第二章「演技力が高すぎる」
翌朝、目が覚めたとき、私はまず窓の外を確認した。
穏やかな朝の光が部屋に差し込んでいる。
鳥の声が聞こえる。
どう考えても、嵐の前の静けさだ。
(さて、昨夜の余波がどこまで広がっているか)
侍女のマリーが朝食を運んできた。
その顔が、昨夜よりもさらに暗い。
「お嬢様……昨夜の件が、すでに王都中に広まっているようで」
「そう」
紅茶を一口飲んで、私は先を促した。
マリーは少し躊躇ってから、続ける。
「王太子殿下は本日、改めてお嬢様の追放を求める書状を公爵家へ送るつもりだと……侍女仲間から聞きました」
「追放」
声に出して繰り返す。
それから静かに紅茶のカップを置いた。
追放。
異世界転生もので最もポピュラーな展開の一つ。
予想はしていたが、思ったより早い。
(手を打たないといけないわね)
問題は、どう動くかだ。
昨夜の舞踏会で世論は私の味方についた。
だが王族の意向には、世論だけでは対抗しにくい部分もある。
追放を確実に防ぐには——もう一押し、印象を固める必要がある。
朝食を終え、私はゆっくりと考えを整理した。
前世の記憶を漁る。
追放、断罪、令嬢、弱者——そのキーワードで引っかかる役どころはひとつだ。
(病弱令嬢、ね)
昨夜の「悲劇の令嬢」から一段階進んで、「か弱く病に伏している令嬢」を演じる。
これをやられると、相手がどんなに強硬な立場であっても、追放を強行すれば「病人を追い出した」という烙印を押されることになる。
社会的なプレッシャーを最大限に活用する作戦だ。
「マリー」
「は、はい」
「今日、侍医のヴァルター先生にお越しいただけるよう手配してくれる? 昨夜からどうも体の具合がよくないの」
マリーが目を丸くした。
「お嬢様、大丈夫でございますか!?」
「ええ、大丈夫よ」
私はにっこりと微笑んだ。
まったく問題ない、という意味の笑みだ。
マリーにはなぜか余計に心配そうな顔をされたが、気にしないことにした。
準備は迅速に行う。
まず服装。
いつもの華やかなドレスではなく、白を基調とした清楚で薄い生地のもの。
ベッドに横たわるなら、これが一番映える。
髪は軽く流す程度にして、あえて整えすぎない。
作り込みすぎた見た目は「元気そう」に見えてしまうから禁物だ。
次に部屋の調整。
カーテンを少し閉め、室内を柔らかな薄暗さにする。
花は生けたままでいい。
むしろ花があった方が、「病床にも花を飾りたいと思うほど気丈に振る舞っている令嬢」という情感が出る。
(ふふ。舞台セットの組み方は前世で散々学んだわ)
そして仕上げは、自分自身の身体づくり。
頬の血色を少しだけ落とすため、食事を軽めにする。
目の下にわずかに影をつくるよう、昨夜は意図的に睡眠を浅くしておいた——これは計画通りだ。
ヴァルター侍医が到着したのは、午前も中頃のことだった。
私はベッドに横たわり、薄い毛布を胸元まで引き上げた状態で迎えた。
侍医は壮年の男性で、几帳面そうな印象のある人物だ。
前世の経験から言って、几帳面な人間ほど「見たものを信じやすい」傾向がある。
なぜなら自分の観察眼に自信があるから。
「フローラ嬢、具合はいかがですか」
「……少し、起き上がるのが辛くて」
声を出す前に、一度小さく咳をする。
咳は技術だ。
本物らしく聞こえるには、喉の奥ではなく胸の深いところから出す感覚が必要で——これも前世で何度も練習した。
続けて、毛布を握る手をかすかに震わせる。
力が入らないように見せるため、わざと指先を脱力させる。
ヴァルター侍医の眉がわずかに寄った。
「昨夜の舞踏会でのこともございましたし……心労もあるかと思いますが、お体の方は以前から?」
「ええ……少し前から、胸のあたりが重くて」
