第2章 魔女の集会④
翌朝、私が目を覚ましたときには、エルザはすでに荷物をまとめていた。
砦の内側には、夜の冷気がまだ薄く残っていた。
けれど、東の空は白み始めている。
崩れた壁の向こうから差し込む朝の光に、古い石と草の露が淡く光っていた。
昨夜、山犬たちが姿を現した闇は、もうどこにもない。
そこにあるのは、屋根を失った兵の屯所と、崩れかけた見張り塔と、朝露に濡れた草だけだった。
私は毛布の中から起き上がった。
体のあちこちが痛んだ。
火傷の痕が引きつり、夜の間に強く握りしめていたせいか、手のひらにも疲れが残っている。
だが、昨夜ほど怖くはなかった。
焚き火は小さくなっていたが、完全には消えていない。
エルザが明け方まで起きていたことは、言われなくても分かった。
彼女は荷物を鞄へ収めながら、こちらを見ずに言った。
「起きたか」
「……はい」
声が、少しかすれていた。
エルザは布包みと茶の入った革袋を差し出した。
「食べておけ。今日は昨日より山道が多い」
包みの中には、昨日の焼き菓子が一枚と干し肉が少し入っていた。
茶はもう冷めかけていたが、喉を通ると体の中へゆっくり温かさが戻ってくる気がした。
私は黙って食べた。
砦の外では、アンナが鼻を鳴らしている。
エルザは荷物を馬へ括りつけ、鞍帯を確かめたあと、杖を手に取った。
「行くぞ」
私は頷き、慌てて毛布を畳んだ。
砦を出る前に、一度だけ振り返った。
昨夜、私はここで山犬に囲まれた。
魔法を見た。
そして、自分からエルザへしがみついた。
朝の光の中では、すべてが少し遠い出来事のように見えた。
けれど、エルザの背中を見たとき、昨夜の炎がまた目の奥へ浮かんだ。
何にも触れず、彼女の手の上で揺れていた火。
山犬たちを追い払った、あの強い光。
あれが、魔女の力なのだとすれば、人々が魔女を恐れる理由も分かる気がした。
だが、昨夜のエルザは、私を傷つけるためにその力を使ったのではない。
私を守るために使った。
そのことだけは、幼い私にも分かっていた。
砦の正門跡まで来ると、エルザは私を抱き上げてアンナの背へ乗せた。
「ここからは鶯谷を抜けて山へ入る。夕方までには、集会の場所である黄昏館に着けるだろう」
そう言って、彼女は私の腕に巻かれた包帯を見た。
「傷は痛むか」
私は包帯の上から腕をさすった。
「少しだけ痛みます」
「そうか。黄昏館に着いたら替えてやる。もう少し我慢しろ」
エルザは軽やかに馬へ跨がると、右手で手綱と杖を取り、左腕で私を支えた。
アンナが歩き出す。
砦の石壁が、少しずつ遠ざかっていった。
*
砦を出てしばらく進むと、左右の山が少しずつ近づいてきた。
谷の入口は思っていたより明るかった。
鶯谷という名の通り、木々の間からは鳥の声が聞こえる。
まだ鳴き方を練習しているのか、声は時おり妙なところで裏返った。
春先の若葉が道の上へ薄い影を落とし、枝の隙間からこぼれた陽光が、馬の首筋やエルザの黒いマントの上で揺れている。
昨日までの湿地とは違い、ここには水の匂いよりも、木の芽と土の匂いがあった。
私は馬の揺れに身を任せながら、聞こえてくる鳥の声に耳を澄ませた。
そして、ふと思いついて口をすぼめた。
細い音が出る。
もう一度。
今度は少し高く。
私は鳥の声を真似て、口笛を吹いた。
父が教えてくれたものだった。
畑からの帰り道、父はよく口笛で鳥の鳴き真似をした。
幼い私はそれが面白くて、何度も真似をした。
最初は息が漏れるだけで、音などほとんど鳴らなかった。
それでも父は笑いながら、舌の位置や唇の形を教えてくれた。
そんなことを思い出した途端、胸の奥が少し痛んだ。
けれど、その痛みは昨日までのものとは違っていた。
炎の中から父を思い出すのではない。
春の谷で、鳥の声を聞きながら父を思い出している。
そのことが、どこか不思議だった。
「ふむ」
頭上から声がした。
「なかなか上手いじゃないか」
私は口笛を止め、少しだけ振り返った。
