第2章 魔女の集会③
雪解けを終えた霧降山のふもとは、新しい緑に覆われていた。
冬の名残を含んだ風が草の上を渡り、湿った土と若葉の匂いを運んでくる。
馬の蹄が柔らかな地面を踏むたび、かすかな泥の音がした。
私はエルザの腕に支えられながら、揺れる馬上にいた。黒いマントが私の体を包んでいる。マントの内側は暖かかったが、私は文字通り「魔女」の腕の中にいた。
背後にあるエルザの胸は、呼吸に合わせて静かに動いていた。
「魔女の集会?」
私はエルザの口から出た耳慣れない単語を繰り返した。
「そうだ。開催日まで時間がない。すぐにでも出発するぞ。」
言うが早いか、エルザはあわただしく旅支度に取り掛かりだした。
私はエルザの言う「魔女の集会」なるものの内容も知らされないまま、忙しく動き出した彼女を眺めているだけだった。
水袋。黒麦パン。干し肉。着替え。毛布。小さな鍋。火打ち石。そして薬の入った小瓶。
必要なものだけを選び、古びた革の鞄へ収めていく。
エルザは一つの品を鞄へ入れるたび、もう次のものへ手を伸ばしていた。その動きには、朝に見た剣舞
と似ており、迷いがなかった。
私は声をかける機会を失ったまま、立っていた。
「馬の支度をしておいてくれ」
突然そう言われ、私はうなずくと厩舎へ向かった。
茶色い雌馬が、柵の向こうから静かにこちらを見ていた。エルザがアンナと呼んでいた馬だ。
「……よろしくね」
そう声をかけ、納屋から鞍を引っ張り出した。
父が馬へ鞍を載せるところは、何度も見たことがある。同じようにすればいい。
そう思い、両手で持ち上げる。
重い。
それでも胸の高さまでは上がった。あとは、アンナの背へ載せるだけだ。
私は歯を食いしばった。
腕が震えたが、もう少しで鞍の端が、馬の背へ届きそうだった。だが、そこで力が尽きた。
鞍が傾き、頭の上へ落ちてくる。
そう思った瞬間、後ろから伸びた手がそれを支えた。
「無理をするな」
エルザの声が背後から聞こえた。
彼女は片手で鞍を受け止め、そのまま何でもないことのようにアンナの背へ載せた。
エルザは鞍帯を確かめながら続けた。
「できないことは、できないと言えばいい」
言葉は厳しかったが、責められているようには聞こえなかった。
それよりも、私はエルザの姿を見て言葉を失った。
つばの広い三角帽。
黒いマント。
長い杖。
つま先の尖った革のブーツ。
それは、私が幼い頃から何度も絵本で見てきた姿そのものだった。
エルザはアンナの手綱を引きながら、立ち尽くす私を肩越しに振り返った。
「何をしている、出発するぞ。」
周囲の景色は丘陵地から、次第に湿地帯へと変化してきた。エルザは街道の近くを流れる小川の側で馬を停めた。
「ここらで一息いれるとしよう。」
エルザはそう言って馬から降りると、私と荷物を地面に下ろした。エルザの愛馬アンナは荷から放たれると、小川に近づき、水面にそっと口をつけた。
雪解けの時期の川の水は底まで透き通っており、手がしびれるほど冷たかった。私はすくった水で喉を潤すと、エルザが差し出した布の包みを受け取った。中には子供の掌ほどの大きさの丸い焼き菓子が二枚と、干し肉が一切れ包まれていた。
エルザは道端の倒木に腰を下ろすと、簡単に食事前のお祈りを済ませ、焼き菓子をかじりだした。道端での食事でも、エルザの座り姿勢は綺麗だった。
私も彼女に習って手を合わせて祈ると、焼き菓子から手を付けた。思ったほど甘くはなく、しっとりとした食感だった。生地の中には炒った木の実や穀類が練りこまれており、一枚だけでも十分食べ応えがあった。
「立ったままの食事とは行儀が悪いぞ。こちらに来て座りなさい。」
エルザはそう言うと、自分が座っている倒木を叩いた。
私は素直にその言葉に従い、彼女の隣に腰を下ろした。焼き菓子も干し肉も味は悪くなかったが、この時の私には食事を楽しむ余裕はなかった。私はうつむいたまま、ひたすら昼食を咀嚼することに専念した。
「…私が怖いか。」
