第十三章「演じられない」
翌朝、目が覚めたとき、妙な感覚があった。
胸の辺りが、どことなく落ち着かない。
体の具合が悪いわけではない。
熱もない。
でも何かが、いつもと違う。
(これは何かしら)
ベッドの上でしばらく考えた。
前世の記憶を漁っても、これに近い感覚はあまり出てこない。
舞台の初日前の緊張とも違う。
難役に挑む前の高揚とも違う。
(……まさか)
考えかけて、やめた。
考えると、もっと落ち着かなくなる気がした。
朝食を運んできたマリーが、私の顔を見て一瞬止まった。
「……お嬢様、今日は少し顔色が違いますね」
「そう?」
「悪い意味ではないのですが。なんというか——少し、人間らしいお顔といいますか」
「私はいつも人間よ」
「それはそうなのですが」
マリーが何か言いたそうにしながら、結局何も言わずに下がった。
その日の午後、セシルが来た。
最近の定番だ。
彼女は部屋に入るなり、私の顔をじっと見た。
「フローラ様」
「なに」
「昨日、アレクシス様と何かありましたか」
「なぜそう思うの」
「顔が違います」
「みんな顔が違うと言うけれど、どう違うのよ」
セシルが少し考えてから言った。
「……迷っているお顔です」
私はティーカップを置いた。
迷っている。
その言葉は、案外正確かもしれない。
「セシル、あなたに聞いていい?」
「なんでも」
「誰かのことを——演技なしで考えると、どうなるの」
セシルが目を瞬いた。
「演技なしで、というのは?」
「どう振る舞うかを考える前に、ただその人のことを考えると、どうなるか知りたいの」
セシルが少しの間、黙って私を見ていた。
それから、ゆっくりと笑った。
「……それ、もう答えが出ているんじゃないですか」
「どういう意味?」
「演技なしで考えると何が起きるかを、フローラ様はもう体感していると思います。だからこそ聞いているんでしょう」
反論できなかった。
「……困ったわ」
「何が困るんですか」
「私、この感覚の扱い方がわからないのよ」
正直に言った。
セシルには、最近嘘をついてもすぐ見破られるから、言った方が早い。
「扱い方?」
「感情を舞台に乗せる方法は知っている。でも感情を——そのまま持っているやり方がわからないの。いつも何かに変換して使ってきたから」
セシルが静かに聞いていた。
「前世から、そうだったの。悲しいと思ったらそれを舞台で使った。嬉しいと思ったら役に込めた。感情は常に何かの材料だった。でも今——」
言いかけて、止まった。
「今は?」
「材料にしたくない、と思っている」
部屋が静かだった。
庭の方から、鳥の声が遠く聞こえた。
セシルがそっと言った。
「それが答えだと思いますよ、フローラ様」
「答え?」
「材料にしたくないと思うほど、大切にしたいということでしょう。それって——普通の、恋心なんじゃないですか」
「恋心」
声に出してみると、妙に実感が伴った。
それが少し、怖かった。
「私、恋愛が得意じゃないのよ」
「えっ、あれだけ演じられるのに?」
「演じるのと、するのは違うでしょう。料理の演技は完璧にできても、実際に料理ができるかどうかは別の話よ」
「……なるほど」
「どう振る舞えばいいかはわかる。でも自分がどうしたいのかが、わからない」
セシルが頷いた。
「それは——考えすぎているからかもしれませんよ」
「考えすぎ?」
「フローラ様はいつも、どう見えるかと何が効果的かを同時に計算しているでしょう。でも、どうしたいかという問いに計算は要らないと思うんです。ただ感じればいいだけで」
「感じる、か」
「はい。アレクシス様と話したいと思いますか?」
「……思う」
「傍にいたいと思いますか?」
少し間があった。
「……思う」
「それが答えじゃないですか」
シンプルだった。
シンプルすぎて、却って戸惑った。
こんな単純なことに、なぜこれほど時間がかかったのか。
(二十年以上、舞台で生きてきた弊害かしらね)
セシルが温かい目で見ていた。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「アレクシス様が昨日、何かおっしゃったんですよね。何と言われたのですか」
「……演技でも構わない、と」
セシルが目を丸くした。
それからじわじわと、表情が柔らかくなった。
「それは——すごい言葉ですね」
「そう思う?」
「ええ。だってフローラ様のすべてを受け入れると言っているようなものじゃないですか。演技も含めて、あなたに惹かれていると」
「でも、演技で返したくないと思ってしまったのよ」
「だからこそ、本物になっているんだと思いますよ」
セシルが笑った。
今日は計算のない、素直な笑顔ばかりだ。
その夜、私は一人で窓の外を眺めながら、いろいろと考えた。
これまで様々な場面で、様々なことを演じてきた。
悲劇の令嬢。
病弱な令嬢。
清楚な令嬢。
慈愛の聖女。
毅然とした被害者。
どれも完璧にできた。
でも今、アレクシスのことを考えると——何を演じればいいかが、わからない。
いや、正確には違う。
何を演じればいいかは、わかる。
「恋する令嬢」を演じればいい。
それは以前に一度やった。
でもやりたくない。
その「やりたくない」という感情が、これほど強く出てきたのは初めてだった。
(これが、本物ということかしら)
演じたくないと思うほど大切にしたいのなら——それはもう、私にとっての本音だ。
ただ。
(どうすればいいのかは、まだわからない)
演じることなく、人に何かを伝えるやり方を、私はほとんど知らない。
前世からずっと、伝えることと演じることが一体だった。
素の自分で誰かに向き合うというのは——考えただけで、少し足がすくむような感覚があった。
翌朝、アレクシスから短い書状が届いた。
「昨日は失礼した。返事は急がない」とだけ書かれていた。
相変わらず無駄のない文章だ。
私はしばらく書状を見つめてから、返事を書き始めた。
何度か書いては消した。
気の利いた言葉が出てこない。
演技的に正しい言葉は浮かぶのに、それを書きたくない。
結局、書いたのはこれだけだった。
「少し、時間をください」
送り出してから、我ながら随分とぶっきらぼうな返事だと思った。
でも、これが今の私に書ける一番正直な言葉だった。
マリーがその書状を持っていきながら、何かをこらえているような顔をしていた。
「何か言いたいことがあるなら言っていいわよ」
「……いいえ、何も」
「本当に?」
「ただ——」
マリーが少し間を置いた。
「お嬢様が、普通の令嬢みたいな返事を書いていたことが、少し嬉しかったです」
普通の令嬢みたいな返事。
確かにそうかもしれない。
気の利いたことも、計算されたことも、何もない。
ただ正直に、今の気持ちだけを書いた手紙。
(悪くないかもしれない)
窓から朝の光が入ってくる。
今日も晴れていた。
感情がぐちゃぐちゃのまま、でも——不思議と、嫌な気分ではなかった。
むしろどこかに、小さな温かさがある。
それが何なのかは、もう少ししたらわかるかもしれない。
今はまだ、その途中だ。