エルザの顔は見えなかったが、声にはいつもよりわずかに機嫌の良さが混じっているように聞こえた。
褒められたのだと分かると、胸がくすぐったくなった。
私はまた前を向き、もう一度口笛を吹いた。
谷のどこかで、本物の鶯が応えるように鳴いた。
それが偶然なのか、私の音に返したのかは分からない。
ただ、その朝の私はしばらく夢中になって、鳥たちの声を真似続けた。
やがて谷は狭くなり、道は少しずつ傾斜を帯びた山道へ変わっていった。
木々が密集し、枝葉が空を覆い始める。
エルザは一度アンナを止めると、自分だけ馬から降りた。
「ここからは歩かせる。お前は乗っていなさい」
私は頷いた。
エルザは手綱を引き、アンナの横を歩きながら山道を登り始めた。
蹄が石を踏む音。
木々の間を渡る風。
遠く近くで鳴く鳥たちの声。
それ以外は、ほとんど聞こえなかった。
エルザは歩調を乱さず、淡々と登っていく。
私はその背中を見下ろしていた。
昨日、剣を振っていた姿。
昨夜、炎を放った姿。
そして今、馬の手綱を引いて山道を登る姿。
どれも同じ人なのに、そのたびに少し違って見えた。
昼過ぎ、私たちは山道の脇を流れる沢のそばで休んだ。
水は岩の間を滑るように流れ、ところどころ白い泡を立てている。
エルザはアンナを近くの木へつなぎ、荷物から布包みを取り出した。
また焼き菓子だった。
私は両手で受け取る。
昨日より、少しだけ嬉しかった。
「昨日、エルザさんが使ったのって、魔法ですよね?」
そう尋ねると、エルザはこちらを見た。
予想通り、少し不機嫌そうだった。
私は思わず首をすくめる。
だが、意外にも彼女は答えた。
「厳密には違う」
「違うんですか?」
「あれは呪術だ」
呪術。
言葉の響きだけで、少し怖いものに思えた。
エルザは沢のそばの石へ腰を下ろし、自分の焼き菓子を割った。
「魔法より原始的な術だ。主に、火や熱を扱う。種火さえあれば、簡単なものなら詠唱もいらない」
私は焼き菓子をかじりながら聞いた。
「初級の術ということですか」
「魔女にとってはな」
エルザは短く言った。
「だが、初級だから軽いというわけではない。日常生活でも役に立つし、昨夜のように獣を遠ざけることもできる。下手な魔法術より、よほど実用的だ」
彼女の話は、絵本の中の不思議な力の説明というより、火打ち石や鍋や薬草の使い方を話しているようだった。
だからだろうか。
魔女の術という言葉は恐ろしいはずなのに、エルザが話すと少しだけ身近に感じた。
私は、さらに尋ねた。
「じゃあ、エルザさんが得意な魔法は、どんな魔法なんですか」
エルザは自分の編んだ髪へ指を添えた。
それは彼女の癖の一つだった。
何かを考えるとき、あの長い三つ編みに触れる。
「私の魔法属性は、熱と光だ」
少し間を置いて、彼女は言った。
「だから、得意なのは炎に近いものになる。熱を生み、光を生み、形を与える」
私は思わず身を乗り出した。
昨日の炎を思い出す。
彼女の手の上で揺れていた小さな火。
そこから放たれた、夜を裂く光。
「ただし」
エルザの声が、わずかに落ちた。
「私の造る炎は、すでに暗く染まっているがな」
私は瞬いた。
「暗く……?」
意味が分からなかった。
炎は明るいものだ。
熱いものだ。
それが暗いとは、どういうことなのだろう。
「それは、どういう――」
問いかけようとしたところで、エルザの手が伸びた。
彼女は私の口元についた焼き菓子の欠片を指で払った。
「食べながら喋るな」
私は口を閉じた。
エルザは立ち上がり、アンナの方へ歩いていく。
「出発する。黄昏館まで、まだ少しある」
それ以上、その話は続かなかった。
私は焼き菓子の残りを見つめた。
暗く染まった炎。
その言葉だけが、沢の音に混じっていつまでも耳の奥に残っていた。
*
太陽が西へ傾き始めた頃、私たちは黄昏館に着いた。
山道がふいに開け、谷をまたぐ短い石橋が現れる。
橋の下では、小さな滝から伸びる渓流が白く泡立ち、岩に当たって細かな水音を響かせていた。
