壱
***
うだるような暑さに蝉の鳴き声が拍車をかけていた。
立ち止まって空を仰ぐ。青い青い空。その空には入道雲が浮かんでいた。―――――夏だ。
「あぢぃ…。暑いわよ夏! 馬鹿じゃないの!」
その炎天下の下、古びたバス停の前で毒を吐く、女が一人。相当の田舎なのか、女以外の人は見受けられない。
女を包む空気は、言葉に反してどこか上品なものがあった。それは、その女が身に付けている服装に起因しているのかもしれなかった。
純白の白いワンピースに麦わら帽子。白いサンダル、そして腰まで綺麗に伸ばされた黒髪。どこか、清楚さを感じさせ、見た目だけで言うと、どこかのお嬢様の様にも見えた。
女の脇には大きな荷物がでかでかと道路を占領している。車も走っていないこの道路は寂しいのか、大人しく女の荷物を受け入れていた。
その旅行バッグと思われる巨大鞄はパンパンに膨れ上がり、さらに女はキャリーバッグも引いていた。そして、そのほかにも二、三の手さげ鞄に、同じく破裂しそうなぐらいに荷物が詰め込まれている。
女は荷物が多いと言うが、これは度が過ぎているような気がした。
キャリーバックには二輪のキャスターが付いていてギリギリ女にも運べるらしい。こうなってくると、中が気にならないでもない。
「挫けそうだわ…」
やはり重いのか、女は気だるげにそう呟くと、脇に下ろした旅行かばんを抱え上げ、キャリーバッグを重たげに傾けた。それから、手提げ鞄をよっこらせ、といういかにもなセリフと共に持ち上げる。そして再び、長い長い道を重い足取りで、進み始めた。
それは、夏の、暑い日のこと。何かが始まる日のこと。
「セミってなぁー二週間で死んじゃうんだぜー」
知ってるわよそんなこと。何、その自慢気な顔。
先程の女、那野はあれから数時間経った今、少年と肩を並べ歩いていた。
年齢からすると、8歳ぐらいだろうか。少年は快活そうな笑顔を浮かべ、髪色は焦げた茶色がかっている。肩を並べ、という表現は些かおかしいものがあるかもしれない。少年の身長はせいぜい那野の腰ぐらいまでなので肩は並んでいない。凸凹である。コンビである。
「あら、そうなのー? お姉さん知らなかったわぁ~」
那野は気持ち悪いほどの猫なで声で少年の言葉に応じた。
まぁ、ここで『知っているわよ』と切り捨ててしまってもよかったのだけれど、まぁね。あたしは、優しいお姉さんだしね。
言葉だけでなく、腹の中も曲がっているようだった。
「うそっ! 姉ちゃんばかだなぁー」
そんな優しいお姉さんに少年はバッサリと切り捨てるような発言をした。
すると、静かな空気に不自然な音が―――――
――――ピキッ
何かが切れた音がした。
見ると、那野のこめかみは悲鳴を上げていた。
「…ははは。はは、はははは」
不気味な笑い。鵺のような笑い。さながら、何とかレンジャーの悪役のようでもある。
殴ってやろうかしら。
那野はわりと真面目にそう思った。実際、那野の手は不自然に少年へと向かっている。
暑さが拍車をかけるように那野の苛立ちを膨らませていた。普段なら軽く流せる? 内容のことでも、それはガキに本気でキレるまでの威力を持っていた。
「だから泣いてるんだとよ。もっと長く生きたいよう、生きたいようって」
意外な言葉が、少年の口から出た。
「…へ、へぇ」
怒りは少年の先の言葉によって途端に終息した。何か悟ってるわ、こいつ。なるほど。まぁ、死生観は人それぞれだものね。
那野は一人頷いてから妙に納得したのだった。
なるほど、なるほど。そんなことも言うのね、この生意気なクソガキは。
終息したかと思われた怒りは中々根強いものだった。
「……セミも案外馬鹿なのね」
さきの仕返しなのか、大人気ない発言が那野の口から出る。
「何でだよ!」
男の子は憤慨したように那野の言葉に食らいついた。見ると、何かを否定されたような悲しい顔をしていた。
あぁ、こいつは、良い奴なんだな。那野はその瞬間に感じた。
人のために怒れるんだろうな。きっと、人のために泣けるんだろうな。そして、人のために、笑えるんだろうな。
それでも那野はー―――――。
「だって、生きたい、生きたいって言って、ただそれだけで何も行動を起こさないじゃない。ただ、鳴いてるだけ。結局は二週間足らずで死んじゃうんでしょ? 願望を口にして、欲望を口にして、口にするだけ。それをつかもうとしない。その努力もしない。ただの馬鹿よ」
那野は怒りに任せて、嘲り続けた。たかが、セミごときに。本気で。
しかし、『怒り』の矛先は、なぜか那野自身に向かっているようだった。
……まぁ、努力も何もないけれど。だって、セミの話だもの。そう、セミの話。
『口にする』はおかしかったか、まぁ、このガキは気がつかないか。
ここまで考えが至ると、ふーっとため息をついて、那野はチラリと少年を見た。
「……………」
男の子は下をむいて黙り込んでいた。
――――しまった、やってしまった。
最低だ。取り繕う術はない。
この時ようやく那野は自分の失態に気がついたのだった。
――止まらない言葉は、――溢れ出す感情は、人を深く傷つけることがある。
「どうした、セミ少年」
那野は何気ない風を装って聞いた。
