第2章 魔女の集会②
家へ戻る途中、エルザは鶏小屋へ立ち寄った。
藁の敷かれた巣箱から卵を拾い、小さな籠へ収めていく。
私は少し離れたところで、その様子を見ていた。
先ほどまで剣を振るっていた人と、同じ人物には思えなかった。
玄関をくぐると、エルザはそのまま厨房へ向かった。
かまどへ火を入れ、鍋に水を張り、卵を沈める。
もう一方の火口には、やかんかける。
棚から黒麦パンを取り出し、必要な分だけ切り分ける。
私は黙って、その背中を見ていた。動作に無駄がない。
先ほどの剣と同じだった。
一つの動きが終わる前に、次の手がもう決まっている。
「どうした?」
背中を向けたまま、エルザが言った。
どうやら、私の視線を感じたようだった。
「……なんでもないです」
「そうか」
パンを切る音が続く。
「なら、座って待っていなさい」
私は小さく頷き、居間へ戻った。
昨日は気づかなかったが、窓際には二人掛けのソファがあった。
革張りで、表面のところどころが擦れて白くなっている。ずいぶん長く使われてきたものらしい。
私はそこへ腰を下ろした。
厨房から火の音が聞こえる。
湯の温まる気配。
包丁がまな板へ触れる、小さな音。
窓の外では鳥が鳴いていた。
少し前まで、私は焼けた村にいた。
父も。
母も。
もういない。
それなのに今は、知らない家のソファに座り、朝食ができるのを待っている。
そのことを考えると、胸の内側が落ち着かなかった。
私は立ち上がり、本棚の前へ行った。
革張りの表紙。
色褪せた布。
金色の文字。
何年も読まれてきたらしい古い本の隣に、まだ角のきれいなものもある。
けれど。
私には、一冊も読めなかった。
当時の私は、まだまともに文字を習っていなかった。
母に絵本を読んでもらうことはあっても、自分で頁の言葉を追ったことはない。
それでも、ここに並ぶ本が、私の知っている絵本とはまったく違うものであることは分かった。
どれも難しそうだった。
厚く。
重く。
私の知らない何かが、その中へ閉じ込められているように見えた。
「本が気になるのか?」
振り返る。
エルザが皿を両手に持ち、厨房から出てきたところだった。
皿を食卓へ置くと、私の隣へ来る。
青い瞳が棚を見上げた。
「大半は学術書だ。今のお前には難しいだろうな」
そういって、エルザはしばらく棚を眺め、やがて一冊を抜き取った。
「なら、これはどうだ」
差し出された本を両手で受け取る。
重かった。
鮮やかな緑色の表紙。
銀色の文字。
私は恐る恐る表紙を開いた。
そこに、一頭の鹿がいた。
「……あ」
思わず声が出た。
次の頁には馬。
その次には狼。
鳥。
魚。
絵は、母に読んでもらった絵本とはまるで違った。
ただ動物の姿を描いているだけではない。
頭。
脚。
骨。
爪。
牙。
羽。
一つの生き物を、どうにかして余すところなく説明しようとしている。
そんな絵だった。
「『新動物学図解・第三版』」
頭上から声がした。
「この種の本では、かなり分かりやすい部類だ。文字が読めなくても、絵だけで楽しめるだろう」
私は返事を忘れて頁をめくった。
まだ知らない生き物たち。
世界には、自分の知らないものがある。
それも、こんなにたくさん。
その事実が、不思議なくらい嬉しかった。
昨日まで、私の世界は村の中にあった。
父と母がいて。
畑があり。
丘があり。
知っている人たちがいた。
その世界は、もうない。
けれど本の中には、私がまだ見たことのない世界が残っていた。
ふいに、頭へ手が置かれた。
エルザの手が、私の髪をくしゃりと撫でる。
「朝食にしよう。」
それだけ言って、手が離れた。
私は本を胸に抱えたまま頷いた。
食卓の前まで来て、私は足を止めた。
椅子が一脚しかない。
昨日も見ていたはずなのに、二人で食事をすることになって初めて気づいた。