私は馬上から身を乗り出し、思わず下を覗いた。
「落ちるなよ」
エルザの左腕が、すぐに私の体を押さえた。
私は慌てて背筋を戻した。
橋を渡った先には、古い館が建っていた。
外壁はむき出しの煉瓦で、屋根には鱗のような模様の瓦が重なっている。
王族の別荘だったと聞けば、もっと華やかなものを想像していたが、目の前の建物は思ったより質素だった。
飾りは少ない。
だが、小さいわけではない。
本館から左右に長い棟が伸び、窓の数も多い。
宿屋のようにも、古い役所のようにも見えた。
エルザの説明によれば、ここはかつてこの地方を治めた小国の王が、山中の別荘として使っていたものを、魔女集会の長が改修したのだという。
黄昏館。
その名の通り、館は夕闇に沈み始めた山林の中で、まるで時の流れから半分だけ取り残されたように静かに佇んでいた。
門の前で、エルザは馬を止めた。
そして、小さく息を吐く。
「入る前に、一つ言っておく」
私は彼女を見上げた。
「館の中で誰に会っても、聞かれたこと以外には答えるな。お前からほかの魔女へ質問することも禁じる」
私は頷いた。
けれど、頷いただけでは足りないと思ったのか、エルザは格子門の取っ手に手をかけたまま、もう一度私を見下ろした。
「要するに、お前は何も喋るなということだ。必要なことは私が話す。約束できるな」
今度は、はっきりと首を縦に振った。
「はい」
「よし」
エルザは門を押し開けた。
私は自然と彼女のマントの端を握っていた。
敷地の中へ入ると、石畳の道が館の正面玄関までまっすぐ伸びている。
道の左右には、手入れされた低い植え込みがあった。
花は少ない。
その代わり、常緑の葉が夕暮れの光を受けて黒く艶めいていた。
エルザはまず、門の脇にある厩舎へ向かった。
すでに何頭かの馬がつながれている。
知らない鞍。
知らない荷物。
私はそれらを見ただけで、ほかの魔女たちがすでに来ているのだと知った。
胸が落ち着かなくなる。
エルザはアンナを厩舎へ収め、鞍や荷物を素早く整えると、私の手を取った。
「離れるな」
私は頷いた。
彼女の手は、昨日より少し強く私を握っていた。
*
玄関の大扉には、木彫りの装飾が施されていた。
蔦。
鳥。
月。
それから、何かの紋章のようなもの。
エルザは扉の前に立つと、杖の石突で足元を二回叩いた。
こつ。
こつ。
音は扉の奥へ吸い込まれていった。
しばらく待っても、返事はなかった。
扉が開く気配もない。
私は不安になってエルザを見上げた。
だが、彼女は慣れた様子で扉へ手をかける。
鍵はかかっていなかった。
古い扉は重い音を立てながら、私たちを中へ迎え入れた。
薄暗い広間だった。
外はまだ完全な夜ではなかったが、館の中を照らしているのは壁に並ぶ蝋燭だけだった。
天井は高い。
二階分はあるだろう。
広間の中央には大きな階段があり、その先は二階の回廊へつながっている。
頭上には巨大なシャンデリアが吊るされていたが、火は入っていない。
薄い蝋燭の明かりだけが、埃をかぶったその輪郭をぼんやり浮かび上がらせていた。
私たちの後ろで扉が閉まる。
その音を最後に、館の中は深い静けさへ沈んだ。
誰も出迎えに来ない。
声もない。
人の気配すら、ほとんど感じられない。
私は思わずエルザの手を握り直した。
エルザは何も言わず、私を連れて階段を上った。
二階の回廊を進み、玄関から見て右側の棟へ入る。
そこには、長い廊下が続いていた。
右手には窓。
左手には、宿泊用らしい扉が等間隔に並んでいる。
外は夕闇へ沈み、窓硝子には私とエルザの姿がぼんやり映っていた。
廊下を歩く音だけが響く。
私の小さな足音。
エルザの靴音。
杖の石突が床へ触れる音。
誰ともすれ違わなかった。
長い廊下の奥、行き止まりの手前にある角部屋の前で、エルザは足を止めた。
懐から小さな鍵を取り出し、扉を開ける。
中は暗かった。
エルザは迷うことなく部屋へ入り、入口脇の棚からマッチを取り出す。
