第1章 拾われた少年
「私に人生を差し出せ。引き換えに、望みを遂げるための力を授けてやろう」
両親を殺され、故郷の村を焼かれた少年ラルフ。
両親の仇――「渡り烏」によってすべてを奪われた彼を、雨の降る焼け跡から拾い上げたのは、エルザと名乗る一人の魔女だった。
渡り烏へ辿り着き、いつかその仇を討つための力を求めるラルフは、エルザの弟子となり、人ならざる「不死人」となることを受け入れる。
剣を学び、師匠とともに世界を旅する中で、ラルフはさまざまな人々、そして数奇な過去を背負った魔女たちと出会っていく。
かつて人類とともに竜と戦った魔女たちの末裔。
失われた魔女の王国。
人間によって行われた魔女狩り。
そして、歴史の奥深くに隠された世界の成り立ちと「深淵」の存在。
なぜ渡り烏はラルフの故郷を襲ったのか。
なぜラルフだけが生き残ったのか。
そして、彼を弟子にしたエルザは何者なのか。
復讐を求めて魔女の弟子となった一人の少年が、師とともに歩き、多くの出会いと別れを重ねながら、やがて世界と魔女たちに隠された真実へ辿り着いていく。
師弟の絆、喪失、記憶、そして選択を描く長編ダークファンタジー開幕。
「序文」
私がこの物語を記そうと思ったのは、妻の言葉がきっかけだった。
結婚して三年ほど経った頃のことだ。
ある日、妻は不意に、私の過去を知りたいと言った。
私はそれまで、彼女との間に隠し事を持たずに生きてきたつもりでいた。少なくとも、自分ではそう信じていた。
だが、一つだけ、どうしても語れないことがあった。
私の幼少期。
青年期。
そして、今の私へ至るまでの長い時間。
それは思い出というにはあまりに大きく、過去と呼ぶには、今も私の中で生々しすぎるものだった。
妻は私を問い詰めなかった。
なぜ黙っていたのかとも、何を隠しているのかとも聞かなかった。
ただ、時おり私が遠くを見ることに、妻は気づいていたのだと思う。
そして、おそらく妻は、私が一人で見続けてきたものを、ほんの少しでも共に見ようとしてくれたのだ。
はじめ、私は拒んだ。
語れば、終わったはずのものが再び始まる気がした。
長く胸の底へ沈めてきた声が、名が、炎が、再び息を吹き返すように思えた。
それでも最後には、私は約束した。
胸の内に秘めてきたものを、彼女に明かすと。
そして、いざ口を開こうとした私を、妻は制した。
「本にしてほしい」
それは、私にとって、あまりにも意外なことだった。
それまでの人生で、まともに物語を書いたことなど一度もない。書物は数えきれぬほど読んできたが、自分がその一冊を作る側になるなど、考えたこともなかった。
当然、容易な仕事ではなかった。
記憶は思うほど従順ではない。
鮮明に残っている一夜がある一方で、長い年月が霧の向こうへ消えていることもある。顔は思い出せても声が戻らず、言葉だけが残って、そのとき誰がどんな表情をしていたのか分からないこともあった。
それでも、筆を置こうとは思わなかった。
文字にしていくうちに、私は一つずつ過去へ触れ直していった。
喜びと共に。
悲しみと共に。
ときには、自分の若さを恥じながら。
ときには、とうに失ったはずの胸の高鳴りを思い出しながら。
そうして少しずつ、私は自分の中にあったものへ形を与えていった。
この本は、妻のために書いた。
そして、おそらくは私自身のためにも。
もし、この先ほかの誰かが頁を開くことがあるのなら、最初に一つだけ記しておきたい。
魔女は実在する。
私の持つものの多くは、一人の魔女から授けられた。
それは、魔法と呼ばれる神秘の力ではない。
知識を。
技術を。
生き延びる術を。
そして、どれほど暗い場所にあっても、人はなお自らの足で立つことができるのだと、彼女は教えてくれた。
彼女 の名は、エルザ。
私の師であり、恩人であり――私の人生を、最初の終わりから拾い上げてくれた人だ。
この物語を記すにあたり、私は改めて、エルザ師匠から受け取ったすべてに感謝と敬意を表したい。
そして願わくば。
最後の頁を閉じたとき、読者の胸にも、エルザという魔女の面影がわずかでも残っていることを。
星歴一〇四五年 冬
「第1章 拾われた少年」
最初に覚えているのは、炎の熱と、臭いだ。
あの夜、私はまだ四歳にも満たなかった。
だから、そこで起きたことのすべてを理解していたわけではない。
