第一章「婚約破棄? では泣きます」
シャンデリアの光が、水晶を砕いたように会場全体へ降り注いでいる。
王都随一と名高いランドール宮殿の大舞踏会。
エーデルハイト公爵家令嬢として今宵も完璧に着飾った私——フローラ・エーデルハイトは、シャンパングラスを優雅に傾けながら、会場の端でひっそりと思考を巡らせていた。
(前世の記憶が戻ってから、もう二年か)
前世、私は女優だった。
ただの女優ではない。
業界で伝説などと呼ばれ、三十路を超えてもなお第一線に立ち続けた——そういう人間だ。
この異世界の身体に目覚めた当初は多少の戸惑いもあったが、今となってはすっかり馴染んでいる。
むしろ「公爵令嬢」という役どころは、前世で最も得意としたジャンルに近い。
高貴で気品があり、それでいてどこか翳りを帯びた令嬢。
台本があれば完璧に演じられるのに——と思っていたが、この世界にはそれに代わる貴族の作法というものが存在した。
おかげで二年間、大した破綻もなくやってこられている。
ところが今夜、会場の空気がどこかおかしい。
視線の質が違う。
好奇と哀れみが混ざり合った、独特の目線——前世で何度も浴びたあの感覚だ。
舞台で言えば「大きな展開が来る直前」のそれ。
(来るわね、これ)
胸の中で静かに構える。
俳優の本能が、嵐の予感を告げていた。
そして果たして——私の予感は、完璧に的中する。
「フローラ・エーデルハイト」
低く、よく通る声が会場に響いた。
ルーカス・ヴィルヘルム第一王子。
金髪碧眼、均整の取れた容姿を持つ、絵に描いたような美丈夫だ。
ただし中身は自分が世界一好きなタイプの男だということは、二年間付き合ってよくわかっている。
なぜわかるかといえば、そういうタイプの役を前世で何十回も演じてきたからだ。
彼は広間の中心で、実に堂々と胸を張ってみせた。
「俺はお前との婚約を、ここに正式に破棄する」
会場が、静まり返った。
それから一瞬の後、蜂の巣をつついたような騒めきが広がっていく。
私はゆっくりとルーカスの方を振り返り——脳内では即座に分析を始めていた。
(ああ、やっぱりこれね。断罪シーンだわ)
前世の記憶の中に、この展開に近い台本が何本かある。
「婚約破棄された令嬢」というのは非常にポピュラーな役どころだ。
求められる感情の層は「衝撃」「悲嘆」「誇り」の三段構えが基本。
泣くか泣かないかは、場の空気次第で決める。
会場を素早く見渡す。
規模は大きい。
貴族の大半が集まっており、視線の密度も相当なものだ。
しかも皆、すでに「何かひどいことが起きている」という空気を察している。
(この状況なら……泣いた方が効果的ね)
決断は一秒以内。
私は内心で深く息を吸い、悲劇の令嬢モードのスイッチを静かに入れた。
「……殿下」
声を震わせすぎてはいけない。
震えすぎると嘘くさくなる。
ほんの少し、息を詰めるように細める——それだけで声質が変わる。
前世で学んだ技術だ。
「それは……本当のことでしょうか」
ルーカスは鼻で笑った。
「本当だとも。お前のような陰険な女を、これ以上傍に置くつもりはない。セシル、こちらへ」
彼が手を差し伸べた先に、淡い桃色のドレスをまとった少女が立っている。
セシル・モンテベルデ。
伯爵家の令嬢で、最近「清らかな聖女のような少女」として社交界で話題になっている存在だ。
なるほど、乗り換え先はこの子か——と、私の脳裏では冷静な観察が続いていた。
(でもまあ、今はそんなことはどうでもいいわ)
場の空気を読む。
会場にいる全員が私を見ている。
同情、好奇、蔑み——さまざまな感情が入り混じっているが、「可哀想」という色が最も濃い。
(いい土台だわ。ここに乗っかる)
私は静かに目を伏せた。
まつげをほんの少し震わせる。
呼吸を整え、胸の奥から感情を引き上げる——実際には前世で演じた「裏切られた伯爵令嬢」の記憶から引っ張り出したものだが、そんなことは誰にもわからない。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
一筋の涙が、頬を伝った。
会場が、また静まり返る。