燭台に火が灯っていく。
一つ。
二つ。
三つ。
部屋の輪郭が、少しずつ見えてきた。
寝台。
肘掛け椅子。
小さな机。
洋服棚。
化粧台。
必要なものは揃っているが、それ以外の飾りはほとんどない。
一人用の部屋にしては広い。
けれど、どこか余所余所しかった。
エルザは荷物を棚へ置くと、マントと帽子を脱ぎ、洋服棚へ掛けた。
それからこちらを振り返る。
「集会は明日の朝からだ。今夜はこの部屋で休む」
私は頷いた。
けれど、部屋の入口に立ったまま動けなかった。
ようやく屋根の下に入ったのに、安心したとは言えなかった。
黄昏館全体が、息を潜めているように感じたのだ。
エルザは小さくため息をつき、寝台の端へ腰を下ろした。
「包帯を替えてやる。服を脱いで、ここへ座りなさい」
私は言われた通り、下着以外の衣服を脱いで、彼女の隣に座った。
*
包帯が外されると、自分の体が思っていたよりひどいことになっているのを知った。
腕。
脚。
肩。
脇腹。
水ぶくれや、赤く変色した皮膚。
ところどころ、黒ずんだ痕。
私は思わず声を漏らした。
エルザは動じなかった。
濡らした布で傷口の周囲を拭き、手のひらに収まるほどのガラス瓶を私に見せる。
中には、無色透明の液体が入っていた。
「これから消毒する。痛むとは思うが、我慢しろ」
私は瓶を見た。
それからエルザを見た。
怖かった。
「すぐ終わる」
そう言うと、彼女は清潔な布へ液体を染み込ませた。
そして、予告もなく傷口へ当てた。
声が出た。
自分でも情けなくなるような声だった。
痛い。
熱い。
傷の中へ、針を何本も入れられたようだった。
私は歯を食いしばった。
膝の上で拳を握る。
体が勝手に逃げようとする。
そのたび、エルザの手が肩へ添えられた。
押さえつけるほど強くはない。
けれど、動くなと言われているのは分かった。
「息を止めるな」
エルザが言った。
「吐け」
私は言われた通り、震える息を吐いた。
「もう一度」
また吐く。
「よし」
彼女は淡々と傷を拭き、薬を塗り、新しい包帯を巻いていった。
何度も痛んだ。
目に涙が浮かんだ。
それでも、泣き叫ばずには済んだ。
最後の包帯を結び終えると、エルザは結び目を確かめた。
「これで終わりだ」
私は肩で息をしていた。
エルザは私の顔を見る。
「よく我慢したな」
そう言って、髪をくしゃりと撫でた。
乱暴ではない。
けれど、器用でもない。
私は少しだけ笑いそうになった。
緊張がほどけると、体から力が抜けた。
そのまま後ろ向きに寝台へ倒れ込む。
燭台の火が揺れ、壁に伸びたエルザの影もかすかに揺れた。
「少し部屋を空ける。出歩くな」
私は小さく頷いた。
エルザは荷物から何かを取り出し、身支度を整えると、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
私は天井を見上げていた。
旅の疲れと、治療の痛みが一度に押し寄せてきたのだろう。
瞼が重くなる。
抵抗する気力もなく、私はそのまま眠った。
*
目を覚ましたとき、部屋にはエルザが戻っていた。
いつの間にか彼女は、ゆったりとした黒いローブに着替えていた。
窓際の椅子に腰掛け、膝の上に本を開いている。
燭台の明かりが、横顔と白い指を照らしていた。
風呂に入ったのか、銀色の髪はわずかに湿っている。
いつもの三つ編みはほどかれ、毛先だけが紐で簡素に結ばれていた。
その姿は、昼間の旅装とも、朝の剣を振るう姿とも違っていた。
少しだけ、彼女の家で本棚を見上げたときのことを思い出す。
本の中へ沈んでいるとき、エルザはどこか遠くにいるように見えた。
私が目を覚ましたことに気づくと、彼女は視線だけを机へ向けた。
「腹が空いているだろう。夕食をもらってきたぞ」
言い終えると、また本へ戻った。
小さな机の上には盆が置かれていた。
焼いた鶏肉。
茹でた卵。
野菜を挟んだ白麦パンのサンド。
冷めた玉葱のスープ。
