第十四章「最後の舞台」
黒幕の名前を知ったのは、セシルからだった。
ヴァルドー侯爵、レオナルド・ヴァルドー。
五十代の老獪な貴族で、王都の情報網を牛耳っていると噂される人物だ。
表向きは温厚な文化人だが、裏では複数の貴族家の失脚に関わっているという話が、セシルの父を通じて流れてきた。
私の婚約破棄も、偶然ではなかったらしい。
ルーカスに「フローラは悪役だ」という情報を意図的に流し込んだのが、このヴァルドー侯爵だという。
エーデルハイト公爵家の力を削ぎたい勢力の後ろ盾として動いていた——セシルの父が掴んだ話は、そういう内容だった。
(なるほど、そういうことだったのね)
怒りがないかといえば嘘になる。
でも今は怒りより先に、考えるべきことがある。
問題は証拠だ。
ヴァルドー侯爵は用心深い。
直接手を下したという証拠が、今のところない。
法的に追い詰めるのは難しい状況だ。
しかもヴァルドーは来月、王宮で大規模な慈善舞踏会を主催する予定だ。
王族も招く格式の高い催しで、今更中止にはできない。
その場を利用して、さらに何かを仕掛けようとしているという話も入ってきた。
父と、父が信頼する数名の貴族が対策を話し合った。
その席に、私も呼ばれた。
「フローラ、お前に頼みたいことがある」
父が静かに言った。
「聞かせてください」
「ヴァルドーを動かすには、彼自身に喋らせるしかない。……お前に、舞台を作ってほしい」
父は「演技」という言葉を使わなかった。
「舞台」と言った。
私が何者かを、父はとっくに知っていたのかもしれない。
「どんな舞台を?」
「ヴァルドーが自白せざるを得ない状況を作ること。その場の全員を動かして、彼を追い詰める。……できるか」
私はしばらく黙った。
人生最大の演技、かもしれない。
一人ではなく、場にいる全員を巻き込んで、流れを作る。
しかも相手はこの道の玄人だ。
(怖くないか、といえば嘘ね)
でも舞台は立ってみないとわからない。
それは前世から変わらない私の信条だ。
「やります」
父が深く頷いた。
舞踏会まで二週間。
私はこれまでの中で最も念入りに準備した。
ヴァルドーという人物の性格、好み、弱点、プライド。
彼が過去に失脚させてきた貴族たちの話。
舞踏会の会場の構造、参加予定者のリスト。
アレクシスも動いてくれた。
彼は公式の立場で警護に入る予定だったが、私の計画を聞いて、要所に信頼できる騎士を配置してくれた。
計画の詳細を話したとき、彼はしばらく黙ってから言った。
「危険になったら、すぐに退け」
「わかっているわ」
「わかっていても言う」
その目が、職務以上の何かを語っていた。
私はそれを受け止めながら、曖昧に微笑んだ。
今は、それだけにしておいた。
舞踏会当日。
私は白のドレスを選んだ。
純白ではなく、月明かりのような青みがかった白だ。
会場で目立ちすぎず、でも忘れられない——そういう色。
会場には既にヴァルドーがいた。
主催者として、壇上近くで貴族たちと言葉を交わしている。
白髪交じりの髪と、人好きのする笑顔。
確かに、悪人には見えない。
だが——。
(目が笑っていないわね)
笑顔を作り慣れた人間特有の、空虚な目だ。
社交的な笑いと本物の笑いの違いは、目の周りの筋肉の使い方でわかる。
私は時間をかけて会場を回った。
各所で挨拶をして、少しずつ場の空気を温めていく。
今夜は私が主役ではない。
縁の下の力持ちとして、全体の流れを整えることが最初の仕事だ。
そして一時間ほどが経った頃、計画の第一段階を動かした。
ヴァルドーの側近の一人——実は父側の人間が仕込んでいた協力者だ——が、ヴァルドーに耳打ちした。
「エーデルハイト嬢が、侯爵の件を知っているようです」という内容を。
ヴァルドーが、ほんの僅かに顔色を変えた。
見えるか見えないかの変化だったが、私には見えた。
彼が私を探すように視線を動かした。
私はちょうどその方向に立っていた。
目が合った。
私は穏やかに微笑んで、軽く会釈した。
ヴァルドーが近づいてきた。
「フローラ嬢、今夜はよくいらして」
「お招きいただきありがとうございます。素晴らしい会ですね」
「楽しんでいただけているなら幸いです」
笑顔の下で、お互いに探り合っている。
これが本当の舞台だ。
「侯爵、少しお話しできますか。人目の少ない場所で」
