伍
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那野は間違っても怜と出くわしたりしないように、廊下を歩くときは極力神経を張り巡らせていた。そうなると、自然と肩は強ばり、次第に疲れてくる。那野の肩は重たい石を背負うようにだらんとなって、うなだれているように見えた。
あれから、桃花とのわりかし楽しい掃除を終了した那野の部屋は、少なくともこの屋敷に見合ったものへと変貌していた。
桃花とは上手くやれそうね。那野は掃除が終わり、この後はごゆるりとおくつろぎくださいませ、と桃花に言われてから、所在無さげに部屋をうろうろしていた。
おくつろぎくださいませ、と言われてもあたしは何をしたら、くつろぐのだろう。バカバカしくも難題なこの疑問に真剣に取り組もうかとも考えたが、それこそ馬鹿らしくなって那野は途中で放棄した。
なので、那野は自分が今おくつろぎ中なのかは、なかなか疑問である。
「そうだ、荷物整理よ!」
引っ越して一番最初に取り組むべきことを、先程の騒動ですっかり忘れていた那野は唐突に叫んだ。
部屋を、するべきこともなくうろうろしていると、那野はどうしても怜のことを考えてしまうのだった。それを追い払うには何かに熱中するしかない。那野はそう考えたのだが、荷物整理が、嫌な思考をずっと追い出せるほど夢中になれるような素敵なものとは言い難かった。
しかし、他にやることが全くない。
桃花は今日はゆっくりして、荷物整理や、この家に住む人々との対面などは全て明日のつもりだったのだろうが荷物整理ぐらいは今日からやってもいいような気がした。
――――ので、部屋から出て桃花を探して回っているのだが。(大量の荷物、キャリーバッグや旅行カバンは桃花が後で部屋に運ぶからということで門のところであずけていた)
「…怖いわね」
なかなかトラウマの根は深かった。
さっきまで那野の無意識化で押し込めていたモノが、今はっきりと那野の心を侵食しつつあった。
「いつ…出会うかわからないってのもなかなかどうして怖いものがあるわね…」
次の角を曲がったら、怜が待ち構えているかもしれない。那野は疑心暗鬼になりつつある自分をどうにかしようとして頭を振った。
桃花はどこにいるのかしら。
まだ、よく知りもしない屋敷の迷路のような廊下に、案内者も付けずに出てきたことを早くも那野は後悔していた。
先達はあらまほしきことなり
徒然草の一節が思い浮かんだ。教訓として伝えられたはずの説話は、那野の元へは届いていなかったようだ。那野は過去から学ぶことの大切さを思い知ることになった。
「あたしの人生って…きっと後悔ばかりね」
自虐的な笑みを浮かべてみる。
「それにしても、あたしは部屋に戻ることも、桃花に会うこともできないんじゃ…」
前進も後退も出来ない状況に陥ることを恐れて那野は再び頭を振った。しかし、那野は今来た道順を覚えている自信は毛ほどもなく考えることすら億劫であったというのが事実であった。現実逃避はどこまで行っても那野についてまわる。那野は大丈夫よ、と自分に言い聞かせるようにして自身の勘を頼りに前へと進んでいった。
桃花は屋敷の中庭をほうきではいている手を止めてため息をついた。仕事中にため息などもってのほかだと気づいて、情けなさに桃花はまた、ため息をつきそうになった。
「那野さん大丈夫かな…」
先ほど一緒に掃除をした時は全然普通だったので、立ち直りが早い人だなぁーと素直に感心していたのだが。そんなわけあるはずがないと、今になって不安になってきたのだ。
桃花は二番目に嫁いできた花嫁を思い出した。その花嫁は、怜の殺意、悪意、憎悪をまともに受け危うく命までもを落としそうになったのだ。もちろん婚姻は破棄、その花嫁は逃げるように実家へと帰っていった。