「…ううん」
気持ちの悪い汗が那野の背中をつたう。
ああ、またやってしまった。子供は、苦手だ。とても、傷つきやすくて。そして、あたしに反論できる、対抗できる、言語能力が未発達だ。
まぁ、あたしもまだ子供なんだけど。
「そ、その話、誰に聞いたのよ」
「…じいちゃん」
「そう、そのおじいさん、―――――物知りなのね!」
那野がそう言った瞬間男の子の肩がビクッと震えた。
「……!」
それから男の子はすごい勢いで顔をパッと顔を上げる。
「そうなんだよ! じいちゃんはカッコイイんだ!」
次の瞬間には、男の子は太陽のような、というごくありふれた比喩がしっくりくる笑顔を浮かべていた。
―――――綺麗な笑顔、するなぁ。あたしにもこんな時代があったかな。
「そうね! あんたのおじいさん素敵ね!」
そう言うと、ふふふー。少年は両手を広げくるくる回り出した。道路の真ん中を歩いていた那野たちだったが、車ひとつ通らない。周りは田園風景だ。
「何よ、その動き」
「はっはっはーよろこびのまい!」
セミ少年は、回るスピードを上げた。傍から見たら、すごく意味不明な状況だろう。若い女の横に、すごい勢いでブンブンと回る少年。迷惑極まりない。しかし、前述の通り辺り一帯人っ子一人いなかった。
「はっはっはー喜びの舞い? へ…おかしな名前ね」
少年は、那野の先程のひどい言葉を忘れたわけではないだろう。しかし少年は、笑っていた。確かに笑顔だった。作り物ではない。自然なものだった。人口的じゃなく自然的だった。『自分のことは棚に上げて』とはよく言ったものだが、他人のことを棚に上げる人間を那野は初めて見たのだった。
その少年は、素晴らしく純粋で、純真で、見ていて、やっぱり自分が霞んで見えて。劣って見えて。自分の惨めさが際立って。自重して。
那野はやっぱり、苦虫を噛み潰したような顔をしながらそれでも笑い、少年は、やっぱり、太陽のような顔をしながら笑っていた。
そんな二人は歩いていた。どこまでも、そしてどこまでも。
「溢れそうだ!」
少年は満面の笑みでそう叫んだ。
「何が」
「ひーみーつー」
子供ってほんとによくわからないわ。まぁ、あたしも略。
「あんた力持ちねー」
このセミ少年は、褒めれば褒めるほど笑顔になるらしかった。そして、機嫌もよくなった。
その顔は本当にくもりがなくて、キラキラ輝いていて、那野は本当に少年が羨ましくなった。
「持ってやろうか? もう一つ」
「あらそうじゃあお願い」
我ながら鬼だ。
「……うっぐっ…」
うめき声が少年の口から漏れた。
やはり、やりすぎたか。先ほど、盛大に落ち込ませたにもかかわらず、傷つけたにもかかわらず、調子に乗りすぎた。
あたしは、どこまで行っても最低な人間でしかないのね。人の皮を被った化け物でしかないんだわ。
「はっ…軽いな。まかせろ。ちゃんと連れてくから」
よたよたと、ふらふらと、頼りなく歩いていく。見るにも耐えない少年の姿。
那野はそこまで鬼ではなかった。いや、ただそんな自分を見たくないだけ。那野の体にはちゃんと赤い血が流れている、けれど、血液成分は疑わしいものだ。
「あ、あーなんかあんまり軽すぎても物足りないわぁー」
「…そ、そうか?」
「やっぱり返して」
少年は、那野の言葉に少し安心したかのような顔を見せると素直に荷物を返した。
「ま、まぁ、また持って欲しくなったら持ってやるよ」
その言葉に、吹き出しそうになった。
そんな余裕があるような顔には見えなかったわよ。
勿論、口には出さなかった。
「芹何家ってのはここ!」
少年は少し先にある大きい大きい日本家屋を指して立ち止まった。
聞いてはいたが、凄い…。
「姉ちゃんこんなとこに何の用だよー」
「あたし、ここに今日から住むのよ」
「え、そうなのか?」
心底驚いたというように少年は目をまんまるくした。
「ええ」
「…へえー」
「じゃあ、もう行くわね。ありがとう。アメとか持ってたらよかったんだけど」
そんなことはどうでもいいというように、少年は頭を振る。
「な、なぁ…また…」
「ん? 何」
「…ううん、何でもない」
少年は地面を向いた。
「そう、じゃあ、本当にありがとう。おじいさん、大切にするのよ」
言えた口ではないけれど、那野は言った。
「それから――――、あたしはここにいるから、会いたかったらここに来なさい」
「う、うん! 来る!」
…あぁ、わかりやすいなぁー。少年の顔はくるくる変わって面白かった。
家の人に迷惑かな、そう思ったが那野は取り消さなかった。
「じゃあね行くわ」
「うん。バイバイ」
「ばいばい」
那野はインターホンを押した。
少年は、もときた道を引き返した。
「…喜びがだよ」
歩きながらそう呟いたセミ少年は、巨大な門の前に立っている不思議なお姉ちゃんを振り返った。
「溢れそうだったんだ」
門の隙間から覗いている家屋は本当に大きくて、そのお姉ちゃんがすごく小さく、弱い存在に見えた。
そういえば、名前聞き忘れたな。そう思ったが、セミ少年は引き返してわざわざ聞こうとは思わなかった。
だって、会いに行けばいいのだから。
初めての友達。――――大切にしたかった。




