第3章 遠雷④
翌朝、目を覚ますと、すでに着替えを済ませたエルザが旅支度をしていた。
普段の黒一色の装束ではない。
その日は、金糸の刺繍が施された、深い紺色のローブをまとっていた。
眠い目をこすりながら身体を起こすと、小さな革鞄を投げてよこされた。
「朝食の前に荷造りをしろ。お前が持つのは、着替えだけでいい」
事情も分からぬまま、私は着替えを済ませ、数少ない衣服を鞄へ詰めた。
荷造りを終え、エルザと朝食の席へ着いたところで、私は尋ねた。
「どこかへ出かけるのですか」
「王都へ行く。仕事だ」
エルザは短く答えると、食事前の祈りを始めた。
季節は春から初夏へと移り変わり、街道沿いの緑は濃さを増していた。
エルザとともにアンナの背で揺られながら、私は以前、王都を訪れた時のことを思い出していた。
前年の暮れ、私は父にせがみ、王都で行われた式典へ連れていってもらったことがある。
高い城壁。
そこから伸びる無数の尖塔。
大通りを行き交う人々の活気。
都の中心にそびえる王城。
生まれてから小さな村でしか暮らしたことのなかった私は、目に映るすべてに圧倒された。
もう一度あの景色を見られるのだと思うと、胸が高鳴った。
「王都までは二日ほどかかる。今夜は、途中の町で宿を取るぞ」
エルザは王都のある方角を杖で示した。
私は頷いた後、今回の旅の目的を尋ねた。
「エルザ師匠が朝に言っていた仕事とは、何ですか」
「言葉どおりの意味だ。お前が私の家で働き、その対価として食事と住む場所を得ているのと同じように、私も王都で働き、収入を得ている。それだけだ」
私は思わず、頭上にあるエルザの顔を振り仰いだ。
「師匠も働いているのですか」
エルザは腕の中の私を見下ろし、呆れたように息を吐いた。
「当たり前だ。日々の食事や薪を買う金が、どこから出ていると思っていた。まさか、私が魔法で金貨でも作っていると考えていたのか」
実のところ、私はそれに近いことを思っていた。
だが、魔女が世間の人々と同じように職を持ち、働いているという姿は、どうしても想像できなかった。
「……師匠は、どのような仕事をしているのですか」
「私の職業か。分かりやすく言えば、教員だ。王都の王立大学で非常勤講師を務めている。明後日は、三か月に一度の出張講義の日だ」
私は驚いて、再びエルザを見上げた。
「エルザ師匠は、本当に先生なのですね!」
エルザは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「当然だ。私は魔女だぞ。普通の人間では考えられないほどの知識を、長い年月の中で蓄えてきた。それに、私たちは一度得た知識を忘れない。魔女が就く仕事としては、適していると思うがな」
珍しく、彼女の口元が和らいでいた。
普段、魔女について語る時のエルザの声には、かすかな自嘲が混じっていた。
だが、自分の仕事について話す彼女は、どこか誇らしげに見えた。
私は初夏の日差しを照り返す街道へ視線を戻しながら、王都への期待が、さらに膨らんでいくのを感じていた。
王都へ向かう途中、私たちはセントヘレナという小さな宿場町で一夜を明かした。
そして翌日の昼過ぎ、王都の城門へたどり着いた。
王都ミナス・アノールの城門前には、大きな関所が設けられていた。
一般の人々、行商人、役人、農民、兵士。
それぞれの身分や職業に応じて、入場口が分けられている。
関所の各所では、鎧をまとった兵士たちが、人々の列へ鋭い目を向けていた。
私とエルザはアンナから降りると、「役人」と書かれた看板のある検閲所へ向かった。
エルザは帽子を取り、懐から掌ほどの大きさの革張りの手帳を取り出した。
そして、慣れた様子で検査官へ差し出した。
若い検査官は入城許可証を受け取ると、にこやかに挨拶した。
「こんにちは、エルザ・ランディア教授。今回の入城目的は何でしょう」
「いつもと同じです。王立大学での出張講義となります」
検査官は決められた手順に従って許可証を確認し、入場印を押した。
「結構です。そちらの少年は?」
検査官は窓口から身を乗り出し、私を見下ろした。
咎められているわけではないと分かっていても、私は緊張で顔が強張るのを感じた。
「この子は、カニンガム教授の親類の子です。一度王都を見せておきたいと教授から相談され、連れてきました。入城の手続きは、保護者同伴としてお願いいたします」
「承知しました。それでは、こちらの入城記録に、貴女と少年の名前を記入してください。少年には臨時の許可証を発行します」
私は指し示された場所へ、覚えたばかりの拙い文字で自分の名前を書いた。
その隣にエルザが署名する。
検査官は私へ、小さな革張りの手帳を渡した。
中には、王印の押された臨時入城許可証が収められていた。
