拾弐
怜は、那野の部屋の前につくと、音も無く部屋に侵入した。さながら夜這いのようであった。
那野は机に突っ伏して寝息をたてていた。
怜は近づいてゆく、ゆっくりと、忍び寄るように。音も無く、気配もなく。
――――カサリ
怜のつま先が何かを蹴った。
――何だ。
怜はほんの気まぐれでそれを手にとった。それは、――――ぐしゃぐしゃに丸められた、手紙のようだった。暗い中でもよくきく怜の目は綺麗な字の羅列を、これまた気まぐれで追い出した。
お父さんお母さん。私は無事に芹何家に着くことができました。安心してね。
最初の一文で、あぁ、こいつが書いたのか、と理解した。
ひどく、綺麗な字だった。さながら、教科書に出てきそうな字だ。
途端に興味が失われていくのを感じた。しかし、それは――――――――次の文を読んで崩壊する。
突然ですが、理解ある夫を持って、私は幸せです。幸せ者です。
は…? 意味が分からなかった。
怜さんはとても優しい人です。私にはとても勿体ないくらい。だから、心配しないでね。私はとても幸せよ。
読んだ。怜は読んだ、読んだ、読んだ。何かを探すように、正しい言葉を探すように、自分の本当の姿を探すように。
自身を探し求めた。この手紙の中に、自分を、自己を探した。
結婚式は、たぶんこっちでやると思うわ。楽しみにしていてね。
怒りが爆発した。戸惑いが爆発した。
……俺が、いない。どこにも、いない。
こいつは何を見てたんだ。こいつは何を見てるんだ。
怜は吐き気を堪えた。押さえ込んだ。心臓を押さえつけた。えぐるような勢いで。もぎ取るような勢いで。
「はぁ…はあっ…」
肩で息をする。頭痛が起こって目眩がした。立っていられなくなりそうだ。世界が、暗闇に、もともと暗闇に見えていた世界がさらなる漆黒に見えた。
暗闇の中にぽつんと手紙だけが、この手紙だけが不気味に浮かんでいた。それは、自分を嘲笑っているようで、見下しているようで。暗闇に浮かんでいた怜は幼児化していて、膝を抱えた。両の手で耳を塞いだ。
俺の…存在を…勝手に、消すなあああああああああああああああああ。
悲鳴のようで、それはやっぱり悲鳴に間違いなくて、悲しくて、かなしくて、カナシクテ、子供のころの小さな怜は、叫び続けた。その声は、―――――やっぱり誰にも届きはしなくて。
止めろ。止めろ。止めろ。
ゆらりと、怜の体がいちだんと揺れた。
というのは嘘。全部、真っ赤な嘘。
瞬間、怜は急速に現実に引き戻された。無理やり、半ば強制的に怜の手元にある手紙によって。それからは止まることなく一気に読んだ。
怜は私を殺そうとしたの。私を醜女と言った。消えろと言った。私の首を絞めた。私は逃げられなかった。反撃もできなかった。私は無様に助けられて逃げたの。
私は、私はね、別に、幸せな夫婦になりたいだとか、喧嘩をしても、またお互い手を取り合うことができるような仲になりたいだとか、幸せな家庭を築きたいだとか、そんなこと、思ってなかった。
思ってなかった。…でも、私は、あぁ、あああああ、あああああああああああああああ! 嘘。嘘だ!
私は、私は思ってた。想ってた!
だって私は、こんなにも、―――――ショックを受けている。
幸せになりたかった。私の幸せを、怜に心から分けてあげたいと、そう思いたかった。演じるのじゃなくて純粋に思いたかった! お母さん!
嫌だ、嫌だよ!助けて!私は、私は幸せじゃない。全然幸せじゃないの!助けてよ!お父さん!私を助けて!今すぐここから出して!ここから、今すぐに!今この瞬間に!
じゃないと、私は、
死んじゃうわ
ここで、手紙は終わっていた。
悲鳴のようで、それはやっぱり悲鳴に間違いなくて、悲しくて、かなしくて、カナシクテ、手紙の中の那野は、――――泣いていた。
手紙の中では、素直に泣けていた。
怜は那野に近づいた。音も無く。気配もなく。
そして、那野の傍に片膝をついた。
那野の頬には涙痕が残っていた。
怜は那野の脇の下に腕を入れた。そっと。そっと。
何かを壊さないように。破壊しないように。汚さないように。そして、包み込むように。
怜はお姫様抱っこの要領で、那野をしいてある布団の上に静かにのせた。
起こさないように。自分がここにいることを悟られないように。そっと。そっと。
「軽いな…」
思わず呟いていた。
移動させ終えた怜は、ひどく疲れきった顔をしていた。全身全霊をかけて、神経を集中させて、力を入れすぎないように。けして壊してしまわないように。




