第五章「騎士団長は騙されない……はずだった」
アレクシス・クロイツェルという人物のことは、社交界に戻ってから何度か耳にしていた。
近衛騎士団長。
年齢は二十六。
貴族の出身だが派閥に属さず、王家への忠誠だけで動く人間だという。
そして——表情がほとんど変わらないことで有名らしい。
(無表情系ね)
前世でそのタイプの役を演じたことがある。
感情表現が少ない人間というのは、逆に言えばわずかな変化が大きく見える。
演じる側としては、やりがいのあるタイプだ。
私が彼と初めて直接言葉を交わしたのは、王宮での定例の茶会の席だった。
王族主催の集まりには、近衛騎士団長として同席することがあるらしい。
会場の端に立ち、周囲を静かに観察しているその姿を、私はまず遠目に確認した。
背が高い。
濃い灰色の軍服が似合っている。
顔立ちは整っているが、確かに表情が動かない。
視線だけが鋭く、会場全体を定期的に走査している。
そしてその視線が、何度か私のところで止まった。
(警戒されているわね)
当然といえば当然だ。
婚約破棄騒動の中心人物であり、短期間で社交界の評判を大きく変えた令嬢。
騎士団長の立場なら、危険因子として注視するだろう。
私は気づいていないふりをしながら、茶会を楽しんだ。
他の令嬢たちと話し、笑い、穏やかに過ごす。
演じているというより、もはや地の文のようになってきた「清楚令嬢」の振る舞いだ。
茶会の中盤、私は手に持っていたカップをテーブルに戻そうとして——わずかに手が滑った。
カップが傾き、受け皿の縁にぶつかる。
中身はこぼれなかったが、乾いた音が小さく鳴った。
その瞬間、視線を感じた。
アレクシスの方からだ。
私は何事もなかったように立て直しながら、心の中で少しだけ考えた。
(この人、反応が速い)
音に気づいて即座にこちらを見た。
それだけで、この人物の注意力の高さがわかる。
なるほど、騎士団長というのは伊達ではないらしい。
しばらくして、彼が近づいてきた。
自然な動線のふりをしているが、明らかに意図的にこちらへ来ている。
「エーデルハイト嬢」
低く落ち着いた声だった。
感情の色がほとんどない、平坦な声だ。
私は振り返り、穏やかに微笑んだ。
「はい」
「先ほど手元が崩れたように見えたが、問題はないか」
直球だ。
社交的な前置きがない。
これも、この人物の特徴のひとつだろう。
「お気遣いありがとうございます。少し疲れが出ていたようで……でも、大丈夫ですわ」
「そうか」
彼の目が、一瞬だけ細くなった。
表情は変わらないのに、目だけが動く。
観察しているのがわかる。
(この人は、見抜こうとしているわね)
面白い。
表情で読もうとするのではなく、細部の行動から判断しようとしている。
勘ではなく、観察によって人を評価するタイプだ。
私は少しだけ目線を下げた。
視線を逸らすのではなく、考えるように下げる——その違いは微妙だが、見る人が見れば伝わる。
「騎士団長様は、いつもこのような場でも警戒をされているのですか」
「職務だ」
「大変ですね」
「慣れている」
会話が短い。
でも嫌そうではない。
ただ、余分な言葉を使わないだけだ。
(この感じ、前世で共演したベテランの舞台俳優に似ているわ)
言葉が少ない役者ほど、一言一言が重い。
そういうタイプだ。
私はもう一度穏やかに微笑んでから、静かに言った。
「また機会があれば、お話しましょう」
アレクシスがわずかに首を傾けた。
返事はなかった。
でも否定もしなかった。
彼はそのまま元の位置に戻っていった。
背中が真っすぐだ。
(さて、どう出るかしら)
私は視線を戻し、何事もなかったように茶会を続けた。
問題が起きたのは、茶会の終わり際だった。
帰ろうとして立ち上がったとき、少しだけふらついた。
演技ではない。
本当にふらついた。
ここ数日、睡眠が浅かったのと、昼食を軽めにしすぎたのが重なったらしい。
柱に手をついて、静かに呼吸を整える。
大したことではない。
すぐに落ち着く。
「エーデルハイト嬢」
声がした。
見ると、アレクシスが二歩ほどそこに立っていた。
「……問題ない」
「顔色が悪い」
「少し立ちくらみがしただけですわ」
「馬車まで送る」
断る間もなく、彼は私の隣に立った。
腕を貸すわけでもなく、ただ隣にいる。
何かあれば即座に支えられる位置に、自然に立っている。
(……なかなかできる人ね)
「騎士」というのが体に染み込んでいる。
誰かを守ることが、この人の中ではもう本能になっているのだろう。
廊下を歩きながら、私は少しだけ考えた。
どう振る舞うべきか、ではない。
この人物が何を考えているか、だ。
「……なぜ送ってくださるのですか」
「倒れられると面倒だ」
「ずいぶん正直ですね」
「お世辞を言う習慣がない」
「それは……素敵なことだと思います」
アレクシスがわずかに足を止めた。
ほんの一瞬だ。
でも確かに止まった。
(あら、反応した)
お世辞を言わないことを「素敵」と言われる機会が、これまであまりなかったのかもしれない。
私は何も追加しなかった。
言い過ぎないのも技術のうちだ。
馬車のところまで来ると、マリーが心配そうな顔で待っていた。
アレクシスを見て、目を丸くしている。
「ありがとうございました、騎士団長様」
私は振り返って、静かに頭を下げた。
「職務の範囲だ」
彼はそれだけ言って、踵を返した。
また短い。
馬車に乗り込んでから、マリーがこちらを見た。
「……騎士団長様が送ってくださったのですか?」
「ええ。少しふらついたら、すぐに来てくれたわ」
「お嬢様、あの方は主人を危険視しているという話ですよ?」
「知っているわ」
「それなのに……」
「危険視しているからこそ、目を離さないのでしょう。で、いざ倒れそうになったら体が先に動く——そういう人なのよ、あの方は」
マリーが眉を寄せた。
「……お嬢様はあの方のことを、初対面でそこまで分析されているのですか」
「職業病みたいなものよ。役者は人を観察するものだから」
窓の外を流れていく王都の景色を眺めながら、私はさっきのことを思い返した。
アレクシスの視線。
短い言葉。
そして馬車まで送ってきた、あの自然な動き。
(……警戒と、親切が同居している人ね)
面白い組み合わせだと思った。
前世で演じた役の中に、似たタイプがいたような気もする。
でも生身で向き合うのは、また少し違う感覚だ。
まあいい。
当面は清楚令嬢路線を続けながら、状況を見る。
健気演技が思わぬところで効いたようだが、あれは半分本当の体調不良だったから計算とは言いにくい。
——とはいえ。
(結果オーライ、ということにしておきましょうか)
馬車が屋敷の門をくぐる。
夕暮れの光の中、屋敷の窓に灯りが点り始めていた。
その夜、アレクシスは騎士団の詰め所に戻ってから、しばらく自分の机の前に座っていた。
——という話を、後日マリーが別ルートで聞いてきた。
彼の部下が不思議そうに言っていたらしい。
「団長が珍しく、何かを考え込んでいた」と。
(あら)
私はその話を聞いて、少しだけ笑った。
何を考えていたのかは、聞いていない。
でも、まあ——想像はできる。
騎士団長は騙されない、はずだった。
それでもどこかに引っかかりが生まれているなら、今夜の舞台は及第点だ。
女優として、それで十分だった。