エルザがぽつりとつぶやいた。
私は食事の手を止めて、横に座る黒衣の女性を見上げた。彼女の表情からはこれといった感情は読み取れなかったが、青い目が、私の回答を促すように瞬きした。
素直に心情を口にすべきか迷ったが、結局、自分の気持ちを言葉にすることができなかった。エルザへの恐れは確かにあった。だが、その気持ちを言葉にすれば、彼女を傷つけるのではないかという予感もあった。
エルザは視線を遠くにやると、独り言のようにつぶやいた。
「無理もない。古くから物語に語られる私たちは、恐れられ、忌み嫌われる存在だからな。お前が私に抱く恐怖心は至極まっとうなものだ。」
彼女の言葉は諦観に満ちながらも、わずかに寂しさを感じさせるものがあった。
「エルザさん…あなたは、本当に『魔女』なのですか。」
古くからの物語に曰く、魔女とは魔法と呼ばれる神秘の力を使い、人を惑わし、子供をさらい、怪しい儀式を執り行う悪魔のような存在として語られていた。就寝前に母から読み聞かせられた絵本の中にも、魔女にまつわる物語がいくつかあった。中には、恵まれない生まれの主人公を導く善人として描かれる魔女もいたが、多くの物語では魔女は悪役として登場することが多かった。とある国の姫君の美貌に嫉妬して悪事を働く魔女。一国の王を惑わし、国を乗っ取ろうと暗躍する魔女。子供をさらい、儀式への供物とする魔女。中には子供を食材として料理しようとする魔女もいた。いずれの絵本でも、挿絵に描かれる魔女とは、つばの広い三角形の帽子を被り、黒衣のローブやマントを身に纏い、手には魔法を行使するための杖を持っていた。誰もが魔女というものに抱く想像は悪いものであり、夜になかなか寝付かない私に対して、母はよく「寝ない子は悪い魔女にさらわれちゃうよ」などと脅したものだった。
子供とはいえ、魔女が実在すると単純に信じていたわけではないが、それでも、昔話に登場する存在には、元になった事実があるという認識はあった。もし目の前にいる女性が本物の魔女だとしたら、これから連れていかれる「魔女の集会」なるものにおいて、私の命運はどうなるのか。私の脳裏に浮かぶのは、恐怖に染まった想像ばかりだった。
エルザは遠くに視線を投げたまま、何気ない口調で答えた。
「そうだ。私は、人々が魔女と呼ぶ存在に他ならない。」
「だったら…貴女は…僕を…」
その先は唇が震えて言葉にならなかった。
エルザはため息をつくと、食べかけの昼食を見下ろした。
「心配するな。お前をとって食おうなどとは考えていない。ましてや、お前を贄として儀式を執り行おうとも思っていない。そもそも、人々が語り継いできた魔女への風評は、大半が間違いや誤解ばかりだ。」
「…本当に?」
エルザは干し肉にかじりつきながら頷いた。
「魔女の食事は普通の人間と同じだ。暮らし方そのものも、人間のものとたいして変わらない。」
それを聞いて、私はエルザの自宅を思い出した。本棚ばかりの風変わりなあの部屋をのぞけば、あの家には特段変わったものはなかった。
私は少しばかり安心すると、今度は単純な好奇心から質問してみた。
「じゃあ、魔法は?エルザさんも魔法が使えるのでしょう?」
「ああ、使えるとも。」
「だったら…見せてください。魔法を見てみたいです。」
エルザは私に視線を戻した。今思い返しても、この時のエルザは怒っていたのだと思う。眉間にしわを寄せ、口元を引き結び、私をにらみつけていた。私が悪事を働いたときに、母も同じ表情をしていた。
「坊や。軽々しく魔法を見たいなどと口にするんじゃない。あれはお前が想像するほど、容易に扱って良いものではない。」
エルザの口調はいつもと同じ単調なものだったが、明らかに怒気を含んでいた。
「でも…」
「ダメなものはダメだ。それより、さっさと食事を摂ってしまえ。今日中に鶯谷手前の見張り台跡に着かなければ、野営できるところはないのだからな。」
エルザは昼食の布を丸めて片付けると立ち上がった。