小さな林檎。
茶の入った杯。
どう見ても、一人分だった。
私は椅子へ座り、盆を見た。
「エルザさんの分は?」
「私は済ませた」
本から目を上げずに、彼女は答えた。
本当だろうか。
少し気になった。
けれど、聞き返す勇気はなかった。
私は食事を始めた。
料理は冷めていたが、おいしかった。
白麦パンは、黒麦パンよりも柔らかい。
鶏肉には香草の匂いがあり、玉葱のスープは冷めても甘みが残っていた。
食べながら、窓の外を覗いてみたが、そこにはもう夜しかなかった。
館の敷地は黒く沈み、硝子には部屋の灯りと、食事をする私の姿だけが映っている。
私は茶をすすりながら、読書に没頭するエルザを見た。
青い瞳が、本の文字を追って細かく動く。
時おり眉がわずかに寄り、頁を戻したり、また進めたりする。
彼女は剣を振るときと同じくらい、真剣に本を読んでいた。
「何を読んでいるんですか」
手持ち無沙汰になって、私は尋ねた。
「ああ、これか」
エルザは顔を上げ、本の表紙をこちらへ向けた。
「『現代天文術』という書だ。知人の天文学博士が書き上げたばかりの新書でな。星の観測に関する新しい手法と、その手法で得られた発見がまとめられている」
その声は、いつもより少しだけ明るかった。
「なかなかに興味深い」
彼女はそう言って、本を私へ差し出した。
私は両手で受け取る。
重い。
開いてみると、細かな文字と、点や線で埋め尽くされた図が並んでいた。
器具の絵らしきものもある。
星を表しているのだろうか。
それとも、別のものだろうか。
まるで分からなかった。
ただ、分かったことが一つだけある。
この魔女は、本がとても好きなのだ。
彼女の家を思い出せば、分かりきったことではあった。
けれど、本について語るエルザは、いつもより少しだけ近くに見えた。
「エルザさんは、本が好きなんですね」
私は学術書を返しながら言った。
エルザは、今までに見たことがないほど柔らかい表情で頷いた。
「長い時を生きる私にとって、読書は欠かせない趣味だ。坊やも賢くなりたければ、多くの本を読むことだな」
彼女はそう言って、私を見た。
「……どうかしたか?」
私は自分の頬に触れた。
濡れていた。
涙だった。
いつの間にか、泣いていた。
「母さんが」
声が震えた。
「よく、絵本を読んでくれました」
言った途端、止まらなくなった。
母の膝。
頁をめくる指。
声。
夜の灯り。
私が途中で眠くなると、母はいつも少し笑って、続きは明日にしようと言った。
その明日は、もう来ない。
私は拳を握りしめた。
泣きたくなかった。
けれど、涙は止まらなかった。
悲しいだけではなかった。
悔しかった。
父も母も、村の人たちも、みんな殺された。
家も、食卓も、絵本も、夜に聞いた母の声も、全部なくなった。
それなのに私は生きていて、知らない館の部屋で、知らない食事を食べている。
これから先、どうやって生きていけばいいのかなど、分かるはずもなかった。
胸の奥が冷たくなり、同時に、どこにもぶつけられない熱いものがこみ上げてきた。
「……夜も遅い」
エルザは静かに本を閉じた。
「今夜はもう休みなさい」
彼女は私を寝台へ促した。
私はしゃくり上げながら布団へ潜り込み、胸元まで引き寄せた。
薄暗い天井が、涙で滲んでいる。
エルザは枕元の椅子へ座った。
何か慰めの言葉を言うのかと思った。
だが、彼女は何も言わなかった。
ただ、右手の掌を私の額へかぶせた。
冷たい手だった。
けれど、嫌ではなかった。
「眠れ」
その声を聞いた途端、急激な眠気が押し寄せてきた。
瞼が重くなる。
部屋の灯りが滲む。
涙も、息も、胸の痛みも、少しずつ遠ざかっていく。
私は、何かを言おうとした。
母のことだったのか。
父のことだったのか。
エルザへの礼だったのか。
今ではもう、覚えていない。
ただ、額に置かれた手の感触だけは残っている。
その夜、私は泥の中へ沈むように眠った。
夢は、見なかった。