エルザも同じところへ目を向けた。
「……ああ、さきに座っていなさい」
彼女は寝室へ入り、昨夜私の枕元で使っていた小さな椅子を持って戻ってきた。
そして当然のように、それへ自分が座った。
私は大きな椅子の前で立ち尽くした。
エルザは気にした様子もなく、言った。
「長く一人で暮らしているのでな。余計な物は処分してしまうんだ。」
エルザに視線でうながされ、私はおそるおそる大きな椅子へ座った。
食卓には、黒麦パン。
茹でた卵。
燻製肉。
葉物野菜。
干しブドウ。
それから、湯気を立てる茶。
エルザが胸の前で手を組み、目を閉じる。
私も真似をした。
彼女が唱えた祈りは、村で聞いていたものとは少し違った。
言葉の意味はほとんど分からない。
ただ、その響きは静かで、どこか古かった。
祈りが終わり、エルザは目を開けると、そっと呟いた。
「いただきます」
そういって、パンをちぎって食べ始めた。
私はまず、茶へ口をつけた。
甘く、草のような香りがした。
温かさが喉を通り、胸のあたりまで落ちていく。
そこでようやく、自分が朝からずっと緊張していたことに気づいた。
私たちは、ほとんど話さなかった。
パンをちぎる音。
殻を割る音。
匙が皿へ触れる。
外の小鳥。
それだけだった。
私はひたすら食べることに集中した。
卵を。
肉を。
パンを。
昨日の夜と同じように。
生きるために。
食事が終わると、エルザは空いた皿を厨房へ運んだ。
私は残った干しブドウを一粒ずつ食べながら、茶を飲んだ。
水の音。
皿の触れ合う音。
静かな朝。
自分の家にも、こんな時間があったのだろう。
きっと、あった。
思い出そうとすると、胸が痛んだ。
私は杯へ目を落とした。
しばらくして、エルザが戻ってきた。
何も言わず、私の杯へ新しい茶を注ぐ。
私は両手で湯気の上がる杯を包んだ。
温かかった。
その温もりに背を押されたのかもしれない。
「あの」
私の声に、エルザが顔を上げた。
「ありがとうございました」
私は頭を下げた。
「助けてくれて……」
ずっと言わなければならないと思っていたことをようやく口にした。
エルザはしばらく黙って、青い瞳をこちらに向けていた。
「礼は要らない」
静かな声だった。
「私がお前を見つけたのは偶然だ。それより、私にも聞かなければならないことがある」
彼女は茶を一口飲み、杯を置いた。
「お前の村で、何があった?」
胸の奥が冷えた。
温かかったはずの茶の味が消える。
父。
母。
黒い槍。
仮面。
炎。
私は俯いた。
杯を持つ指が震えている。
私は息を吸った。一度では足りず、何度も。
「……殺されました」
声が震えた。
「父さんも。母さんも。村のみんなも」
言葉にするたび、喉が狭くなる。
「殺されて……村も、焼かれました」
エルザの目が細くなった。
「誰に、いや――」
彼女は言い直した。
「何に、だ?」
私は唇を噛んだ。
あれを、人と呼んでいいのか分からなかった。
「死神です」
口にした瞬間、黒い影が、再び目の前へ立った気がした。
「羽が……黒い羽がたくさんあって。大きな烏みたいで……」
自分の肩を抱いた。
「顔は仮面で。黒くて。槍を持っていました」
エルザの青い瞳が一瞬光を帯びたように見えた。
「……渡り烏」
小さな声だった。
私は顔を上げた。
「知ってるんですか?」
思わず身を乗り出す。
エルザはすぐには答えず、窓の方へ視線を向けた。
「…いや、本人を見たことはない。何者なのかも分からない」
エルザは続ける。
「ただし、痕跡は知っている」
窓から差す光の中で、湯気が揺れていた。
「五年ほど前から、似た事件が起きている。お前の村を含め、これで三つ目だ」
三つ。
私はその数字を理解するのに、少し時間がかかった。
「ほかの村も……?」
