第2章 魔女の集会①
翌朝、私は鶏の鳴き声で目を覚ました。
しばらく、目を開けたまま天井を見ていた。
昨日と同じ、板張りの天井。
額には新しい手ぬぐいが載せられていた。夜のうちに取り替えられたのだろう。触れると、まだわずかに湿っていた。
全身に痛みを感じながら、私はゆっくりと身を起こした。
腕を曲げるだけで包帯の下の皮膚が引きつり、胸の奥まで鈍い痛みが走る。それでも昨夜よりは、体が自分のものに戻ってきているように感じた。
窓から朝の光が差していた。
知らない家。
知らない寝台。
昨日までとは違う世界。
それでも、昨夜のような恐怖はなかった。
枕元の椅子を見ると、私の服がきれいに洗われ、畳まれていた。
私は寝間着代わりに着せられていた服を脱ぎ、包帯を引っかけないよう慎重に着替えた。
ひどく時間がかかった。
袖へ腕を通すだけで何度も顔をしかめ、最後の釦を留めた頃には、それだけで少し疲れていた。
寝台の端に腰掛ける。
家の中は静かだった。
エルザの気配はない。
呼べば来てくれるのかもしれないが、なぜか大声を出す気にはなれなかった。
この家の静けさを壊すことが、悪いことのように思えたのだ。
私はしばらく迷った末、寝台を降りた。
床へ足をつける。
痛みはあったが、歩けないほどではない。
扉まで行き、取っ手へ手を伸ばす。
鍵はかかっていなかった。
私はそっと扉を開いた。
最初に感じたのは、乾いた薪と古い紙の匂いだった。
寝室の外には、もう少し広い部屋があった。
食卓。
一脚の椅子。
火の落ちた暖炉。
朝日を受ける小さな窓。
それだけなら、村の家と大きく違うようには見えなかった。
だが、一歩踏み出したところで、私は足を止めた。
本があった、しかも壁一面に。
大きなもの。
小さなもの。
黒い革で覆われたもの。
色褪せた布で綴じられたもの。
背表紙に金の文字が刻まれたもの。
天井近くまで伸びる棚に、隙間なく並んでいる。
私は口を開けたまま、それを見上げた。
村にも本はあった。母が夜ごと読んでくれた絵本もあったし、村長の家には、文字ばかり書かれた分厚い本が何冊か置かれていた。
けれど。
ここにあるものは、比べようもなかった。
私は食卓の周りをゆっくり歩いた。
椅子は一脚しかない。
昨夜、エルザが私の寝台のそばへ持ってきたものと同じ椅子かもしれない。
そこでようやく、私は思った。
あの人は、一人で暮らしているのだ。
外から鶏の鳴き声がした。
少し遅れて、小鳥の声。
風が窓をかすかに鳴らす。
人の話し声は聞こえない。
私は本棚を見上げた。
これほど多くの本に囲まれて、たった一人で。
幼い私には、その暮らしが寂しいものなのか、自由なものなのか、まだ分からなかった。
部屋にはいくつか扉があった。
その一つ。
青く塗られた扉の前で、私は立ち止まった。
ほかの扉とは違っていた。
表面には、金色の文字が記されているが、私は読めなかった。
朝の光を受け、見知らぬ文字だけが淡く輝いていた。
二度、扉を叩いた。
返事はない。
しばらく待ったが、やはり、何も聞こえない。
入ってはいけないのかもしれない。
そう思った――だが。
子供の好奇心というものは、ときに礼儀より強い。
取っ手へ手をかけると、扉は、あっけなく開いた。
中は薄暗かった。
小さな窓から、細い光が差し込んでいる。
光の筋の中を、埃がゆっくり漂っていた。
私は一歩だけ、中へ入った。
そこにも本があった。
右にも。
左にも。
奥にも。
寝室の外で見たものより、さらに多い。
本棚が壁のように立ち並び、その間に人ひとり通れるほどの細い道を作っていた。
私は息を潜めた。
森に似ていると思った。
木の代わりに、本が生えている。そんな森だ。
少し進む。
角を曲がる。
また棚がある。
知らない文字が並んでいる。
棚の隙間から、別の棚が見える。
気づけば、扉はもう見えなくなっていた。
けれど、不思議と怖くはなかった。
