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 那野は登っていた。木に、登っていた。それもスカートで。


 芹何の屋敷には、二つの庭がある。一つは桃花が掃除をしていた中庭、もう一つは門をこえた所にある、屋敷に入る前に通る、那野が通った庭。

 中庭には木がない。ということは、今那野がいる庭は後者の庭ということになる。


 も、もう少し。腕、腕伸びろ――――!


 額に汗を滲ませながら那野は必死に風船をつかもうとしていた。それは白い風船だった。

 見つけたとき、那野は懐かしくなって、木に引っかかっている風船を取りたくなった。


 那野は、超が付くほどのお嬢様、には到底見えないだろう。今までの行動や、言動からして。しかし、実際はそうなのであった。何せ、芹何財団に嫁ぐほどの娘である。

 那野を見ていると、忘れそうになるのだが――。

 しかし、もっと正確に言うのであれば、那野は『庶民を知っているお嬢様』ということになる。

 少なくとも、那野は小学生までは普通の一般市民だった。それまでは、木にも登ったし、母親と特売に走ったこともある。アー―――。ええ、それまでは、と言ったが、それは偽りだ。

 実際、那野はここに来る前、トイレットペーパーの特売品をちゃっかり調達―――――。

「おい、小僧! 何してんだそんなとこで! あぶねえぞ!」

 ちゃっかり調達してい――――。

「はぁ? なんですって? 小僧? このあたしが小僧?」

「あ、小僧の女バージョン」

 青年は那野のスカートを見たようだった。

「何よそれ!」

 調達して――――。

「おおっ、こわいこわい。おりといでー。不法侵入は見逃してやるからー」

「ふっ…!?」

 誰よこいつぁー―――――!

「ほれほれ」

 調達………。

「五月蝿いわね! あんたなんかハエよハエ! 五月のうざいハエ!」

「な、なんだとくそガキ!」

 突然の介入者との戦闘が勃発。木の上と下とで攻防が続いていた。火花はパチパチと、そのへんの草木に点火しそうである。


 ここで、那野は深呼吸をした。

「風船をね、取ってるのよ」

 この言葉で、青年はようやくその存在に気がついたようだった。

「あー――引っ掛けちまったのかー」

 那野は、あたしのじゃない。とは言わなかった。

「とりあえず、危ないからおりといで」

 青年は一歩も譲らないというように「早く」と那野を促した。

 ほんと何なのよこいつ!

「もしかして、おりられないのか?」

 一向におりない那野を見て青年は叫んだ。

「なわけないでしょ。馬鹿じゃないの」

 那野も叫んだ。

「…………。あ、あー、なーるほどね」

 青年はしばらく沈黙したあと、突然納得したように頷き出した。そして那野の真下の位置に来て両手を広げる。

 な、何よ。なんか怖いわ…。

「こい! 受け止めてやる! 乙女の夢だな!」

 馬鹿が。

 言いそうになった。ホ ン ト ウに、言いそうになった。那野はそれを、危うくのところで踏みとどまる。

「嫌よ! 単細胞生物!」

 こっちの方が非道かった。

「…………………」

 え、何故黙るのよ。

「馬鹿やろう多細胞生物!」

「………………。……ありがとう?」

 二人とも馬鹿だった。






「まぁ、でもそれも、まぁ、いいわね」

「おうよ! こいやあああああ! ってえ? いやいや冗談――――」

「行くわよ―――――っっ! ちゃんと受け止めなさいよ―――」

「は? いやいや冗談、嘘だろマジかよ―――――」


 那野は見知らぬ青年に飛び込んだ。

 お嬢様であるところの那野は見知らぬ青年を押し倒した。

「痛い…。痛いわよ。あんたもう少し太りなさいよ。クッション…が、……脂肪という名のクッションが足りぬわよ」

「重い」

「まあね」

「降りれよ」

「ちゃんと言いなさいよ」

「降りて」

「はいはい」

 案外あっさり引いた那野に青年は少し驚いたようだった。

「女ってさあ…体重とか気にするもんじゃねーのか」

 青年はそこが気になったようだった。

「ああ、あたしガリガリは嫌いなのよ。重いと言われても…いや、やっぱあんたに言われたと思うと腹が立ってきたわね…」

「重かった」

 執拗に言う青年。何だこいつ。

「………。…まぁいいわ、あたし男だし」

「…………………」

「女装男子だし」

「………………」

 青年、未知との遭遇を果たしたようだった。

「男だし。怒る理由ないわ」

 ―――――那野は男だった。というのはまぁ、もちろん嘘である。


「よく見たらお前、男っぽいな!」

 殴ってやろうかと思った。

「…あぁ」

「じゃあ、小僧で間違いなかった」

「…あぁ」

 ギリり。

「お前、帰らなくていいのか」

「………………」

「……帰ったほうがいいよ」

「…ふーせん」

「あーあれはあそこに飾っとこう」

「何故よ」

 あ、口調戻った。と言って青年は風船を仰いだ。

「だって、まぁ……馴染んでるし」

 那野はその言葉で風船をみた。

 まぁ、それもそうね。


 夕暮れ時、逢魔が時。

 その中で、ひどく風船は綺麗に見えて。

 それは、赤く、赤く、染まっていた。


「じゃあな。帰れよ」

「うん」

「帰れよ」

「帰るわ」

「行けよ」

「先に行って」

「……分かった」

 青年はあっという間に屋敷に消えた。

 きっと、不信に思っただろう。

 どうやってここに入ったか、だとか、那野がこれからどうやって出ていくの、だとか。しかし、それは二人を包んでいた、不思議な空気が、当然思うべき疑問を忘れさせたようだった。


「あたし、なぜ、男なんて言ったのよ…」

 不思議で、(いびつ)で、少し不気味なこの空気は、那野の心を侵食したあのドス黒い空気と少しだけ似ていた。


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