第5章 暗い魂の炎①
強い日差しを額に感じながら、私は夏草の匂いを含んだ風を吸い込んだ。
全身が熱く火照り、早鐘のような心臓の鼓動が、身体の内側から私を揺さぶっている。
「集中しろ。常に気を緩めるな」
エルザ師匠の声を聞き、私は模擬刀を握る手に力を込め直した。
先ほど打たれた上腕が、脈を打つように痛んでいる。
その痛みを意識の外へ追いやり、視覚を除いたすべての感覚を研ぎ澄ませて、次の攻撃に備えた。
耳を掠める風。
揺れる夏草。
自分の荒い呼吸。
その中に、エルザ師匠の気配を探す。
空気を切り裂く音に気づいた時には、私は地面へ叩き伏せられていた。
「ぐっ……!」
脇腹を押さえ、地面へ顔をつけたまま、必死に空気を求める。
その頭上から、感情のこもらない声が落ちてきた。
「駄目だ。まるで対応できていない」
わずかな間を置く。
「もう一度だ」
私は歯を食いしばり、どうにか立ち上がった。
真っ暗な視界の中で、重い木製の模擬刀を構え直す。
目隠しの布には、私の汗と涙が染み込んでいた。布の端から雫となって、頬を伝い落ちていく。
私はもう一度、周囲の気配を探ることへ全神経を注いだ。
耳元を通り過ぎる風の中に、草の擦れる音が混じる。
エルザ師匠がいるはずの方向から聞こえたような気がした。
「たあっ!」
気合いの声とともに、気配を感じた空間へ模擬刀を突き出す。
だが、手には何の感触も返ってこなかった。
空振りだったと理解するよりも早く、後頭部へ激しい衝撃が走った。
目隠しの向こうの暗闇に、白い火花が散った。
◇
「目隠しをしたまま師匠と戦うなんて、できるはずがありません!」
ミラルダによる襲撃が起きた魔女集会から戻り、七日が過ぎた朝。
エルザ師匠は、ついに私への戦闘訓練を始めた。
私がエルザ師匠のもとで暮らし始めてから、二か月ほどが過ぎようとしていた。
ようやく本格的な訓練を受けられる。
そう期待に胸を膨らませていた私へ、エルザ師匠が提示した訓練方法は、目隠しをした状態で師匠と模擬刀を打ち合わせるという、非常識極まりないものだった。
エルザ師匠は弟子の不満など意に介さず、黒い布を私の顔へ巻きつけた。
家の周囲に広がっていた鮮やかな草原は、一瞬にして夜の帳のような暗闇へ変わった。
真っ直ぐ立っているのかどうかさえ分からない。
足元が急に頼りなくなり、身体がゆらゆらと揺れているように感じられた。
その時、手の中へ重い棒状のものが押しつけられた。
「模擬刀だ」
エルザ師匠の声がした。
「木製だから、打たれて死ぬことはない」
声が、わずかに遠ざかる。
「もっとも、かなり痛いがな」
私が身構える暇もなかった。
風を切る音とともに、エルザ師匠の容赦のない一撃が襲いかかってきた。
◇
五度ほど打ち据えられた頃には、私は地面へ顔を埋めたまま、立ち上がることさえできなくなっていた。
脇腹が激しく痛み、満足に息を吸えない。
全身が痺れ、指先一本動かすことすら億劫だった。
「立て」
エルザ師匠の無機質な声が、頭上から落ちてきた。
「もう一度だ」
私は長い時間をかけ、模擬刀を杖代わりにして、どうにか上体を起こした。
目隠し越しに、エルザ師匠がいると思われる方向を睨みつける。
傍から見れば、大人が幼い子供を一方的に打ち据えているようにしか見えなかっただろう。
だが、その時の私は、師匠の理不尽な仕打ちに腹を立てる余裕さえなかった。
正確には、次に襲ってくる痛みへの恐怖で、それ以外のことを考えられなかったのだ。
暗闇の中で、エルザ師匠の声が私の周囲を巡り始めた。
「お前の中に、恐れを感じる」
前方。
右側。
背後。
声の位置が、絶えず変わる。
「痛みに対する恐怖。暗闇の中へ閉じ込められる恐怖。そして――」
師匠の声が、私の後ろで止まった。
「自分を害する、未知の者への恐怖だ」
私は息を呑んだ。
「お前はひどく恐れているな。渡り烏と戦うことを」
私は膝をついたまま、背後へ模擬刀を振り回した。
手応えはない。
次の瞬間、脳天へ雷が落ちたような衝撃が走った。
目隠しがずれ、その隙間から、私を見下ろすエルザ師匠の青い瞳が見えた。
その瞳を見返しながら、私の意識は本当の暗闇へ沈んでいった。
◇
「気がついたか」
目を開けると、エルザ師匠の顔がすぐ近くにあった。
私は師匠の膝へ頭を乗せられ、木陰の下で横たわっていた。
反射的に身体を起こした途端、全身へ鋭い痛みが走った。
「ううっ……」
低いうめき声が漏れる。
打たれた場所を確かめると、どこも青紫色の痣になっていた。
頭を強く打たれたせいか、脳が頭蓋骨の中でぐらぐらと揺れているような感覚もある。
「ひどいです、師匠」
私は痛む頭を押さえた。
「この鍛錬に、本当に意味があるのですか?」
二か月をともに過ごす中で、私はすっかりエルザ師匠を信頼するようになっていた。
だが、さすがに今日の仕打ちは、素直に受け入れられなかった。
エルザ師匠は、背中を預けていた木の幹から身体を離し、静かに立ち上がった。