誰が村を襲ったのか。
何のために人々を殺したのか。
なぜ父が倒れ、母が叫んだのか。
幼い私に、それが分かるはずもなかった。
それでも、忘れられないものはある。
煙に灼かれた喉。
肩へ食い込んだ母の指。
床に広がる血の温かさ。
そして、父の口から、言葉ではなく赤いものがこぼれた瞬間。
思えば、あの夜を境に、私の人生は行先が決まった。
そして、あの出来事がなければ、私は魔女に拾われることもなかっただろう。
記憶の限りでは、私は小さな村に住む農夫の一人息子だった。
まだ学校に通う年でもなかったため、昼間は平原や野山を駆け回り、好き放題に遊んでいた。夕暮れになると家へ帰り、父と母と三人で食卓を囲む。それが、幼い私にとっての世界のすべてだった。
父は夕餉の前、いつも外で泥を落としてから食卓についた。母は私が匙を落とすたびに、少し困ったように笑った。
家族で囲む夕餉の景色は、今でも記憶の片隅に残っている。
就寝前、母に読み聞かされた絵本の断片も、まだ思い出すことができる。
平凡で、当たり前で、失われるはずがないと信じる必要すらなかった生活。
それは、あの夜に終わった。
最初に異常を知らせたのは、近所から聞こえてきた悲鳴だった。
人の声なのに、人の声ではないように聞こえた。これは痛みとも、恐怖とも、警告ともつかない叫びだった。
私は手にしていた匙を取り落とした。
椀の縁に当たった匙が、乾いた音を立てる。
厨房に立っていた母の肩が跳ねた。
父は窓の外をにらみ、しばらく耳を澄ませていた。
やがて、椅子を引く音がした。
「様子を見てくる」
そう言って、父は玄関へ向かった。
母はすぐに私の椅子の後ろへ回り、両手で私の肩を包んだ。
その手に、いつもの温かさはなかった。指が食い込むほど強く、震えていた。
外では扉の開く音が続いた。
誰かが走っている。
何人もが、村の入り口の方へ向かっていく。
私は椅子の上で固まっていた。
母の手の下で、息をすることさえ忘れていた。
しばらくして、今度は逆の方から足音が近づいてきた。
走ってくる音。
何かを叫ぶ声。
けれど、その声は言葉になっていなかった。
母の手にさらに力がこもる。
次の瞬間、玄関が開いた。
飛び込んできたのは、父だった。
けれど、その顔は私の知っている父のものではなかった。何かを言おうとして、父は口を開いた。
そこからこぼれたのは、言葉ではなかった。
赤いものが、床に落ちた。
私は、父が倒れる音を聞いた。
その音を聞いても、動けなかった。泣くことも、叫ぶこともできなかった。
そして、父の背後に立つものを見た。
それは、人の形をしていた。
けれど、幼い私には人には見えなかった。
カラスの羽を寄せ集めたような黒い外套。
顔を覆う黒い仮面。
その仮面に穿たれた、暗い穴からは何かが私を見ていた。
手に握られた黒い槍の先から、父の血が滴っていた。
母が叫んだ。
視界が暗くなる。
重いものが私へ覆いかぶさった。
耳元で、息のような声がした。
「逃げて」
母だった。
私を庇ったのだと理解したのは、床についた手が温かな液体へ触れたときだった。
母の背中から流れた血だった。
私は、母の体の下で身を縮めた。
動けなかった。
黒い影は去らなかった。
身じろぎもせず、こちらを見下ろしていた。
仮面の下にどんな顔があったのか、今も知らない。
ただ、二つの暗い穴だけを覚えている。
私は、それを見返していた。
ほかに何もできなかった。
どれほどの時間だったのだろう。
影はやがて、静かに踵を返した。
そのまま家を出ていった。
なぜ。
その問いを私が抱くようになるのは、ずっと後のことだ。
その夜の私は、ただ震えていた。
外で、人々の叫び声が始まった。
どれほど母の下にいたのか分からない。
私はようやく這い出し、母を呼んだ。
声にはならなかった。
何度も肩を揺すった。
母は起きなかった。
父も動かなかった。
外ではまだ、悲鳴が聞こえていた。
遠くで。
近くで。
また遠くで。
やがて、その間が長くなった。
そして。
聞こえなくなった。
私は両親のそばを離れたくなかった。
けれど、そこに留まることもできなかった。
窓の外が明るくなっていた。
朝ではない。
炎だった。
煙が家の中へ流れ込んでくる。