何がそんなに気に入らないのだろう。彼は芹何財団の現当主が息子。やがては巨万の富と圧倒的権力を受け継ぎ、大勢の人間の上に立つ人間だというのに。なぜ、向かいいれる花嫁にこんな仕打ちをするのか。ただの嫌がらせにしたら達が悪いにも程がある。桃花は理解に苦しんだ。そして、やがては理解することすら諦めてしまったのだった。
桃花は自分の心の傷が疼くのを感じながらも考え続けた。何としても、今度こそは、那野さんを守らなければ。呪文のように何回も自分の胸に刻みつける。
桃花は、怜の眼光に、何か鋭い憎悪の感情が見え隠れしているそれが実害を及ぼしている気がしてならなかった。実際、二番目の花嫁は死線をさまよったのだ。それは、桃花だって例外ではなかった。その話をするには桃花がここに来た当初へと時間を巻き戻さなければならなくなるのだが。
今でも、桃花は怜の前では怖気付いてしまう。今日など、怜に逆らえず、那野をほこりだらけの部屋へ言いつけられるがまま通してしまったのだ。怜を恐れていない人間など、芹何財団現当主でありながら怜の父親、芹何匡和ただ一人しかいないように思う。匡和が怜をほったらかしであるためにこういう状況になったため桃花は何としても、怜を恐れぬ物言いが、追い詰められた状況だけではなく普通の状況の時でも出来るようにならなければと決意を固めていた。
長い長い思案から返ってきた桃花は、この掃除が終わったら那野の様子を見に行こうと、止めていた手を再び動かしだした。
桃花どこよぉー! というか、なぜ人っ子一人いないのよぉー! ちょっと! おかしいんじゃないの?
那野は桃花に会うことを諦めて、自分の部屋を探していた。
個々の部屋は開けられなかった。声をかけて中を覗けばいいのだが、できなかった。もしかすると、桃花や、誰か他に人がいたかもしれなかったのに。だが、怜がいるかもしれないと考えるとどうしても声がでなかった。
やはり、部屋から出るべきではなかったのだ。那野は自分の気持ちを押し込みすぎて、本当の気持ちが自分でもわからなくなっていた。
別に、幸せな夫婦になりたいだとか、喧嘩をしても、またお互い手を取り合うことができるような仲になりたいだとか、幸せな家庭を築きたいだとか、そんなこと、別に思ってなかったわよ。
那野はぶつぶつと呟きながら、とぼとぼと歩いていた。
でも、あまりにも酷すぎるわ。そんな贅沢、望んでないんだから、せめて普通の、あたしを殺そうとしない夫がよかった。
強くならなきゃ。あたしは、強くならなくてはならない。
婚姻破棄だけは出来ない。那野はギリリと唇をかみしめた。娘の幸せな結婚だと信じて疑わなかった父と母を、笑顔で送り出してくれた父と母を、裏切るような真似、絶対にしたくない。あたしは、そんな非道な人間じゃないわ。実の親を裏切るような人間じゃない。あんたよりはずっと、ましな人間よ。
今の那野は、下をむいて何やらブツブツと呟いていたので、まるで、精神異常者のように見えた。
あたしは強くならなきゃ。強く。強くならなきゃ。
あたしは強くならなきゃ。あたしは強くならなきゃ。
あたしは強くならなきゃ。あたしは強くならなきゃ。
あたしは強くならなきゃ。あたしは強くならなきゃ。
偽りでもいい、幸せな振りを。理解ある夫を持って、私は幸せです。そう、両親には手紙を送ろう。会いにくると言われたら、それは…それは…何とかして…。
結婚式は、そつが無いよう土下座をしてでも怜に頼み込めばいい。笑顔を作って、作って、作って。幸せを装って。
あたしなら出来るわ。
大丈夫よ。
桃花もいる。
大丈夫よ。
上手くやれるわ。
――――まるで、精神異常者のように。
――――まるで、精神障害者のように。
那野の、どこか虚ろな瞳は、ゆらりと揺れて漆黒に染まった。
あたしは、――――――強くならなくてはならない。




