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 那野はそのまま調理場を通り過ぎると、掃除用具置き場へ向かうことだけに専念した。

広い屋敷は目的地に向かうだけでも時間をとる。

 ようやくそれらしき部屋を見つけたときは、少し安心した。

桃花に持ってきてもらえばよかった。そう思い始めていたからだった。

 ここもたてつけが悪いんじゃ。そう思ったのだがこの扉はスルっとなめらかに開いた。やはり、那野の部屋だけのようだ。恨めしい。

 中は真っ暗で、ひんやりとしていた。寒いぐらいだ。那野は目が慣れるまでじっとその場に佇んだ。明かり、電気はないのかしら。壁をまさぐってみるもそれらしきものは無い。那野はおとなしく待つことにした。すると、だんだんと目が慣れてくる。木でできた桶、雑巾、掃除機、モップ、はたき、ほうき、なんでもありそうだ。

 すると、壁の一角に置いてある、盛り上がった白い布が動いたような気がした。那野は動きを止める。――――何かしら。

近寄ってみた。

 それは、人のようだった。丸まって、眠っているようだ。誰にしろ、起こすほかない。こんなところで寝ていたら、それでなくてもこんなに涼しいのだ。風邪を引きかねない。

「あの、ここで寝たら風邪ひきますよ。すみません、起きてください。…………起きやがってください。起きやがれー。…おい」

 那野の声はだんだんと低くなっていった。全然起きない。仕方なく、体を揺する。

「あの。聞いてください。あたし…平家物語朗読できるんですー。ちょっと! 聞きなさいよ!」

 全然まったく微塵も起きない。

 まさか、死んでるんじゃ―――。

ふと、とんでもない考えが那野の脳裏をよぎった。

「ちょっと! 大丈夫ですか! 息してる? ちょっと!」

「…うるさ…」

「どうしよう…。どうしよう…。とりあえず脈。息。息、心臓!」

那野は大慌てで体をこっちに向かせると心臓に耳を当てた。

すると、ドク、ドク、ドクと、心臓が脈打ってるのがわかった。

 肩の力が一気に抜けたのが自分でも分かった。

―――よかった死んでな―――

「消えろ」

その時、低い、殺意をはらんだ、声が掃除用具置き場に響いた。

ゾクリとする。なんだ、この寒気。この鳥肌。―――怖い。

悪寒が背筋から全身に広がった。殺気が、那野の心臓を貫いた。本能が瞬時に近寄ってはダメだと警告する。那野は瞬時に男から飛びのいた。そして、声の主の顔があらわになる。