「その焼き菓子は私の自信作だ。食べ残しは許さん。」
そう言い残すと、彼女は馬の方に荷物を運んでいった。その後ろ姿は自分が絵本で見てきた魔女そのものだった。いまだに彼女の言葉のすべてを信じたわけではないが、少なくとも、この時の私はエルザという女性に好感を持ち始めていたのは確かだった。私は残った焼き菓子と干し肉を大急ぎで頬張った。
野営場所に到着するまでの間、馬上で揺られながら、私は魔女についてエルザにいくつか質問した。聞いたことについて大体は答えてくれたと記憶しているが、この時点では、エルザ個人のことについてはあまり聞かされなかった。
エルザ曰く、魔女とは、「神様に力を分け与えられた人達」ということだった。彼女たちはこの世の創成期から存在し、時代に応じてその振る舞いを変えてきたという。時に人間と協力して国を栄えさせ、時に人間に迫害され隠れ潜み、そして、時代と共に忘れ去られてきた。
「迫害の時代を超えた魔女たちは皆、人目を避け、できるだけ人間と関わらないようにして生きている。この時代に私たちの存在を認知している人間はほぼいないだろう。」
エルザの腕の中で、私は疑問を口にした。
「じゃあ、どうして集まるんですか」
エルザの腕が手綱を少し引き、アンナがぬかるみを避けた。
「人と関わらずとも、生きている以上、私たちも世界と無関係にはいられないからだ」
「世界?」
「ああ。魔女には、それぞれ仕事がある。役割、と呼ぶ方が近いかもしれないがな。」
私は彼女の腕のなかで振り返った。
「エルザさんにも?」
「ああ、魔女としての役割がな。」
「それは、渡り烏を追うこと?」
ほんの少し、沈黙が落ちた。
「今はな」
彼女からの短い回答に、私はそれ以上聞かなかった。
私たちを乗せた馬は湿地帯を越え、川沿いに南下していた。すでに霧降山は後方に小さくなり、前方には背の低い山岳地帯が広がり始めていた。太陽は西の方に大きく傾き始め、街道沿いの草地に伸びる私たちの影が長くなっていった。
「魔女の集会とは、ある意味、私たちの成果報告の場だ。私たちは互いに自分たちが行った仕事を報告し、意見を交換している。時に、議論を必要とする議題があるときは、集会を主催する長が会議を取り持つようになっている。」
「おさ、っていうのは?」
「私たちの中で一番偉い魔女のことだ。」
そこまで説明すると、エルザは前方に目を凝らした。
「正面の二つの山に挟まれた谷の入り口に遺跡が見えるか。今夜の宿はあそこだ。」
エルザが指さす方角に目をやると、山岳地帯を背に、石壁の砦が居座っていた。近づいていくほどに、壁はくずれ、苔むしているのがわかった。使われなくなってから、かなり時間がたっているようだった。
私たちは砦の正門前で馬を降りた。エルザは勝手知ったる様子でアンナを引きながら門をくぐった。黄昏時に沈む砦はすでに薄暗く、不気味な景色を作り出していた。私は足早にエルザの近くに寄ると、彼女のマントのすそをつかんだ。
砦内の家屋は多くが朽ち果て、屋根もなくなっていた。エルザは見張り塔の下にある手ごろな柵に馬をつなぐと、少し離れた位置にある家屋跡に荷物を置いた。
「ここは兵の屯所だったところだ。屋根はないが、四方は壁で遮られているし、風はしのげる。今夜はここで休むとしよう。」
そう言うと、周囲に散らばった木枝や、木製家具の残骸を集め始めた。私はエルザの近くから離れないようにしながら、薪集めを手伝った。
エルザは集めた薪を古い囲炉裏跡に投げ込むと、火打ち石と黒硝草を取り出して、火種を作った。小さな火種は薪の中で大きくなり、屯所跡の中を明るく照らした。
「魔法、使わないんですか。」
火おこしを終えたエルザに私は尋ねた。
「ああ、これくらい魔法など使わなくてもできるからな。」
そういいながら、エルザは夕食の準備にとりかかった。旅先で使用するための小型の鍋を取り出すと、水を入れて火にかけた。水が沸騰してきたところで、油紙に包んでいた乾燥野菜と、今朝の朝食にも出していた鶏肉の燻製を鍋に入れしばらく煮込んだ。最後に、調味瓶から、茶色の粉末を鍋の中に振りかけた。料理匙で軽く味見をすると、エルザは満足そうに頷いた。