咳が止まらなかった。喉が焼け、息を吸うたび胸の奥まで痛んだ。
私は父を引いた。動かなかった。
今度は母の腕を掴んだ。
やはり動かなかった。
二人がもう死んでいることを、私はどこかで理解していた。それでも、その身体を置いていくことだけはできなかった。
だが、四歳にもならない子供の腕で、大人の体を動かせるはずがなかった。
煙が濃くなり、耐えきれなくなった私は咳き込みながら、とうとう外へ逃げた。
地面へ転がり、灰と泥の混じった空気を貪るように吸い、そして、顔を上げた。
そこに、私の村があった。
家々が燃えていた。
道には人が倒れていた。
柵の向こうで家畜が鳴いている。
見慣れた井戸も。
隣家の扉も。
畑へ続く細い道も。
すべてが炎と煙の中にあった。
人が人として暮らすために積み重ねてきたものが、全て燃えていた。
村外れの丘へ向かって、何人かが走っているのが見えた。
私は生存者たちの後を追った。
そこへ行けば助かると思ったわけではない。
ただ、生きている人のいる方へ行きたかった。
その途中、頭上で焼けた家屋が音を立てて崩れた。
熱。
衝撃。
私は叫んだ。
地面へ押し倒され、手足が動かなくなった。
炎の向こうに、人影が見えた。
あの黒い影だった。
逃げる村人たちを追っていた。
槍が振るわれる。
人が倒れる。
また振るわれる。
また一人。
最後の一人の体を、黒い槍が貫いた。
そこで私の記憶は途切れている。
次に目を覚ましたとき、雨が降っていた。
視界のほとんどを、崩れた木材と土壁が塞いでいた。
首を動かす。
それだけで、喉から声が漏れた。
痛かった。
どれほど時間をかけたのか分からない。
私は残骸の隙間を這い、外へ出た。
そのまま、ぬかるみに落ちた。
泥が頬につき体に降りかかる雨は冷たかった。
けれど、顔を伝う涙だけは温かかった。
私は泥の中を這いながら、知っている人の名を呼んだ。
父を。
母を。
隣の家の人を。
よく遊んだ子を。
市場へ行くたび、菓子をくれた人を。
声はかすれ、雨音の中へ消えた。
誰も答えなかった。
どこまで行ったのだろう。
気がつけば、私は自分の家だったものに背を預けていた。
体は冷えきっていた。
指も、足も、もう自分のものではないようだった。
雨は降り続けていた。
私は目を閉じた。
遠くで、声がした。
誰かが呼んでいる。
瞼を開いた。
最初に見えたのは、青だった。
一対の瞳。
灰と雨に沈んだ世界の中で、その色だけが残っていた。
救いだったのか。
死ぬ前に見る幻だったのか。
幼い私には分からない。
ただ、その青から目を離せなかった。
「生きているな」
低い声だった。
澄んでいた。
不思議と、周囲の雨音に埋もれなかった。
私は声を出せなかった。
ただ頭の中で答えた。
生きている。
冷たいものが唇へ触れた。
水だった。
そう分かった途端、私はむさぼるように飲んだ。
少しずつ感覚が戻る。
そこで初めて、自分が誰かの腕に抱かれていると気づいた。
見上げる。
深い青の瞳。
雨に濡れた銀色の前髪。
大きな帽子のつばが、その顔へ影を落としていた。
若い女だった。
村を焼いた黒い影とは違う。
それだけは分かった。
「ここで何があった」
問いかけられたその瞬間、胸の中で何かが壊れた。
水を飲んだばかりの喉から、嗚咽だけが漏れた。
涙が止まらなかった。
女は一度、瞬きをした。
それから周囲を見渡した。
何も言わなかった。
焼けた家々。
泥の中の死体。
雨に煙る村。
それらを見たあと、青い瞳が再び私へ戻った。
「お前には治療と休息が必要だ。私の家へ来い。」
返事をする間もなく、体が浮いた。
女は私を抱き上げていた。
その動作に迷いはなかった。
肩越しに、村が見えた。
雨上がりの空の下。
私が生まれ育った場所は、灰色に沈んでいた。
やがて私は馬へ乗せられた。
女も背後へ跨がり、自分のマントで私を包んだ。
「家までは一日ほどかかる。つらいだろうが、少し耐えろ」
馬が歩き始めた。
私は見知らぬ女の腕の中で、再び眠りへ落ちた。
次に目を覚ましたとき、知らない天井があった。
家の屋根裏ではない。
整えられた板張りの天井だった。
額の上から何かがずれた。
湿った手ぬぐいが頬へ落ちる。
私はしばらく、それを見ていた。
自分がどこにいるのか分からなかった。
布団は柔らかかった。
