第三章「悪役令嬢、清楚系になる」
社交界への復帰には、タイミングが命だ。
早すぎれば「病気は嘘だったのか」と思われる。
遅すぎれば「やはり実家に引きこもった」と見られる。
ちょうどいい頃合いというのは、周囲が「そろそろ心配になってきた」と感じ始めた、その少し後だ。
私が再び人前に姿を現したのは、婚約破棄からちょうど二週間後のことだった。
場所はモンテフォルド伯爵夫人が主催する午後の茶会。
規模は舞踏会ほど大きくないが、王都の貴族女性が広く集まる、社交界の情報の要所だ。
服装は入念に選んだ。
白に近いアイボリーのドレス。
装飾は控えめに、しかし品よく。
髪は丁寧に結い上げながらも、あえて複雑な飾りをつけない。
全体として「華美ではないが、育ちの良さだけは隠しようがない」という印象を目指す。
("慎ましい清楚令嬢"——この路線でいくわ)
前世でも似たような役を演じたことがある。
清楚系は難しい。
やりすぎると「作っている」と気づかれる。
足りなければ印象が薄くなる。
さじ加減が命のジャンルだ。
馬車を降りた瞬間から、もう舞台は始まっている。
私はゆっくりと、しかし確かな足取りで会場へと向かった。
視線を感じる。
あちこちからこちらを見ている。
(見ているわね。いいわ)
表情は穏やかに、目線はわずかに伏せ気味に。
歩幅は小さく、でも背筋だけはしゃんと伸ばす。
その組み合わせが「傷ついているけれど、懸命に前を向いている」という空気を作る。
会場に入ると、一瞬だけ場が静まった。
皆が私を見た。
それから蜂の巣をつついたような、しかし今回は温かみのある騒めきが起きる。
「フローラ様……! お体の具合はいかがですか!?」
最初に声をかけてきたのは、ハーバート侯爵家の令嬢、エマだった。
丸い目をさらに丸くして、心配そうに駆け寄ってくる。
私は穏やかに微笑んだ。
「おかげさまで、少し落ち着きました。皆様のお心遣いが、何よりの薬になりましたわ」
声は柔らかく、しかし落ち着いて。
「回復した」とは言わない。
「落ち着いた」という言葉を選ぶ。
まだ完全ではないという余韻を残しながら、でも前向きに歩もうとしている——そのニュアンスが大事だ。
エマが両手を合わせた。
「まあ……なんてお強い方なのかしら」
(強くはないわよ、全部演技だもの)
でも口には出さない。
にっこりと微笑むだけにしておく。
茶会はすぐに、私を中心としたような流れになった。
女性陣が次々と話しかけてくる。
心配の言葉、励ましの言葉、共感の言葉。
私はそのひとつひとつに、丁寧に、静かに応じた。
大げさに感動しない。
大きな声を出さない。
ただ穏やかに、相手の目を見て、少しだけ温かく返す。
それだけで、場の空気が変わっていくのがわかる。
「フローラ様って、あんなに意地悪な方だと思っていたけれど……全然違うのね」
「むしろ、とても思いやりのある方だわ」
「今まで誤解していたのかもしれない」
囁きが聞こえた。
私は聞こえていないふりをした。
聞こえていないふりをしながら聞こえているのが、一番効果的だからだ。
茶会の中盤、庭に面したテラスで少し休んでいると、男性陣が数人こちらへやってきた。
茶会は女性中心だが、護衛や同伴という形で来ている貴族の息子たちが何人かいる。
その中のひとりが、少し緊張した様子で声をかけてきた。
「フローラ嬢、お体の具合はもうよろしいので?」
「ありがとうございます。おかげさまで」
私は振り返り、静かに微笑んだ。
テラスに差し込む光がちょうどいい角度で当たっている。
演技には光の使い方も重要だ。
これは計算ではなく——まあ、半分くらいは計算だが。
男性陣の顔が、一瞬止まった。
そういう反応をするとき、人は自分が何に反応したかを自覚していない。
ただ「何か心を動かされた」と感じるだけだ。
「このような場に出てくるのも、少し勇気が要りましたの。でも、ずっと部屋に籠もっているわけにもいきませんから」
小さく笑う。
自分を励ますような、そういう笑いだ。
男性陣が完全に黙り込んだ。
その後の茶会で、私はひたすら清楚路線を貫いた。
自分の話はほとんどしない。
