最終章「素顔の私で」
ヴァルドー侯爵の件が落ち着くまで、数日かかった。
王家への報告、関係する貴族家への説明、後始末の調整——父と信頼できる人々が動いてくれた。
私にできることは限られていたが、必要とされる場面にはきちんと顔を出した。
ヴァルドーは公的な立場を失うことになった。
エーデルハイト家への嫌疑も正式に晴れた。
婚約破棄は既成事実のままだが、それについては今更どうこう思わない。
むしろ、あの夜がなければ今の自分はいなかった。
そう考えると、不思議と感謝に近い気持ちすら湧いてくる。
ルーカスからは短い書状が届いた。
「全て知った。申し訳なかった」とだけ書かれていた。
セシルに聞くと、彼は今、自分のしてきたことを静かに見つめ直しているらしい。
私は返事を書いた。
「どうかご自身の道を歩んでください」と。
これが私の、最後のルーカスへの言葉だった。
セシルが「殿下、また少し寝込みそうです」と言っていたが、それはもうルーカス自身が乗り越えるべきことだ。
全てが落ち着いた、ある静かな午後。
私は一人で王宮の庭を歩いていた。
マリーには「少し一人になりたい」と伝えて、先に帰ってもらっていた。
紅葉が始まりかけていた。
赤と橙が混ざり合って、庭全体がどこか温かみのある色をしている。
前世では忙しすぎて、季節をゆっくり眺める余裕がなかった。
この世界に来て、季節というものをはじめて丁寧に見ている気がする。
池のほとりのベンチに腰を下ろした。
水面に空が映っている。
風が吹くたびに揺れて、空の色が砕けて広がる。
(これからどうしようかしら)
ヴァルドーの件は片がついた。
社交界での立場も安定した。
婚約破棄の嫌疑も晴れた。
全てが、ひとまず落ち着いた。
残っているのは——一つだけだ。
(アレクシス様への返事、ね)
「時間をください」と書いてから、どのくらい経つだろう。
彼は何も言ってこない。
本当に待っている。
それがわかるから、余計に——どうすればいいかを、ずっと考えていた。
どう伝えればいいか、ではない。
何を伝えたいか、だ。
考えているうちに、足音が聞こえた。
規則正しい、しっかりした足音だ。
顔を上げると、アレクシスが歩いてきた。
軍服姿で、仕事の途中なのかもしれない。
でも足はこちらへ向かってきている。
目が合った。
彼は立ち止まった。
「……邪魔をするか」
「いいえ」
少し間があって、彼が池のほとりに立った。
隣には座らず、少し離れて立っている。
水面を見ながら、口を開いた。
「全部片付いたか」
「おかげさまで」
「そうか」
また沈黙が来た。
でもこの人との沈黙は、なぜか苦ではない。
最初からそうだった。
しばらくして、アレクシスが静かに言った。
「返事は、まだでいい」
「……そうおっしゃると思っていました」
「急かすつもりはない」
「わかっています」
風が吹いた。
紅葉した葉が、一枚、水面に落ちた。
橙色の葉が、ゆっくりと流れていく。
私は立ち上がった。
アレクシスが視線だけ向けた。
私は彼の方へ、二歩歩いた。
そして——止まった。
胸の中が、騒がしい。
前世から数えて何十年と生きてきて、こんなに胸が騒いだことはほとんどなかった。
難役の初演前でさえ、ここまでではなかった。
(落ち着きなさい、私)
深呼吸する。
一度、目を閉じる。
何を演じるかではなく、何を伝えたいかを考える。
セシルが言っていた。
感じればいいだけだ、と。
目を開けた。
アレクシスがまっすぐこちらを見ていた。
表情は変わらない。
でも目の奥に、静かな温かさがある。
「アレクシス様」
「なんだ」
「以前、演技でも構わないとおっしゃっていましたね」
「言った」
「……今から言うことは」
一瞬、喉が詰まった。
おかしいと思った。