もう一度、小さな咳。
そして儚げな微笑みを添える。
儚げな微笑みというのは、唇の片端だけをそっと上げ、目元はむしろ少し下げるのがコツだ。
健気に笑おうとしているのに笑いきれていない——そういう表情が出る。
侍医が脈を診始めた。
私はこのとき、わずかに呼吸を浅くする。
脈拍はほんの少し上げておく——これは集中すれば意外とコントロールできる。
前世で「臨死体験をした役者」という難役を演じたとき、身体のコントロールを徹底的に磨いた成果だ。
しばらくして、侍医が静かに手を離した。
その表情が、思った以上に深刻な色をしている。
「……フローラ嬢。大変失礼ながら、少しお聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「昨夜の件で、相当な衝撃を受けられたのではないかと。……心身ともに、かなり疲弊されているようです」
(ほう。なかなか優秀ね、この先生)
半分は演技の効果だが、もう半分は本当に昨夜の一件で体に負担がかかっていると判断したのだろう。
いずれにせよ、私にとっては好都合だ。
「お気遣いありがとうございます……でも、私は大丈夫です」
か細い声で、しかしはっきりと言う。
「大丈夫ではないのに大丈夫と言っている」——その構図が滲み出るように。
侍医の目が、明らかに曇った。
処方箋を書きながら、彼は何度か口を開きかけては閉じた。
何か言いたいことがあるが、立場上言えない——そういう葛藤が透けて見える。
その日の夕方にはもう、王都の医師ギルドを通じて「エーデルハイト令嬢、体調不良で静養中」という情報が広まっていた。
マリーがひどく慌てた顔で部屋に飛び込んできたのは、それからさらに少し後のことだ。
「お嬢様! 大変です! 王太子殿下の追放要求に対して、複数の貴族が反対の意向を示しているとのことで……!」
「まあ」
私はベッドの上で静かに上体を起こした。
「そう、なの」
「病床のお嬢様を追放するなど言語道断だ、と……侯爵家や伯爵家のいくつかが、殿下へ書状を送ったとか」
(思ったより早く動いたわね)
貴族社会において、病人への仕打ちというのはとりわけ評判を下げやすい。
昨夜の婚約破棄に続いて、病床の元婚約者を追放しようとしたとなれば——ルーカスの立場は相当に苦しくなる。
マリーが眉を八の字にしたまま、私の顔を覗き込んでいた。
「お嬢様は……本当に具合が悪いのですか? それとも……」
一瞬の間があった。
「……マリー」
私は彼女を真っすぐに見た。
「あなたは賢い子ね」
「……お嬢様?」
「でも今日のところは、それだけにしておいて」
マリーが何か言いかけて、やめた。
しばらく私の顔を見つめてから、深くため息をつく。
「……承知いたしました」
忠実な侍女だ。
それがありがたかった。
夜になると、ルーカスからの書状が届いた。
追放の件を「保留」にするという内容だ。
理由は書かれていないが、周囲からの圧力に押されたのだろう。
私はそれを読んで、静かに折り畳んだ。
窓の外に目を向ける。
昨夜と同じ月が、今夜も明るく輝いていた。
(追放、回避ね)
さて、次の手を考えなければ。
病弱令嬢のままでいるのも一手だが、ずっとベッドに横たわっているのも飽きる。
前世の私は舞台を踏み続けて生きてきた人間だ。
舞台のない人生というのは、どうにも物足りない。
そろそろ社交界に戻る準備をした方がいいかもしれない。
もちろん、別の役どころで。
ベッドから立ち上がり、私は鏡の前に立った。
薄暗い灯りの中に、公爵令嬢の顔が映っている。
儚げな病人の顔ではない。
次の舞台を考えている、女優の目だ。
(さて、次は何を演じようかしら)
答えはすでに、頭の中にあった。