相手の話をよく聞いて、適切なところで頷く。
意見を押し付けない。
でも、問われたときにはきちんと答える。
これが「慎ましさ」の骨格だ。
前世で演じた清楚系令嬢の役を、そのまま地でやっている感覚がある。
帰り際、エマが私の手を取った。
「フローラ様、また茶会にいらしてください。次回は私が主催しますから、ぜひ」
「ありがとう、エマさん。ぜひ伺いますわ」
馬車に乗り込んで、会場が見えなくなったところで私は静かに背もたれに体を預けた。
マリーがこちらをじっと見ている。
「……うまくいったのですか?」
「ええ、上々よ」
「そうですか」
マリーは複雑そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
忠実な侍女だ。
ありがたい。
翌日から、変化が現れ始めた。
招待状の数が増えた。
今まで届かなかった家からも来るようになった。
令嬢たちからの手紙も増え、中には「ぜひ仲良くしてほしい」という内容のものもある。
女性陣の味方化は、思った以上に速かった。
男性陣の動きも耳に入った。
「フローラ嬢は以前から誤解されていた」という話が、貴族の集まる場所でちらほら出始めているらしい。
何人かは父に「令嬢と縁談の話ができないか」という打診を入れてきたとも聞いた。
(縁談は今は要らないけどね)
当面の目標は身の安全と社会的立場の安定だ。
恋愛はまだそのずっと先の話でいい。
そんな中で、ルーカスの動向も伝わってきた。
どうやら彼は今、ひどく混乱しているらしい。
茶会でのことが広まり、周囲から「フローラ嬢はそういう方だったのか」という声が出始めた。
すると自動的に、「そんな方を追放しようとした殿下とは一体」という話になる。
世間というのは残酷で、叩けるものを見つけると徹底的に叩く。
ルーカスが側近に怒鳴り散らしているという話も聞こえてきた。
「なぜだ! なぜ皆があの女を持ち上げる!! 彼女は悪役のはずだろう!!」
その言葉が人づてに伝わってくるたびに、聞いた者たちはますます首を傾げる。
「悪役」という言葉が出てくるたびに、王太子の品位が下がっていく。
(ルーカス殿下、少し黙っていた方が得策よ)
心の中で思うが、もちろん教えない。
教えてあげる理由がない。
ある日の午後、私は書き物をしながらマリーにこんな話をした。
「泣くタイミングは、0.5秒溜めるのがコツなのよ」
「……はい?」
「あの舞踏会の夜の話よ。感情を表に出す前に、ほんの少し間を置く。そうすると見ている側が『来るか来るか』と構えるでしょう。そこに涙が来ると、倍ぐらい刺さるの」
マリーが固まった。
しばらく私の顔を見たまま、動かない。
「……お嬢様」
「なに?」
「それは……いつもそうやって、計算されているのですか」
「いつも、というか……体が覚えているのよ。前世からの習慣ね」
マリーがゆっくりと目を閉じた。
それから深く、非常に深くため息をついた。
「……私はお嬢様の侍女でよかったのか、今少し自信がなくなってきました」
「あら、よかったでしょう? 少なくとも退屈はしないわよ」
「退屈どころではないのが問題なのです」
マリーの声に、諦めの色が混じっていた。
でも怒っている様子はない。
それが何より大事だ。
窓の外では、王都の街が夕暮れに染まっていく。
橙色の光が屋根の上に広がり、少しずつ暗くなっていく。
次の舞台はもう、すでに準備が始まっていた。
聖女と呼ばれる少女が社交界に登場するという話が、じわじわと耳に入り始めている。
セシル・モンテベルデ。
「清らかで慈愛に溢れた、まるで聖女のような令嬢」として評判になっているらしい。
(聖女、か)
私は窓の外を眺めながら、少しだけ考えた。
前世で「聖女」の役を演じたことはあるだろうか。
——ある。
しかも複数回。
(そういうことなら、少し準備しておこうかしら)
灯りが灯り始めた街を見ながら、私は静かに次の役どころを頭の中で組み立て始めた。
舞台は続く。
幕が下りるまで、女優は演じ続ける。
それが私の流儀だ。
前世でも、この世界でも——変わらない。