今度は先ほどとは違う種類の沈黙だ。
「……申し訳ありませんでした、殿下」
声は震えない。
それでも柔らかく、かすかに滲むような響きで言う。
泣き叫ばない。
崩れない。
ただ静かに、尊厳を保ちながら涙を流す——それが最も効果的だと、長年の経験が教えてくれている。
「私に何かご不満があったのなら、もっと早くおっしゃってくださればよかったものを」
それだけ言って、私はそっと顔を伏せた。
それ以上は何も言わない。
沈黙も演技のうちだ。
「……なんと気高い方だ」
誰かが呟くのが聞こえた。
その声が、さざ波のように連鎖する。
「あんな仕打ちを受けて、なんて……」
「殿下、いくらなんでもそれはひどい」
「フローラ様……」
囁きが波のように広がり、会場を満たしていく。
私は表情を変えない。
ただ静かに、美しく——傷ついた令嬢として、そこに立ち続けた。
その一方で、脳内は至って冷静だった。
(よし、ウケた)
「フ、フローラ!? お前、なぜ泣く、なぜそんな顔をする!?」
ルーカスの声が、動揺で上ずっている。
予想通りだ。
彼は「悪役令嬢が激昂して醜態をさらす」という展開を想定していたはず。
静かに泣かれると、どう対処すればいいかわからなくなる——それがこういう人間の弱点だ。
「いいえ、殿下。泣いてなどおりません」
少しだけ顔を上げ、毅然とした声で言い切る。
頬には涙の跡があるのに「泣いていない」と断言する——この矛盾こそが、見ている側の胸を打つ。
(まあ実際、演技で流した涙なのだから「泣いていない」は本当のことよね)
ルーカスが何か言いかけて、止まった。
周囲の視線が、完全に彼の方へ向いている。
温かい視線ではない。
「なんてひどい男だ」という、冷たいそれだ。
私はもう一度静かに頭を下げ、そのまま会場の端へと向かった。
誰も止めなかった。
止めるどころか、通り道が自然に開いていく。
皆が、哀れな令嬢に道を譲っていた。
会場を出る直前、背後でルーカスが叫ぶのが聞こえた。
「な、なぜだ!! なぜ俺が悪者なんだ!! 彼女の方が悪役のはずだろう!!」
その言葉が、火に油を注いだようだった。
あちこちから冷ややかな声が上がる。
「悪役って……ご自分の婚約者に向かって」
「あの涙をご覧になって、まだそのようなことを」
「王太子殿下は、正気でいらっしゃるのか……?」
扉を静かに閉める。
廊下に出た瞬間、私は肩の力をすっと抜いた。
(ふう。完璧ね)
侍女のマリーが、血相を変えて駆け寄ってくる。
「お嬢様! 大丈夫でございますか!?」
「ええ、平気よ」
さらりと答えながら、ハンカチで目元を軽く拭った。
もう涙は出ない。
出す必要がないのだから。
「ですが、婚約破棄などと……! さぞかしお辛いでしょうに!」
「辛い?」
少し首を傾げながら、マリーの顔を見る。
彼女は本気で心配してくれている——その純粋さが、少しだけ申し訳なかった。
「大丈夫よ、マリー。あれは……まあ、なんとかなるわ」
具体的な計画はまだない。
でも今夜の反応を見る限り、追放や断罪は当面ないだろう。
世論は完全に私の味方だ。
それさえわかれば、今夜は十分。
マリーが不安そうな顔をしたまま、私の後ろをついてくる。
廊下の窓から、夜空が見えた。
月が明るく、よく晴れた夜だ。
(追放は免れたとして、次はどう立ち回ったものかしら)
今夜の一手は成功した。
だがこれはまだ幕開けに過ぎない。
向こうがどう動くかにもよるが——まあ、その都度考えればいい。
前世でも台本なしの現場は何度も経験してきた。
アドリブは、むしろ得意な方だ。
(なんとかなるわよね、きっと)
廊下の奥、舞踏会場からは依然として騒めきが聞こえてくる。
ルーカスの声も混じっており、なんだかひどく慌てているようだ。
少しだけ、申し訳ない気もした。
——けれどそれはほんの一瞬のことで、私はすぐに次のことを考え始めていた。
今夜は上々の滑り出し。
明日からの舞台に向けて、さっさと英気を養わなければならない。
女優というのは、どんなときも準備を怠らないものだ。
たとえ舞台が異世界であっても——それだけは変わらない。