「もちろん、意味はある」
私を見下ろす。
「だが、この鍛錬がどのような成果をもたらすかは、お前次第だ」
そう言うと、再び私の顔へ黒い布を巻きつけ、模擬刀を押しつけてきた。
「もうやるのですか?」
「立て」
抗議は聞き入れられなかった。
私は痛む身体を引きずるようにして立ち上がり、再び暗闇の中で模擬刀を構えた。
「お前が相対するのは、私ではない」
エルザ師匠の声の方向を追いながら、私は身構えた。
「お前自身の中にある暗闇だ」
師匠の足音が、草の上をゆっくりと移動していく。
「いかに鍛え上げられた肉体を持つ戦士であろうと、敵へ立ち向かう強い意志がなければ、魔女という存在に打ち勝つことはできない」
私は模擬刀の柄を強く握った。
「敵を倒す意志を持つためには、まず自分の中にある恐怖を克服しなければならない」
声が、どこから聞こえているのか分からなくなる。
「己の暗闇を見つめろ」
焼け落ちる故郷の景色が、脳裏に蘇った。
「故郷が焼かれた時のことを思い出せ」
赤い炎。
崩れる家々。
倒れていた父と母。
「渡り烏への復讐心が、お前の恐怖を薄れさせる」
胸の奥で、黒い感情が燃え上がった。
「そして、やつへ立ち向かう勇気を与えるのだ」
最後の言葉が途切れた瞬間。
空気が、微かに揺れた。
私は直感のまま、模擬刀を虚空へ振り抜いた。
甲高い音が響く。
手の中へ、模擬刀同士がぶつかり合った振動が伝わってきた。
私は間髪を容れず、刀が触れ合った場所へ向けて打ち込んだ。
一度。
二度。
三度。
すべて空を切った。
だが、次に迫ってきたエルザ師匠の一撃を、私は模擬刀で受け止めることができた。
その時。
暗闇の中へ、何かが浮かび上がった。
瞼を強く閉じた時に、光の花が現れては消えることがある。
それと似た、曖昧な白い輪郭。
人の形をした影が、私の周囲をゆらゆらと揺れていた。
私は、その幽霊のような影を追った。
直感のままに模擬刀を振るう。
また空を切る。
背後から迫る影へ刀を向ける。
硬い音とともに、攻撃を防ぐ。
見えているわけではない。
それでも、その白い輪郭がどこにいるのか、私には分かった。
やがて十合ほど打ち合ったところで、私は力尽きて膝をついた。
荒い息を吐きながら地面へうずくまる。
すると、頭をくしゃくしゃと撫でる感触がした。
「その調子だ」
先ほどまでとは違う、わずかに柔らかな声だった。
「今の感覚を忘れるな」
エルザ師匠は私の頭から目隠しを外すと、その日の訓練の終了を告げた。
◇
「痛たたたたっ! もっと優しくしてください!」
軟膏を塗られるたび、痣になった場所が熱を持って疼いた。
エルザ師匠は眉一つ動かさず、年季の入った長椅子の上で身を縮める私へ、淡々と治療を施していた。
「大げさな声を出すな」
薬を指先へ取り、私の上腕へ塗り込んでいく。
「この訓練には、痛みに慣れるという目的もある。この程度で騒いでいては、これから先の訓練で意識を保つことすら難しいぞ」
その言葉には、冗談らしい響きが一切なかった。
私は黙り込むしかなかった。
一通り軟膏と包帯による処置を終えると、エルザ師匠は薬箱を片づけながら尋ねてきた。
「何が見えた?」
「何のことですか?」
痛む腕を包帯の上からさすりながら、私は不機嫌に聞き返した。
エルザ師匠は私の前へしゃがみ込むと、両手で頬を挟んだ。
「ちょっ、師匠?」
逃げる間もなく、顔を引き寄せられる。
私の視界いっぱいに、深い水底を思わせる青い瞳が広がった。
「暗闇の中で、何が見えたのかと聞いている」
エルザ師匠は、私の瞳の奥を確かめるように覗き込んでいた。
「今日の鍛錬で、お前が突然あれほど対応できるようになるとは、正直、私も予想していなかった」
頬を挟む指へ、わずかに力が込められる。
「相手のいる方向を掴むだけなら、まだ分かる。だが、攻撃を受け止められるようになるまで、私がユーリアから教えを受けた時でさえ六日はかかった」
私は痛みと恐怖の中で見た、あの白い輪郭を思い出した。
「目隠しの裏で、白い影のようなものが動いていました」
「影?」
「はい。ゆらゆら揺れたり、近づいてきたりしたので、それに向けて夢中で模擬刀を振り回しただけです」
私の説明を聞き、エルザ師匠は低く唸った。
ようやく頬から手を離し、顎へ指を添える。
「すでに、魂の残影が見えているとはな」
独り言のように呟く。
「お前の中にある暗い魂は、すでに覚醒の兆しを見せているということか……」
その言葉には、驚きだけではない何かが含まれているように聞こえた。
私は考え込むエルザ師匠へ、先ほどと同じ問いを投げかけた。
「目隠しをして師匠と戦うことに、何の意味があるのですか?」
エルザ師匠は答えない。
「それに、師匠の言う魂の残影とは何なのです?」
エルザ師匠は立ち上がると、薬箱を手に厨房へ向かった。
「まずは昼食にしよう」
振り返ることなく告げる。
「説明は、その後だ」