「その粉はなんですか。」
エルザは私の鼻先に瓶を近づけてきた。食欲をそそる、香辛料の香りがした。
「これは乾燥させた牛骨の粉末に、塩や香草を混ぜたものだ。スープや煮込み料理の味付けに重宝している。」
私はエルザからスープの入った器と、黒麦パンを受け取った。スープは牛骨と、鳥の燻製から出た出汁が効いており、移動による疲れを忘れさせてくれた。
食事を終えた私たちは、毛布にくるまりながら、囲炉裏の中の炎を眺めていた。周囲は夜の闇に沈み、薪がはぜる音だけが砦の廃墟に微かに響いていた。夜空を見上げると、砂をちりばめたかのような星空が頭上を覆っていた。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。」
エルザの言葉に、自分が彼女と出会ってから、まだ一度も名乗っていないことを思い出した。
「ラルフです。ラルフ・ラングレン。」
「そうか、年はいくつだ。」
「四歳です。」
それだけ聞くと、エルザはじっと私を見つめた。彼女の瞳の中で、薪の炎が揺らめいていた。
「すまなかった。」
「え?」
唐突な謝罪な言葉に、私は何に対して謝られたのか分からなかった。
エルザは炎に視線を落とすと、毛布の端を胸にかき寄せた。
「お前の両親のことだ。もう少し早く私があの村に到着していれば、救えたかもしれなかったのだがな。」
私は、すぐには言葉を返せなかった。
なぜ、この人が謝るのだろう。
父も母も、エルザの知っている人ではない。もちそん、村の誰も。
それなのに、彼女は炎を見ていた。まるで、それが村人たちの葬送の炎であるかのように。
私はその横顔を見た。
今の私なら、あのとき彼女が何を見ていたのか、少しは想像ができる。それは、大人が子供に対して、当たり前に感じる、いわば「責任」のようなものだったのかもしれない。
沈黙に苦痛を感じた私は、出発前に彼女に聞きそびれたことを質問することにした。
「エルザさんは、どうしてあの『渡り烏』を追っているんですか。」
「それが私に与えられた仕事だからだ。」
そう言うと、エルザは炎の中に木の枝をくべた。
「五年前に王都の東にある村が焼かれたとき、最初に焼け跡を訪れた魔女は私だった。その時にも何人か生存者を助け出したが、ほどなくして皆死んだよ。自分たちの村を襲った、死神のことを言い残してな。」
パチパチと薪の音がはぜた。
「たった一人で村を消すなど、常人の技ではない。魔女集会の長は緊急を要する事態だと判断し、私に犯人の調査と捜索を命じた。それ以来、私は国中を旅して情報を集めた。だが、結果としては二つ目の村が襲われるまで、やつにつながる情報は何一つ得られなかった。」
「二つ目の村が焼かれたと聞いて、私は現場に急行した。私が到着した時にはすでに周辺の村の自警団が調査しているところだった。その中で、自警団の一員が妙なものを見つけたと騒いでいた。」
エルザは私に視線を戻すと目を細めた。
「黒い槍だ。」
それを聞いた瞬間、私の心臓が跳ねた。父の胸を貫いた槍。母の背中を刺した槍。村人を引き裂き、串刺しにしていった槍。
「私はすぐさまその槍を回収しようとした。だが、血に染まった黒い槍は、私が触れると砂が崩れるように溶けて消えてしまった。その時、私は自分が追っている者の正体について手掛かりを得た。わずかではあったが、その槍には魔法が使われた痕跡があった。」
エルザが言わんとしていることが分かった。
「渡り烏、やつの正体は…」
そのとき、遠くで、声が上がった。
高く、長く、夜の谷を裂く遠吠え。
私は思わず体を固くした。
エルザが顔を上げる。
「山犬か」
二度目。
今度は別の方向から、しかも一回目よりも近いと感じた。
「どうやら、この辺りはやつらの縄張りらしいな。」