日に干した布の匂いがした。
どこかから、乾いた薬草の匂いも漂っていた。
知らない家だった。
けれど、静かだった。
あまりにも静かで、私は一瞬だけ、あの夜を夢だったと思いかけた。
体を動かした。
全身に痛みが走り、そして、思い出した。
父の血。
母の背中。
炎に包まれた村。
仮面の穴。
息が詰まった。
胸の内側で心臓が暴れ、空気をうまく吸えない。
そのとき、部屋の外で物音がした。
扉が開き、あの女が立っていた。
「ようやく目を覚ましたか」
低く、凛とした声だった。
彼女は部屋へ入り、扉を閉めた。
枕元まで来ると椅子へ腰を下ろす。
私は布団の中で固まったまま、彼女を見ていた。
あの雨の中で見た青い瞳。
今は、深い水底のように見えた。
銀色の髪が額へかかっている。
長い後ろ髪は大きく編まれ、肩の前へ垂れていた。
その結い方を見た瞬間、母を思い出した。
女の手が伸び、私はわずかに身を縮めた。
額へ触れた手は冷たかったが、柔らかかった。
「熱は下がったようだな」
彼女は少しも慌てず、私の様子を確かめた。
「火傷は多いが、深いものではない。安静にしていれば、一週間ほどで動けるようになるだろう」
簡潔に告げる。
それから手を離し、額に貼りついた前髪を整えた。
その仕草が、また母を思い出させた。
私は喉を震わせた。
「こ……こ、は……」
ひどく細い声だった。
女は私を見た。
「私の家だ。お前の村から、馬で一日ほど離れている。霧降山の麓だ。」
霧降山。
その名は知っていた。
村から遠くに見える山だったが、行ったことはなかった。
彼女はそれ以上説明せず、黙って私を見ていた。
どうやら、次の質問を待っていてくれているようだった。
私はもう一度、声を絞り出した。
「あな……た、は……」
ほんのわずかに間があった。
「エルザだ」
青い目が私を見た。
「私の名は、エルザだ。」
その女、エルザは続けた。
「王都からの帰りに、大きな火が見えた。村へ着いた頃には、雨で炎は弱まり始めていた。だが――」
いい淀み、彼女の視線が、ごくわずかに揺れた。
「生きていたのは、お前だけだった。ほかに生存者はいなかった。」
分かっていた。
どこかでは、もう分かっていたはずだった。
それでも言葉にされた瞬間、足元が消えた。
寝台に横たわっているのに、深い穴へ落ちていくようだった。
皆、死んだ。
父も。
母も。
隣の家の人も。
よく遊んだ子も。
市場で菓子をくれた人も。
村長も。
私が知っていた世界は、もうなかった。
両手を握りしめた。
エルザも何も言わず、ただ、そこに座っていた。
その沈黙の中で、低い音がした。
私は驚いて、自分の腹を見た。
それでようやく、自分が空腹なのだと気づいた。
エルザは立ち上がった。
「何か持ってこよう。待っていなさい。」
そう言って部屋を出ていっ。
私は、母の料理を思い出していた。
母の得意料理である、鶏肉と玉葱の煮込み。
湯気。
食卓。
匙の音。
母の笑った顔。
それ以外のことを考えられなくなった。
しばらくして、エルザが盆を持って戻ってきた。
澄んだスープ。
黒麦のパン。
湯気と一緒に、やさしい匂いがした。
腹がまた鳴った。
エルザは椅子へ戻り、木の匙でスープをすくった。
何度か息を吹きかける。
それから、私の口元へ運んだ。
温かいものが舌へ触れた、喉を通り、腹の中へ落ちていった。
その瞬間。
私は、自分がまだ生きていることを思い出した。
エルザは何も言わず、次の一匙をすくった。
また冷まして。
また運ぶ。
私は途中で耐えられなくなり、器を受け取った。
夢中で飲んだ。
パンをむさぼった。
涙も鼻水も止まらなかった。
やがて器が空になり、私は枕へ倒れ込んだ。
エルザは汚れた口元を手ぬぐいで拭い、布団を胸までかけ直してくれた。
部屋のどこかで、木が小さく鳴った。
窓の外では風が動いていた。
乾いた薬草の匂い。
日に干した布団の匂い。
知らない家の音。
それらに包まれながら、私は再び眠りへ沈んでいった。
意識が途切れる直前。
声が聞こえた。
「哀れな坊や。今は安心して眠るがいい。」
相変わらず、抑揚の少ない声だった。
私は目を開けなかった。
ただ、その言葉を信じた。
その夜の私は、まだ知らなかった。
私を地獄の中から拾い上げた女が、"魔女"と呼ばれる存在であることを。