「ああ」
「みんな?」
エルザの返事は短かった。
「ほぼ全員だ」
胸の奥が沈んだ。
知らない村。
知らない人たち。
けれど。
父や母と同じように食卓を囲み。
眠り。
朝を迎えていた人々。
「以前にも生き残った者はいた。だが、傷が深かった。外の者へ襲撃者の姿を伝えたあと、まもなく息絶えた。」
私は何も言えなかった。
エルザの視線が戻る。
「お前が初めてだ。生き残った者はな。」
私だけ。
その言葉が、胸へ落ちた。
なぜ。
どうして。
父ではなく。
母ではなく。
私が。
仮面の穴。
あの暗い二つの穴が、こちらを見ていた。
私は自分の手を見た。
震えていた。
力を込める。
止まらない。
杯を置こうとして、縁が皿へ当たり、乾いた音がした。
その手へ、別の手が重なった。
私は顔を上げた。
エルザだった。
何も言わない。
ただ、私の震える手を包んでいる。
私はその手へすがった。
温かかった。
不思議だった。
昨日の雨の中で額へ触れたとき、彼女の手は冷たいと思ったのに。
しばらくして、ようやく呼吸が戻った。
エルザは私が落ち着くのを待ってから、少しずつ質問を続けた。
悲鳴は、いつ聞こえたのか。
父は、どちらへ向かったのか。
黒い影は、一人だったのか。
どんな武器を持っていたか。
どこから火が出たのか。
私は覚えていることを話した。
順番は、きっと滅茶苦茶だった。
同じことを何度も言ったかもしれない。
途中で、何も話せなくなることもあった。
それでもエルザは遮らなかった。
私の言葉が戻るまで待った。
やがて、話せることがなくなった。
食卓の茶は、すっかり冷めていた。
私はそれを一口飲んだ。
喉を湿らせる。
「エルザさん」
「なんだ」
「どうして……」
言いかけて、迷う。
「どうして、その渡り烏を気にしてるんですか?」
エルザは宙に視線をむけた。
「私はやつを、渡り烏を追っている。」
「それは、どうして――」
こつ。
音がした。
私は窓を見た。
こつ。
もう一度。
窓の向こうに、大きな鳥がいた。
丸い目。
ふくらんだ羽。
こちらを見る顔。
鳥は首を傾けると、また嘴で硝子を叩いた。
エルザが立ち上がった。
窓を開ける。
左腕を差し出すと、鳥は慣れた様子でそこへ飛び移った。
エルザは羽を一度撫でると、その脚へ結ばれた小さな筒に気づいた。
蓋を外し、中から折り畳まれた紙を抜く。
「少し持っていろ」
「え?」
答える前に、腕を差し出された。
「左手を出せ」
私は恐る恐る従った。
その鳥が翼を広げる。
ばさり、と音がした。
次の瞬間には、私の腕へ移っていた。
「重い……」
思わず声が出た。
エルザが紙を開きながら、ほんの少し口元を緩めた気がした。
フクロウは大きな丸い目で私を見た。
私も見返す。
瞬きをしない。
「……」
「……」
しばらく見つめ合ったが、私は視線を逸らし、エルザを見た。
彼女はまだ紙を読んでいた。
先ほどまでとは、顔が違った。
眉間に浅い皺。
青い瞳が険しい。
「お前は……」
そこで言葉が止まり、深い息をつく音がした。
エルザはもう一度、紙へ目を落とした。
「どうやら、招待されたらしい」
意味が分からなかった。
「どこへ、ですか?」
エルザはすぐには答えなかった。
窓辺へ歩く。
朝の光が、その横顔を半分だけ照らしていた。
「いくつか名がある。『黄昏時の集い』」
私は黙って聞いた。
「『忘れ去られた寄合』と呼ぶ者もいる」
腕の上で、フクロウが短く鳴いた。
エルザが振り返る。
その青い瞳が、まっすぐ私を捉えた。
「だが、私は――『魔女の集会』と、そう呼んでいる」
その言葉が落ちた瞬間、つい先ほどまで朝食をとっていた部屋が、少しだけ別の場所になったように感じた。
私の腕の上で、フクロウだけが、静かな鳴き声を上げた。