もっと奥を見たかった。
やがて、棚の間に小さな机を見つけた。
羽ペン。
インク壺。
書きかけの紙。そして、その隣には知らないものが並んでいた。
銀色の筒。
細かな目盛りを刻んだ板。
幾つもの輪を重ねた金属の道具。
壁には、無数の点と線からなる奇妙な図が貼られている。
私は机へ近づいた。
何一つ分からない。
何のために使うのか。
誰が作ったのか。
何を調べているのか。
分からないものばかりだった。
だからこそ、目を離せなかった。
そして、その中でもっとも私を惹きつけたものがあった。
机の端に置かれた、ガラスの球。私は吸い寄せられるように近づいた。
透明な大きな球の中に、青い球が浮いている。外側には、細かな点と線。台座から伸びた細い腕の先には、小さな緑色の球があった。
好奇心にまかせて、私は顔を近づけた。
青い球。
緑の球。
幾重もの輪。
そっと指先を大きな球へ触れさせた。
それは金属の軸を中心に、静かに回った。
球は滑らかに回り続け、朝の光が青い球を撫でる。
それを追うように、小さな緑の球が動いた。
ガラスに刻まれた無数の線が、光の中できらめく。
私は息を呑んだ。
もう一度、触れた。
回る。
青い球が動く。
緑の球も巡る。
何度も。
何度も。
意味など分からなかった。
それでも、胸の奥で何かが動いていた。
昨日の夜から、そこには悲しみしかないと思っていた。
父。
母。
燃える村。
黒い仮面。
それ以外のものは、もう何も残っていないのだと。
けれど、ガラスの中を小さな球が巡るたび、ほんのわずかに違うものが生まれた。
これは何だろう。
どうして動くのだろう。
青い球は何なのだろう。
緑の球は。
外側の点は。
私は、未知なるものを知りたいと強く思った。
そのとき、外から音がした。
低く、鋭く、何かが空気を裂く。
少し間を置いて、また。
私はガラス球から手を離し、耳を澄ませる。
風ではない。
木を切る音とも違う。
窓へ近づいたが、曇った硝子越しでは何も見えなかった。
また、音がした。
私は本棚の森から居間に戻った。
玄関を開けると、春先の風が頬に触れ、私は思わず目を細めた。
家は小高い丘の上に建っていた。
低い草原、そして、その向こうに、霧降山のなだらかな山肌が広がっている。
稜線には朝靄が残り、薄い白の向こうから陽光が差していた。
どこか、故郷の村の周りに似ていた。
そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
私は視線を落とし、少し待った。痛みが消えたわけではない。だが、その痛みが小さくなるのを待った。
それから振り返った。
昨夜は暗くて分からなかったが、エルザの家は古い石造りだった。
苔の這う壁。
雨風に晒され、黒ずんだ窓枠。小さな煙突。
そこから細い煙が立ち上っている。
決して大きな家ではなかった、荒れてはおらず、手入れの跡があちこちに見えた。
古いものを、古いまま大切に使い続けている。
そんな家だった。
後に私は、ここへ幾度となく帰ることになる。
喜びを抱えて。
傷を負って。
何かを学び。
何かを失って。
だが、この朝の私にとっては、まだ見知らぬ他人の家に過ぎなかった。
私は、先ほどの音を追って、家の裏手へ回った。
鶏小屋があった。その隣には、小さな厩舎。
中に一頭の馬がいる。
昨夜、私を運んだ馬だろう。
茶色い雌馬だった。
私が近づくと、馬はゆっくり鼻面を寄せてきた。
私は少し驚いた。
それから背伸びをして、頬を撫でた。
毛並みは柔らかく、よく手入れされていた。
そのとき、また空気を切り裂くような音がした。
今度は近い。
私は馬から手を離し、家の角まで歩いた。
石壁へ体を寄せ、そっと、その向こうを覗いた。
最初、彼女が踊っているのだと思った。
朝の光の中で、銀の髪が揺れていた。
細くしなやかな体が弧を描く。
足が滑るように地面を移り、腕が伸びる。