二十年以上、人前で泣き、笑い、叫び、どんな言葉でも口にしてきた。
それなのに今、たった一言が出てこない。
でも——だから、本物なのかもしれない。
「今から言うことは、演技じゃありません」
風が止まった気がした。
「私、あなたのことが好きです。演じようとすると、できないくらい。どう振る舞えばいいかわからなくなるくらい。……それだけ、好きです」
言い終えて、ひどく恥ずかしくなった。
前世の自分が聞いたら、なんてぎこちない告白だと笑うかもしれない。
洗練された言葉など何もない。
ただ正直に、それだけを言った。
アレクシスは動かなかった。
しばらく、じっと私を見ていた。
それから彼は、静かに言った。
「知っている」
「……え?」
「気づいていた」
私は少し呆然とした。
「いつから?」
「図書室で話した夜から」
「あの夜、私はまだ自分でもわかっていませんでしたよ」
「俺にはわかった」
断言する。
この人はいつも、こうだ。
「……それなら、なぜ黙っていたの」
「あなたが自分で気づくまで待っていた」
「待っていた」
「急かすと、演技で対処されそうだったから」
その言葉に、思わず笑いが漏れた。
「……正確ね」
「あなたのことは、よく見ていた」
アレクシスが一歩、こちらへ近づいた。
「俺も、一つ言う」
「なに?」
「演技でも構わないと言ったが——今のあなたの言葉は、演技ではないとわかる」
「どうしてわかるの」
「声が違う」
「声?」
「いつもと。……少し、震えている」
言われて初めて気づいた。
確かに、声が少し揺れていた。
こんなこと、前世で一度もなかった。
「……恥ずかしいわね」
「いや」
アレクシスが首を振った。
「そちらの方が、いい」
池の水面が、また風で揺れた。
落ち葉が幾枚か、舞い上がって空に散っていく。
アレクシスが手を差し伸べた。
声はなかった。
ただ、手だけを差し出した。
私はそれを見て、一瞬だけ躊躇った。
この手を取ったら、何かが変わる。
でも——変わっていいと思った。
その手を取った。
大きくて、少し硬い手だ。
騎士の手だ。
何も言わなかった。
彼も何も言わなかった。
ただそのまま、二人で池のほとりに立っていた。
紅葉の庭に、風が通り抜けていく。
(演じていない、今の私は)
恥ずかしくて、心臓がうるさくて、何を話せばいいかもわからなくて——それでも、悪くなかった。
むしろ今まで味わったことのないくらい、温かかった。
しばらくして、アレクシスが言った。
「笑っているか」
「……そうかもしれない」
「どんな顔か、見ていいか」
私は少し考えてから、彼の方を向いた。
計算していない。
どう見えるかを考えていない。
ただ今この瞬間に感じていることが、そのまま顔に出ているだけの笑顔だ。
アレクシスが、初めて——本当に初めて、はっきりと笑った。
小さく、でも確かな笑みだった。
「……初めて見た」
「何を?」
「あなたの、素顔」
その言葉に、また笑いが出た。
今度は声に出して。
おかしかった。
これだけ演じ続けてきて、最後に一番笑わされるのが自分の素顔だなんて。
「どうした」
「なんでもないわ。ただ——少し、おかしくなってしまって」
「そうか」
アレクシスが、また静かに笑った。
池の水面が穏やかに光っている。
空が高い。
どこまでも晴れた、秋の午後だ。
前世を含めて、長い長い時間を生きてきた。
舞台の上で笑って泣いて、演じ続けてきた。
何百という役を体に刻んで、何千という感情を借り物にして使ってきた。
でも今この瞬間の笑顔だけは——借り物ではない。
誰かのために作ったものでも、場のために用意したものでも、ない。
ただ、嬉しいから笑っている。
それだけの、笑顔だ。
女優フローラ・エーデルハイトが、初めて幕の外に立った瞬間だった。
——終幕




