第六章「全部演技ですわよ」
雨の日は嫌いではない。
外に出る必要がなく、誰かに見られる心配もない。
屋敷の中で過ごす雨の日というのは、女優にとっての休演日に近い感覚がある。
その日も朝から雨で、私はめずらしく一日を屋敷の中で過ごすことにした。
午前中は読書。
午後はのんびりと刺繍でもしようかと思っていたのだが——マリーが妙な顔をしながら部屋に入ってきたので、そちらに気を取られた。
「マリー、どうしたの」
「……お嬢様」
「何?」
「少し、お聞きしてもよろしいですか」
珍しく真剣な顔だ。
私は本を閉じ、向き直った。
「どうぞ」
マリーがため息をひとつついてから、口を開いた。
「最近、お嬢様のことを近くで見ていて……少し、整理がつかなくなってきまして」
「整理が?」
「はい。お嬢様は今、社交界でたいへんよい評判を得ていらっしゃいます。皆様、フローラ様はお優しくて、気高くて、それでいて慎ましいと……」
「そうね」
「ですが私が日頃拝見しているお嬢様は、朝食にクリームをたっぷりのせたパンを三枚食べて、昼間は膝を抱えて本を読んで、夜は湯船に肩まで浸かりながら鼻歌を歌っていらっしゃいます」
しばらく沈黙が落ちた。
(……全部見られていたのね)
「それで?」
「どちらが本当のお嬢様なのかと思いまして」
私はしばらく考えてから、素直に答えることにした。
マリーは信頼できる侍女だ。
それに、一人くらい本音を話せる相手がいないと、正直なところ息が詰まる。
「両方よ」
「……両方」
「外で見せているのも、私には違いないわ。ただ、役どころに合わせて出す面を選んでいるだけ。クリームをたっぷりのせたパンを三枚食べる私も、孤児院でリリの手を握った私も、同じ私よ」
マリーが少し考え込んだ。
「……では、泣いていらっしゃるときは?」
「どの場面の話?」
「舞踏会の夜です。あの涙は……」
「演技よ」
即答した。
マリーの顔が、見る見るうちに複雑な色になっていく。
「では、病弱令嬢をされていたときの震える手は?」
「演技」
「孤児院でリリちゃんと並んでいたときの、あの穏やかなお顔は?」
「……あれは半分くらい素」
「半分」
「子どもは嘘をつかないから、接しているうちに自然と力が抜けるのよ。あの子は本当にかわいかったし」
マリーがまた黙った。
何か言おうとして、言葉が出てこない様子だ。
私は少し笑った。
「わかりにくい?」
「……大変わかりにくいです」
「そうね。でも役者というのはそういうものなのよ。演じているうちに、どこまでが演技でどこからが本音か、自分でもわからなくなることがある。……前世の話だけれどね」
「前世……」
マリーは前世の話を聞かされ慣れてきている。
最初は目を白黒させていたが、今ではある程度受け入れている様子だ。
懐の深い侍女だと思う。
「聞いてもいいですか、前世のことを」
「どうぞ」
「お嬢様は前世で、どれくらいの期間、女優をされていたのですか」
「二十年以上ね」
「……二十年」
「デビューは十代の半ばで、亡くなったのは三十代後半だったから。短い人生だったけれど、舞台と映像の両方を経験できたのはよかったと思っているわ」
マリーが神妙な顔になった。
「それほどの経験をお持ちなら……確かに、今の演技の完成度も頷けます」
「褒めてくれているの?」
「……半分は褒めています」
先日と同じ返し方だ。
私は笑った。
それから少し間があって、マリーが思い出したように言った。
「以前おっしゃっていた、泣くタイミングのお話をもう少し教えていただけますか」
「あら、興味があるの?」
「正直に申しますと、ドン引きしておりました。ですが最近、少し興味が出てきまして」
正直な侍女だ。
私は姿勢を少し正した。
「基本中の基本から話すわね。泣く演技というのは、涙を出すことが目的じゃないの」
「違うのですか?」
「見ている人に『泣いている』と感じさせることが目的よ。涙は手段のひとつに過ぎない」
マリーが真剣な顔で聞いている。
「だから大事なのは、泣く前の間なの。感情が溢れる直前に、ほんの少しだけ抑える。0.5秒くらい。そうすると見ている側が『あ、泣きそう』と察知する。そこで初めて泣くと、倍以上の効果が出る」
「……0.5秒」
「多すぎても少なすぎてもだめよ。1秒溜めると、今度は『なぜ泣かないのか』という違和感が生まれる。0.3秒だと、見ている側が準備できない。0.5秒が一番見ている人間の感情と同期しやすい」
マリーが口を開けたまま、固まっていた。
「……お嬢様」
「なに?」
「それを計算してやっていらっしゃるのですか、毎回」
「計算というより感覚ね。長年やっていると体が覚えているから、あまり意識しなくてもできるわ」
マリーがゆっくりと両手で顔を覆った。
「……少しだけ、怖いです」
「そう? でも考えてみれば、貴族の社交界だって似たようなものじゃない。皆それぞれ、場に合わせた自分を演じているでしょう」
「それは……確かに、そうですが」
「私がやっていることは、その精度が少し高いだけよ」
「少し、というのはかなりの過小評価だと思いますが」
「謙遜よ」
マリーがため息をついた。
今日何回目かのため息だ。
しばらくして、マリーが今度は少し違うトーンで話しかけてきた。
「……お嬢様は、本当に何も感じていないのですか」
「何が?」
「婚約破棄のこと。追放の危機のこと。……そういったことを」
少し意外な質問だった。
私は窓の外の雨を見ながら、少し考えた。
「感じていないわけではないわよ」
「では」
「ただ、感じた上で『だから何?』ってなるのよね。問題が起きたら対処する。対処するには方法を考える。前世でも、どんな難しい役が来ても同じだった。嫌だな怖いなと思いながら、それでも幕が開いたら演じるしかないでしょう」
マリーが静かに聞いていた。
「そういう意味では——婚約破棄も、追放騒ぎも、私にとっては台本のない舞台みたいなものかしらね。怖くないかといえば嘘になるけれど、舞台は立ってみないとわからない。だから立つ、それだけよ」
しばらく間があった。
「……お嬢様」
「なに?」
「今のお言葉は、演技ではないですよね」
私は少し笑った。
「どうかしら」
「どうかしら、ではありません」
「……まあ、素よ。多分ね」
マリーがふっと表情を和らげた。
怒っているわけでも呆れているわけでもない、ただ温かい顔だ。
「私はお嬢様の侍女でよかったと思っています。変わっていらっしゃいますが、それでも」
「変わっているは余計よ」
「事実ですので」
雨の音が窓を叩く。
屋敷の中は静かで、暖かかった。
(悪くない午後ね)
こういう時間が、実は一番好きかもしれない。
誰かに見られているわけでも、何かを演じているわけでもない。
ただマリーと二人で、とりとめもなく話す時間。
前世の忙しい日々には、こういう時間がほとんどなかった。
それを思えば、この異世界での暮らしも悪くない。
「マリー」
「はい」
「次の茶会、何を着ていこうか一緒に考えてくれる?」
「喜んで。……ちなみに今度は何を演じられるご予定ですか」
「まだ決めていないわ。相手と場所を見てから決める」
「なるほど。完全なアドリブですね」
「その方が楽しいのよ」
マリーがまたため息をついた。
でも口元は笑っていた。
雨はまだしばらく続きそうだった。
休演日の午後は、穏やかにふけていく。




