拾捌
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多細胞生物であるところの那野は青年を見つめて、考えていた。
あたし、男だったわ。
「ってオマ…」
まぁ、そうなるだろうよ。
「また不法侵入したのかっ!」
えぇ!
「風船か? しつこい奴だな。そこは芹何怜の嫁さんが座るところだ。ガキが座るとこじゃない」
「あ、芦切さん! この方が怜様のお嫁さんです!」
「はぁ? んなわけねえだろ、こいつおと――――」
そう言いながら、芦切は那野の方を瞥見した。
あっああああああああああ! 何故、あたしは男なんて―――まさかこんなに面倒くさいことになるとは思わなかった。
那野は叫び出さんばかりに腰を浮かせる。その思いとは裏腹に、芦切は冷静に言った。隣の空の座布団を見たようだ。
「おい、怜はどうした」
「…それがまだで」
ふうん、それから押し黙って那野を直視した。
「うっ…」
那野は言葉に詰まる。そうもまっすぐ見つめられると逆に逸らせない。芦切は、視線を那野に固定したままズィッと近づいて行った。
那野は固まったまま芦切を見つめていた。会場にある静けさが異様すぎた。
どこか気持ちの悪い緊張感をつくり出している、芦切と呼ばれる目の前のこいつは何者なんだと、冷静な部分の那野は考えていた。
近づいて、近づいて。しゃがんだ。お互いの顔と顔との距離は一センチほど。
近い近い近い近い近い!
那野は表情にはおくびにも出さず、心の中で叫んだ。
息もできない。まばたきもできない。何もできない。すべては次の芦切の行動にかかっていた。
「あ―――――」
芦切の息が顔面にかかった。何か、甘いにおいがした。なにかしら。
そんなことを思っているうちに頭にポン! と衝撃があった。那野の頭に芦切の手がのっていた。
それからその手で無造作に髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜられる。依然と互いの距離は一センチのままで。
何のプレイですか?
真顔で言いそうになった。すんでのところで我慢する。
プレイとか言うな。
芦切の顔がそう言っているように見えたけれど、きっと気のせい。
ああ、こんな大勢の前で。あたしは何をやってんだ。あたしは何をされてんだ。我に返る。
刹那、再び声がした。
「泣くな」
「…は?」
意味が分からなかった。何言ってんのよこの男。少し、ムッとする。
「大丈夫だ」
「…あ、あっ…あたし、泣いてないわよ!?」
予想以上に動揺した声が出たことに自分で驚いた。
「泣くな。男が泣くな。訳は知らねえけど、大丈夫だ。俺がいるからな」
そう言われた途端、体に入っていた力が抜けていくのを感じた。
な、何言ってんのよ本当に。馬鹿ね。――――ほんと、ほんとに。
「だ、から…」
あ、あたし男じゃないって。
気持ちが楽になったのを感じた。本当に泣きそうになった。不甲斐ない。
いつのまにか、那野を侵食していた漆黒は、完全に鳴りを潜めていた。
「俺の名前は、芦切柊。芹何国一の補佐役だ。以後、御見知り置きを」
「……………」
…え、なんですって? え、今何て言った? は、補佐?
那野は芦切の言葉に目を白黒させた。
…右腕。この人が。重役で上から二番目。単細胞生物であるこいつが。へえ。なるほど。うん。
―――――信じられるかっ!
だって、どう考えたってこいつ、十八かそこらへんでしょう! あたしと同じくらいでしょあんた! 何よそれ、頭湧いてんじゃないの?
…うん? でも、待ちなさいよ。そんじゃまぁ、あれね。アレな感じなわけね。ええ。
多細胞生物のあたしは、――――あんたより偉いわよね。
突拍子もない発想は止まることを知らない。それからの那野は思考する中で、かなり遠いところまで来てしまっていた。その中で、ほくそ笑んでいる那野は、しかしながら、いつもの那野だった。戻っていた。瞳は透き通って、光で満ち満ちていた。それはセミ少年を思わせる。
黙って那野の瞳を見ていた芦切は、少し浮かんでいる透明が光に反射して、柄にもなく綺麗だと思ったのだった。
最終的に那野の思考は、「芹何財団を乗っ取るのも夢じゃないわね。何とかして国一を倒せばブツブツ…」というところまでいきました。