エルザは杖を手に立ち上がった。
「私は馬の様子を見てくる。炎の側を離れるな。」
そう言い残すと、彼女は廃墟の闇の中に消えていった。
一人残された私は、毛布にくるまりながら、しきりにあたりを見回した。屯所跡の壁に焚き火の陰が踊り、炎の届かない暗闇の奥から獣の息遣いが聞こえてくるような気がした。
しばらくたってもエルザは戻ってこなかった。薪をくべようと、木枝に手を伸ばした時、私は暗闇の中に光る小さな点を見つけた。目が合ったと感じた時には私の体は恐怖で凍り付いていた。影の中からぬるりと姿を現した山犬は低いうなり声をあげながら、ゆっくりと私に近づいてきた。以前にも山犬を見たことはあった。山に餌がなかったのか、村に迷い込んだ一頭の山犬は、村の羊たちを襲っていた。半日かけて村の大人たちは死に物狂いで犯人の獣を追い立てた。死骸で見た時にも、その体は大の大人よりも大きく、村で飼っている牧羊犬とはまったく別の生き物だと感じた。
最初の恐怖を乗り越えた私は、立ち上がると火のついた薪を手に取り、山犬に向けた。山犬は炎を向けられたことで、ますます敵意をむき出しにするようにうなり声をあげた。目の前の獣は完全に私を狩りの対象とみなしたようだった。
私は大声でエルザの名を呼んだ。返事はなかった。私は唯一の武器を両手に持ち、相手をけん制することに必死だった。私たちは焚き火の周りをぐるぐると回りながら、お互いの距離を測りあっていた。山犬は炎を警戒しながらもじりじりと私との距離を縮めてきた。そうしているうちに、別の方向からうなり声が重なってきた。気が付くと、さらに二頭の山犬が廃墟の暗闇から滑り出てきた。私は焚き火を挟んで、三頭の山犬と対峙することになった。山犬達は私を囲い込むように回り込んできた。私は背後を取られまいと、盾にしていた焚き火を離れ、壁際に追い詰められる形になった。
私はエルザの名前を叫びながら、無我夢中で炎を振り回した。やがて先頭の一頭が身を低くした。相手が飛び掛かってくると予見した私だったが、どうすることもできないまま、壁に背を強く押し当てた。
跳躍しようとしたまさにその時、何事かを感じたのか、山犬たちは突然注意を背後の闇に向けた。廃墟の影には一つの灯りが浮かび上がっていた。ブーツの音を響かせながら、黒衣の魔女はゆっくりとした動作で私たちの前に姿を現した。彼女は右手の掌の上に、一つの焔を捧げ持っていた。エルザの手の上で踊る炎を眺めて私は呆気にとられていたが、それ以上に、山犬たちはエルザをひどく警戒しているようだった。
「疾く去ね、山の住民達よ。お前たちにその子を殺させはしない。」
エルザの右手の焔が大きく燃え上がった。エルザは鋭く右腕を振りぬき、手の中の炎を文字通りまき散らした。魔女の手から解き放たれた炎の飛沫、いや、火球ともいえる熱の塊は、緩やかな放物線を描いて山犬たちの周囲に降り注いだ。屯所跡の中は真昼のように照らされ、燃え上がった炎の熱に私の肌までジリジリと焼けるようだった。
先ほどまで恐ろしいうなり声をあげていた山犬たちは、炎に巻かれた瞬間に弱々しい鳴き声をあげ、踊り狂ったような動きで走り去っていった。
私はその場に座り込んだ。
手から、燃えた枝が落ちる。
呼吸ができない。
「怪我は」
エルザはしゃがみこみ、青い瞳で覗き込んできた。
「怪我はないか?」
私は頷こうとした。だが、うまくできない。
「アンナの周りにも何頭かいてな。追い払うのに手間取った。戻りが遅くなって――」
最後まで、聞けなかった。
私は立ち上がり、そのまま、彼女へ飛びついた。
顔を腹のあたりへ押しつけ、両手で黒い服を掴む。
全身が震え、涙が止まらなかった。
声も、息も、全部ぐちゃぐちゃになった。
エルザは何も言わなかった。
私は彼女へしがみついたまま無遠慮に感情をぶちまけた。
しばらくして。
背中へ手が触れた。
ゆっくりと、いたわるように。
あの夜、私は初めて、自分から魔女の腕の中へ逃げ込んだ。