一歩。
回転。
踏み込み。
その動きにわずかに遅れて、空気が鳴る。
そこでようやく気づいた。
彼女の手に、剣がある。
エルザが振るうたび、白刃により、朝の空気が切り裂かれる。
速く、洗練された動作。
一つの動きが次の動きへつながり、途中に迷いがなかった。
剣が走る。
体が沈む。
銀の髪が翻る。
次の瞬間には、もう別の場所にいる。
私は息をするのも忘れていた。
美しいと思った。
そのあと、すぐに。
かっこいい。
そう思った。
両親に連れられ、王都の催しで、騎士たちの剣舞を見たことがあった。
磨かれた鎧。
白い刃。
旗。
人々の歓声。
幼い私には、あれも十分に立派なものだった。
けれど、エルザの剣は違った。
誰かへ見せるために振るわれてはおらず、拍手を求めてもいない。
その動きの一つ一つが、本当に何かを斬るためにあった。
だが、それは美しかった。
私は家の陰から、目を離せなかった。
自分も、あんなふうに動けたら。あんなふうに剣を振れたら。あんなふうに、強くなれたら。
胸の奥で、何かが熱を持った。
あの朝、私は初めて、強くなりたいと思った。
やがて、エルザの剣が大きく横へ走った。
風が鳴り、そして止まった。
剣先が、宙に静止していた。
銀の髪が遅れて揺れ、やがて収まる。
ほんの一瞬。
世界まで、彼女と共に息を止めたように見えた。
エルザはゆっくりと剣を下ろした。
刃を確かめ、注意深く、腰の鞘へ収める。
それから。
誰もいない朝の庭へ、静かに一礼した。
私は、その姿を見ていた。
背筋はまっすぐに伸び、見ているこちらの姿勢も正されるように思えた。
顔は見えない。
なのに、なぜか、軽々しく声をかけてはいけないような気がした。
次の瞬間、エルザが顔を上げた。
青い瞳が、まっすぐこちらを捉えた。
エルザは驚いた様子もなく、ただ私を見た。
長い髪をまとめながら、こちらへ歩いてきた。
青い紐を口にくわえ、慣れた手つきで束ねていく。
昨日の彼女とは服装も違った。
膝下までの短いズボン。
白いシャツ。
体に沿う濃色のベスト。
袖は肘までまくり上げられている。
村の女たちとはまとう空気が違った。
王都で見かけた淑女たちとも違う。
その服装は男の人のようにも見えたが、きびきびとした、しなやかなうごきは、やはり女の人のものだった。
何より、不思議なほど、その姿が自然だった。
エルザは私の前で止まった。
「驚かせたか」
私は答えられなかった。
エルザは一度、私の顔を見た。
それから剣の柄へ軽く触れる。
「朝の日課だ」
短く言った。
「体を鈍らせないために続けている。誰かを傷つけるためのものではない。」
彼女は私の前へしゃがんだ。
青い瞳が近づく。
「怖がる必要はない」
私は慌てて首を横に振った。
違う。
怖かったのではない。
少なくとも、あのときは。
胸が激しく鳴っていた。
私は何か言おうとした。
うまく言葉が出ない。
それでも。
どうしても伝えたかった。
「あの……」
声が小さくなるが、なんとか絞り出した。
「とても……かっこよかったです」
最後の方は、自分でも聞こえないほどだった。
エルザが不思議そうにまばたきをした。
私は急に恥ずかしくなり、俯いた。
しばらく何も聞こえなかった。
やはり変なことを言ったのだと思った。
だが。
「そうか」
とだけ声が聞こえた。
私は顔を上げた。
エルザはもう立ち上がっていた。
落ち着いた、抑揚の少ない声。
ただ、ほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
彼女は家へ向かって歩き出した。
数歩進んでから、振り返る。
「朝食にしよう」
私は頷いた。
慌てて、その後を追った。
胸の奥では、まだ鼓動が鳴っていた。
あの朝、私の心の中は冷たい悲しみで満たされていた。だが、その中に芽生えたかすかな熱の温かさ、それは憧れというものだったのかもしれない。