「怜…さ…ん」

 写真でしか見たことがない顔が、そこにあった。那野の部屋を掃除するなと命令した張本人がここにいた。漆黒の髪と瞳が、恐ろしいほどにあたりの暗闇と調和している。

那野の言葉で怜は体を起こした。

 心臓が胸の奥で暴れ狂う。怜の鋭い眼光が、那野を凝視する。

「聞こえなかったか、俺は消えろと言ったんだ」

「…わ、私は、あなた…の」

「…嫁か…それがどうした。今すぐ消えろ、殺すぞ。醜女の分際で」

「なっ…! なんですって!」

 那野の悲鳴は声になった。あ…。那野の声は悲鳴になった。

冗談を言っている空気ではなかった。本当に殺される。殺人鬼の目をしていた。

 最低だ。あたしの夫は、桃花の反応通り、そして――――あたしのように、最低な人間だった。

同族嫌悪、ふとそんな言葉が()き起った。


「…は、殺せばいいじゃない。何なのよ! あたし何でここに呼ばれたのよ! 殺したきゃ殺せばいい!ふざけんじゃないわよ! 死んでたまるもんですか!」

 怒りと恐怖で頭の仲はグチャグチャだ。言っていることが、ちぐはぐである。

「…あ、あなた、だから嫁に三回も逃げられるのよ! 馬鹿じゃないの!」

 ――――ザワリ

那野がそう言ったとたん明らかに空気の質が変わった。怜の冷たく大きな手が那野へ向かって伸ばされる。

 ――――まずい

そう思ったが、もう遅い。怜の大きな手はしっかりと那野の首をとらえていた。

「どこでそれを…」

 ここで、あたしが正直に言ったら、あの女中さんたちは、どうなるのかしら。

想像もつかないほど、恐ろしいことになるような気がした。それは『気がした』だけではすまないだろう。

「…わ、忘れたわ」

「そうか、それは残念だ」

 らしくない那野の答えに、怜は、不満どころか、どこか、嬉しそうだった。

 震える声で言った那野を見つめながら、怜が残忍な笑みを浮かべた。残酷な笑み。そしてその瞳はどこまでも冷たかった。

「一つ、訂正してやろう。逃げられたんじゃない、逃げるよう俺が、――追い込んだんだ。お前は…どうなるんだろうな?」

 恐怖で何も言えない。何も考えられない。ただ、自分の首に冷たく、大きな手を確かに感じていた。

「それと、(せり)()財団は、―――殺人をももみ消すほどの権力があることを覚えていろ」

 そう言うと、怜はゆっくりとつかんだ手に力を込めていった。喉に圧迫感を感じる。空気が、酸素が、こんなにも恋しいなんて。

「あぁ…お前死ぬんだったな。覚えてろなんてそんなこと、お前のような馬鹿には不可能だな…」

 声にならない悲鳴が、喉に絡みついた。

殺される。殺される。殺される。頭の中で連呼した。

嫌、嫌よ。生きたい。生きたい!

 何と皮肉な。脳裏にはセミ少年。死ぬ間際に思い浮かべた顔は母親でもなく、父親でもなく、なんの血縁関係もない、先ほど出会ってすぐに別れたあの少年だった。

 あたしは、今のあたしはセミと同じじゃないか。あたしが馬鹿と言ったセミと。

 那野は今になって、あの時の軽はずみな発言を身をもって再び反省することになった。

もう、あたしなんか、死ねばいいのかもしれない。

 しかし、こんな、こんなとこで、死にたくない。体はそう叫ぶように暴れだし、両の手は怜の手を引き剥がそうと必死に掻きむしった。

「無様だな。合っているじゃないか、醜女。―――死ね」

 あぁ、終わった。あたしの人生、滑稽すぎるわ。

朦朧とする意識の中でぼんやりとそんなことを考える。

 殺人をもみ消すね、芹何財団の権力、覚えておくわ。まぁ、死人が覚えていてもなんだけどね。最後にひと睨みしたい―――――

 そう思った瞬間、誰かが、誰かが、叫んだ。

「お止めください―――――――――っ!」

 その声で、悲鳴のようなその声で、一瞬つかんでいた怜の手がゆるめられた。那野はそのチャンスを逃さなかった。馬鹿力で怜の手を引きはがし這うようにして出口へと向かう。

 無様でもなんでもいい。生きてやる。

途端に肺に入ってきた空気に那野は咳き込んだ。気持ち悪い。吐きそうだ。

 那野が出口へと這っていくと入れ替わりに桃花が那野の横を通り過ぎた。

「怜様…こんなことをいつまでお続けになるおつもりか!」

 誰だ、この力強い声の主は。これは本当に、桃花か。こんなに、強い子だったのか。


あぁ、ヒーローだ。


「貴様…どうなるかわかってるのか」

「何年ここに務めているとお思いか、承知の上でございます!」

「お前はクビだ」

「那野様…那野さんを放っては行けません。とくにあなた様が傍にいるうちは」

「貴様…また、その口をきくか。身の程を知れ! あの時潔く逃げればよかったものを」

「不幸な花嫁を守るのが、わたくしの使命でございます」

 桃花の言葉を聞いた瞬間、息苦しいほどの威圧感が室内を満たし、怜の瞳がさらにドス黒い怒りに染まった。目で人を意殺せそうな勢いだ。

「…勝手にしろ!」

 しかし、怜は何もせず、吐き捨てるようにそう言うと掃除用具置き場の扉をズガンと蹴るなり蔑むような侮蔑の視線を那野に一瞬向けてどこかへ消へてしまった。

「那野さん、大丈夫でございますか!」

 桃花が大慌てで飛んでくる。その言葉で那野は我に返った。

「大丈夫…。あ、ありがとう」

 心の底から感謝を述べた。

「申し訳ございません。本当に、申し訳ございません」

 なんども頭を下げる桃花を見て、ああ、いつもの、あたしが知っている桃花だ。そう思った。

「あなたって、強いのね」

「いいえ、私は弱くて脆いです。しかしながら追い詰められると、私は意外と出来るんです」

 桃花は少し、嬉しそうに、微笑んだ。

「それより! 私が取りに行くべきでしたね。本当に申し訳ございません。まさか、怜様がこんな所においでになるなんて…」

「…ここで、寝てたみたい」

 怜の顔を思い出して震えた。

「さぁ、こちらに。掃除は私がやっておきますので」

「いいの、あたしもやるわ」

「いいえ、ダメです」

「お願いよ」

 那野が懇願するようにそう言うと、桃花はうっ…と息を詰まらせた。

「…那野さん、その顔ずるいですよ」

「だってわざとだもの」

 





 那野は、まだ足に力が入らなかったので、桃花に手を借りて立ち上がると再び掃除用具置き場に足を踏み入れた。

 まだ、怜が居そうな気がして、那野は少し怖かった。掃除用具置き場、これから一人で入れるかしら。

那野にトラウマを植えつけた怜との生活が、今日から、―――――始まった。


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