玖
那野は登っていた。木に、登っていた。それもスカートで。
芹何の屋敷には、二つの庭がある。一つは桃花が掃除をしていた中庭、もう一つは門をこえた所にある、屋敷に入る前に通る、那野が通った庭。
中庭には木がない。ということは、今那野がいる庭は後者の庭ということになる。
も、もう少し。腕、腕伸びろ――――!
額に汗を滲ませながら那野は必死に風船をつかもうとしていた。それは白い風船だった。
見つけたとき、那野は懐かしくなって、木に引っかかっている風船を取りたくなった。
那野は、超が付くほどのお嬢様、には到底見えないだろう。今までの行動や、言動からして。しかし、実際はそうなのであった。何せ、芹何財団に嫁ぐほどの娘である。
那野を見ていると、忘れそうになるのだが――。
しかし、もっと正確に言うのであれば、那野は『庶民を知っているお嬢様』ということになる。
少なくとも、那野は小学生までは普通の一般市民だった。それまでは、木にも登ったし、母親と特売に走ったこともある。アー―――。ええ、それまでは、と言ったが、それは偽りだ。
実際、那野はここに来る前、トイレットペーパーの特売品をちゃっかり調達―――――。
「おい、小僧! 何してんだそんなとこで! あぶねえぞ!」
ちゃっかり調達してい――――。
「はぁ? なんですって? 小僧? このあたしが小僧?」
「あ、小僧の女バージョン」
青年は那野のスカートを見たようだった。
「何よそれ!」
調達して――――。
「おおっ、こわいこわい。おりといでー。不法侵入は見逃してやるからー」
「ふっ…!?」
誰よこいつぁー―――――!
「ほれほれ」
調達………。
「五月蝿いわね! あんたなんかハエよハエ! 五月のうざいハエ!」
「な、なんだとくそガキ!」
突然の介入者との戦闘が勃発。木の上と下とで攻防が続いていた。火花はパチパチと、そのへんの草木に点火しそうである。
ここで、那野は深呼吸をした。
「風船をね、取ってるのよ」
この言葉で、青年はようやくその存在に気がついたようだった。
「あー――引っ掛けちまったのかー」
那野は、あたしのじゃない。とは言わなかった。
「とりあえず、危ないからおりといで」
青年は一歩も譲らないというように「早く」と那野を促した。
ほんと何なのよこいつ!
「もしかして、おりられないのか?」
一向におりない那野を見て青年は叫んだ。
「なわけないでしょ。馬鹿じゃないの」
那野も叫んだ。
「…………。あ、あー、なーるほどね」
青年はしばらく沈黙したあと、突然納得したように頷き出した。そして那野の真下の位置に来て両手を広げる。
な、何よ。なんか怖いわ…。
「こい! 受け止めてやる! 乙女の夢だな!」
馬鹿が。
言いそうになった。ホ ン ト ウに、言いそうになった。那野はそれを、危うくのところで踏みとどまる。
「嫌よ! 単細胞生物!」
こっちの方が非道かった。
「…………………」
え、何故黙るのよ。
「馬鹿やろう多細胞生物!」
「………………。……ありがとう?」
二人とも馬鹿だった。
「まぁ、でもそれも、まぁ、いいわね」
「おうよ! こいやあああああ! ってえ? いやいや冗談――――」
「行くわよ―――――っっ! ちゃんと受け止めなさいよ―――」
「は? いやいや冗談、嘘だろマジかよ―――――」
那野は見知らぬ青年に飛び込んだ。
お嬢様であるところの那野は見知らぬ青年を押し倒した。
「痛い…。痛いわよ。あんたもう少し太りなさいよ。クッション…が、……脂肪という名のクッションが足りぬわよ」
「重い」
「まあね」
「降りれよ」
「ちゃんと言いなさいよ」
「降りて」
「はいはい」
案外あっさり引いた那野に青年は少し驚いたようだった。
「女ってさあ…体重とか気にするもんじゃねーのか」
青年はそこが気になったようだった。
「ああ、あたしガリガリは嫌いなのよ。重いと言われても…いや、やっぱあんたに言われたと思うと腹が立ってきたわね…」
「重かった」
執拗に言う青年。何だこいつ。
「………。…まぁいいわ、あたし男だし」
「…………………」
「女装男子だし」
「………………」
青年、未知との遭遇を果たしたようだった。
「男だし。怒る理由ないわ」
―――――那野は男だった。というのはまぁ、もちろん嘘である。
「よく見たらお前、男っぽいな!」
殴ってやろうかと思った。
「…あぁ」
「じゃあ、小僧で間違いなかった」
「…あぁ」
ギリり。
「お前、帰らなくていいのか」
「………………」
「……帰ったほうがいいよ」
「…ふーせん」
「あーあれはあそこに飾っとこう」
「何故よ」
あ、口調戻った。と言って青年は風船を仰いだ。
「だって、まぁ……馴染んでるし」
那野はその言葉で風船をみた。
まぁ、それもそうね。
夕暮れ時、逢魔が時。
その中で、ひどく風船は綺麗に見えて。
それは、赤く、赤く、染まっていた。
「じゃあな。帰れよ」
「うん」
「帰れよ」
「帰るわ」
「行けよ」
「先に行って」
「……分かった」
青年はあっという間に屋敷に消えた。
きっと、不信に思っただろう。
どうやってここに入ったか、だとか、那野がこれからどうやって出ていくの、だとか。しかし、それは二人を包んでいた、不思議な空気が、当然思うべき疑問を忘れさせたようだった。
「あたし、なぜ、男なんて言ったのよ…」
不思議で、歪で、少し不気味なこの空気は、那野の心を侵食したあのドス黒い空気と少しだけ似ていた。