「……もちろん」
庭に面した一室へ移動した。
ヴァルドーは平静を装っているが、足取りにわずかな緊張が出ている。
部屋の扉が閉まった。
「何のご用かな、フローラ嬢」
「ある話を聞きました。私の婚約破棄に、侯爵が関わっているという話を」
「それは面白い噂ですね」
「噂ではないと思っています」
ヴァルドーが笑った。
余裕のある笑い方だ。
「証拠はあるかな?」
「今は、ありません」
「では——」
「でも」
私は一歩、前に出た。
「侯爵は今夜、動こうとしていますよね。エーデルハイト家に関係するさらなる情報を流す計画が、今夜の舞踏会にあると聞きました」
ヴァルドーの目が、わずかに細くなった。
「随分と詳しいですね」
「私、実は人の話を聞くのが得意なんです」
「……なるほど」
「侯爵がなぜエーデルハイト家を潰したいのか——聞かせていただけますか」
ヴァルドーが少し間を置いてから、笑った。
今度は先ほどより、本物に近い笑いだ。
「若い娘に面と向かってそれを聞かれるとは思わなかった」
「若い娘だから聞けるのかもしれません」
ヴァルドーが私をじっと見た。
「あなたは——ただの令嬢ではないですね」
「どうでしょう」
「演じているのか、素なのか、読めない」
「それはよかった」
ヴァルドーが少し笑った。
そこで扉が開いた。
父と、父が連れてきた数名の貴族が入ってきた。
アレクシスも、騎士として傍に立っている。
ヴァルドーの顔が、初めてはっきりと変わった。
「……これは」
「申し訳ありません、侯爵。私との会話の間に、少し人を呼ばせていただきました」
私は静かに一歩退いた。
ここからは父たちの場だ。
私の役目は、ヴァルドーをこの部屋まで連れてくること。
そして彼が本音を少しだけ漏らすような空気を作ること。
それだけだった。
でも——それで十分だった。
ヴァルドーは長い沈黙の後、観念したように椅子に腰を下ろした。
周囲を見渡して、逃げ場がないと悟った顔だ。
「……見事ですね、フローラ嬢」
「お褒めにあずかり光栄です」
「あなたが仕掛けたのですか、これは」
「父と、頼りになる方々のお力があってこそです」
ヴァルドーが苦く笑った。
「若い娘に、こうも鮮やかにやられるとは——老いましたね、私も」
その後は父たちが引き継いだ。
ヴァルドーはゆっくりと、しかし確実に追い詰められていった。
逃げ場を一つずつ塞がれるように。
舞踏会の会場では、異変に気づいた人々が少しずつ集まり始めていた。
アレクシスが秩序を保ちながら、必要な人間だけを通している。
私は部屋の端に立って、その一部始終を見ていた。
やがてヴァルドーが、低い声で言った。
「……わかりました。話しましょう」
部屋の空気が、一度静まった。
それからヴァルドーは話し始めた。
長い話だった。
エーデルハイト家への恨みの根は、三十年近く前に遡るものだった。
複雑な経緯があり、私にはすぐには呑み込めない部分もあったが——父の顔を見ると、全てがわかっているようだった。
深夜になる頃、舞踏会は静かに幕を閉じた。
庭に出ると、冷たい夜風が頬に当たった。
星が多い夜だ。
後ろから足音が聞こえた。
振り返ると、アレクシスが立っていた。
「怪我はないか」
「ええ。あなたの配置のおかげで、何事もなかったわ」
「あなたの計画が正確だったからだ」
しばらく二人で夜空を見上げた。
「怖くなかったか」
アレクシスが静かに聞いた。
「怖かったわよ」
正直に言った。
「そうか」
「でも、やる前から怖くなかった舞台なんて、一度もなかったから。怖いままやるのが、私のやり方よ」
アレクシスが少し黙った。
「……強いな」
「そうかしら」
「そうだ」
断言する口調が、この人らしかった。
夜風が庭木を揺らした。
遠くで、後始末をしている人々の声が聞こえる。
今夜の舞台は終わった。
人生最大の、と父が言った舞台だったかもしれない。
でも私にとっては、明日からの方が難しいかもしれないと思っていた。
ヴァルドーに勝つことよりも——演じずに、アレクシスに向き合うことの方が、ずっと怖い。
でもそれは、もう少し先の話だ。
今夜は、これでいい。
星明かりの下で、私は静かに深呼吸をした。
冷たい空気が、肺の奥まで入ってきた。
それがなぜか、とても清々しかった。




