
この二人、妙なところで息が合う。
そんな日々が続いていたある夕暮れ時、私は王宮の図書室にいた。
父に頼まれた資料を探していたのだが、目当てのものがなかなか見つからない。
広い図書室には他に誰もいなかった。
静かで、本の匂いがして、こういう場所は前世から好きだった。
棚の奥の方まで進んで背表紙を確認していると、後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、アレクシスが立っていた。
「こんな時刻に図書室とは」
「資料を探していたの。あなたこそ」
「見回りの経路だ」
「ここまで見回るの?」
「一応、な」
一応、という言葉が彼の口から出るのは珍しい。
少し砕けた言い方だ。
アレクシスが棚の間に入ってきた。
狭い通路で、自然と距離が縮まる。
「何を探している」
「ヴェルガントの外交史に関するもの。父に頼まれたのだけれど」
「それなら、こちらの棚だ」
迷わず案内してくれた。
確かに目当ての資料がそこにあった。
「ありがとう、よく知っているわね」
「図書室の配置は把握している。職務上、資料を使うことが多いから」
「なるほど」
私は資料を取り出して中身を確認した。
アレクシスはその場を離れず、近くの棚に手をついて立っていた。
何か言いたそうな気配がある。
でも言い出さない。
(珍しいわね)
この人は言葉が少ないが、言わないと決めたことは本当に言わない。
言いたいのに言えていない、という状態は——あまり見たことがなかった。
少し待ってみた。
夕暮れの光が窓から斜めに入り込んで、埃が光の中をゆっくりと漂っている。
静かだった。
「……エーデルハイト嬢」
やがて、アレクシスが口を開いた。
「なに?」
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「俺はずっと、あなたを監視していた」
「知っているわ」
「危険因子だと思っていた。あの婚約破棄の夜から、ずっと」
「そうね」
「だが——」
アレクシスが少し間を置いた。
「いつから危険だとは思わなくなっていた。気づいたときには、別の意味で目が離せなくなっていた」
私は資料を持ったまま、動かなかった。
(来た)
直感が告げる。
でもその直感に、珍しく焦りのようなものが混じっていた。
「別の意味とは?」
あえて聞いた。
聞かずに流すこともできたのだが、流したくなかった。
アレクシスがこちらを向いた。
真っすぐに、迷いのない目で。
「あなたのことを、知りたいと思っている」
「……」
「どこまでが本音で、どこまでが演技か——最初はそれを見極めようとしていた。でも今は、もうそれがどちらでもいいとさえ思っている」
アレクシスが一歩、こちらに近づいた。
「演技でも構わない」
その言葉が、思いがけず胸に刺さった。
「……どういう意味?」
「あなたが俺に向ける言葉が演技だとしても——俺の感じたことは本物だ。それで十分だと思っている」
私は何も言えなかった。
前世を合わせれば、半世紀近く生きている。
その間、様々な局面で様々な言葉を受けてきた。
告白に近い言葉だって、何度も受けたことがある。
そのたびに、どう返すかを考えてきた。
でも今、言葉が出てこない。
(これは……計算外だわ)
「演技でも構わない」——この言葉が問題だ。
怒りをぶつけてくれる方が、かえって対処しやすかった。
「全部演技だろう」と責めてくれた方が、答えやすかった。
でも「演技でも構わない」と言われると——。
「……アレクシス様」
「なんだ」
「あなたは、損な人ね」
「そうかもしれない」
「演技かもしれないものに、本気になるなんて」
「そうだな」
少しも動じない。
この人は自分の言葉を撤回しない。
言ったことを責任として持つ人間だということが、この短い会話でもわかる。
私はしばらく、資料の表紙を見つめた。
頭の中がうまく働かない。
いつもなら、この状況でどう振る舞うべきか、すぐに答えが出る。
でも今は——出ない。
(なぜ出ないのかしら)
「返事は今でなくていい」
アレクシスが静かに言った。
「ただ、言わないままにしておくことができなくなった。それだけだ」
「……そう」
「資料、重いか」
急に話題が変わった。
見ると、私が手に持っている資料が三冊に増えていた。
探しているうちに、関連するものも取り出していたらしい。
「少し」
「持つ」
有無を言わさず、アレクシスが受け取った。
当然のような顔をして。
そのまま二人で図書室を出て、廊下を歩いた。
会話はなかった。
でもその沈黙が、不思議と苦ではなかった。
屋敷への帰り道、馬車の中でマリーが私の顔を見た。
一言も言わなかった。
ただ、じっと見た。
「見ないで」
「見ておりません」
「見ているわよ」
「……お顔が、いつもと違いますので」
「どう違うの」
マリーが少し考えてから、慎重に言った。
「……何かを、演じていないお顔です」
私は窓の外に視線を移した。
夕暮れの王都が、橙色に染まって流れていく。
何かを演じていない顔。
そうかもしれない。
アレクシスの言葉が、頭の中でまだ響いていた。
「演技でも構わない」——。
その言葉が、なぜこんなに引っかかるのか、自分でも整理がつかなかった。
(演技でも構わない、か)
演技でも構わないと言われたとき、私の中に最初に生まれたのは——演技で返したくないという気持ちだった。
それに気づいたとき、少し怖くなった。
前世を含めて、演技でない自分を人に見せたことがほとんどない。
舞台の外の私というのが、どういうものかもよくわからない。
でも——あの人は、演技でも本物でも構わないと言った。
どちらでもいいと言った。
それが逆に、本物を出したいという気持ちを呼び起こした。
皮肉だと思う。
演技を肯定されたことで、初めて演技をやめたくなるなんて。
「マリー」
「はい」
「私、少し混乱しているわ」
マリーが目を丸くした。
お嬢様が混乱を認めるのは、かなり珍しいことだと思っているだろう。
「……どうなさったのですか」
「どうしたら、演技じゃない自分を出せるのかしら」
長い沈黙があった。
マリーが何度か口を開きかけて、止めた。
やがて彼女は、静かに言った。
「それは——出そうと思って出せるものではないかもしれません」
「どういうこと?」
「演技をやめようと意識した瞬間、それも一種の演技になってしまう気がして。……ただ、気づかないうちにもう出ていることは、あると思います」
「気づかないうちに」
「ええ。例えば——リリちゃんの手を握っていたとき。セシル様と笑っていたとき。あと……」
マリーが少し言いよどんだ。
「あと?」
「今日の帰り道の、お顔とか」
私は何も言わなかった。
馬車が石畳の上を進む音だけが続く。
(気づかないうちに、か)
もしそうなら——今夜の私は、少し素に近い場所にいるのかもしれない。
それが怖いような、でも悪くないような、不思議な感覚だった。
女優として半生を生きてきた私にとって、演じないということは——まだ、少し先の話だ。
でも「少し先」は、確かに近づいていた。