「それでは、ご入城ください。王都での滞在が、実りあるものとなりますように」
検査官は私へ微笑みかけた。
エルザは軽く会釈し、私の手を取って歩き始めた。
振り返ると、検査官の男は、まだ窓口の向こうから手を振っていた。
ミナス・アノールの城門は、行き交う人々と馬車の波でごった返していた。
私たちは城門脇の厩舎へアンナを預け、都の中心街へ向かった。
白い石で舗装された目抜き通りには、露店が軒を連ねていた。
色鮮やかな果物。
見たことのない形の香辛料。
細かな装飾を施された金属器。
異国の衣服。
耳慣れない言葉を交わす商人たち。
エルザは王立大学の教員服を翻しながら、人の波を縫うように歩いていった。
私は周囲の景色へ目を奪われながら、師匠の速い歩調についていくのに必死だった。
「今夜は、どこに泊まるのですか」
「王都にいる間は、大学に勤めるカニンガム教授の家へ厄介になる。その前に、どこかで昼食にしよう」
露店に並ぶ品々へ目を向ける私の手を引きながら、エルザは黙々と歩を進めた。
城門から続く大通りを抜け、中央広場に面した食堂で、私たちは昼食を取ることになった。
広場の噴水を眺められる屋外の席は、昼下がりの日差しに温められ、居心地がよかった。
注文はエルザに任せ、私は広場の向こうにそびえる王城を眺めた。
白い城壁は、新しい蝋燭のように艶やかな光を放っていた。
中央に立つ天守は、空へ向けて掲げられた一本の剣のようだった。
料理が運ばれてくるまでの間、エルザは鞄から書類を取り出し、目を通し始めた。
王立大学の紋章が刺繍された紺色の服と眼鏡は、彼女の理知的な印象をさらに際立たせていた。
ほかの席の人々も、時折エルザへ視線を向けていた。
「何だ。私の顔に何かついているのか」
私の視線に気づいたらしく、エルザは書類から顔を上げ、眼鏡をわずかにずらした。
磨かれたレンズが、日の光を反射して煌めいた。
「いいえ。そういうわけではありません。何を読んでいるのですか」
無遠慮に見つめていたことが気まずくなり、私は話題を変えた。
「これか。明日の講義に使う原稿だ。一日がかりの授業になるから、話す内容は事前に組み立てている」
エルザは、原稿の中身を少しだけ見せてくれた。
細かな文字で埋め尽くされた頁には、普段から彼女の机で見かける記号や図が並んでいた。
「師匠は、大学で何を教えているのですか」
原稿を返しながら尋ねると、エルザの口元が、わずかに緩んだ。
「私の専門は、天文学と宇宙物理学だ。普段の観測結果や、宇宙の法則に関わる計算を、学生たちへ教えている。今回は――」
そこで言葉を切り、眼鏡を指先で押し上げた。
「お前に手伝ってもらった観測結果も、講義の中で使うつもりだ。最近は、かなり質のよい記録が取れたからな」
私は、エルザが大学で教える姿へ少なからず興味を抱いた。
「師匠、僕も――」
頼み事を口にしようとした、ちょうどその時だった。
目の前へ、料理を載せた皿が置かれた。
大皿には、丸く焼かれたパンのようなものが、三枚重なっていた。
一番上では、半ば溶けたバターが、淡い狐色に焼かれた表面をゆっくりと滑っている。
甘い香りが、鼻をくすぐった。
私は、初めて見る食べ物へ、すべての興味を奪われた。
「何だ。月見焼きを見るのは初めてか」
エルザは一緒に運ばれてきた小壺から、焦げ茶色の蜜を月見焼きへ垂らしていた。
自分の分へ蜜をかけ終えると、その壺を私へ渡した。
「小麦粉と卵、それに牛乳を混ぜて焼いたものだ。普通は蜂蜜をかけるらしいが、この店では偃月樹から採った蜜を使っている。それが名物だそうだ。食べてみろ」
私はナイフとフォークで月見焼きの一角を切り取り、大きく頬張った。
普段食べていた黒麦パンとは比べものにならないほど柔らかい。
バターの塩気と、偃月樹の蜜の甘さが、生地の奥まで染み込んでいた。
気づけば私は、口いっぱいに月見焼きを詰め込むことへ夢中になっていた。
「あまり急いで食べると、喉に詰まらせるぞ」
エルザには窘められたが、彼女自身も、黙々と食べることに専念していた。
あっという間に皿を空にした私は、食後の茶をすすりながら、しばらく感動に浸っていた。
「こんなにおいしいもの、生まれて初めて食べました」
エルザは、私の鼻先についた蜜を布で拭いながら、呆れたような声を出した。
「まったく、お前は分かりやすいな。私が作った食事へ、そこまで夢中になったことはないだろう」
「すみません。でも、あまりにおいしかったので、つい……」
慌てて謝ると、エルザは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「まあ、いい。お前が満足したのならな」
その時、エルザは、はっきりと笑っていた。
彼女と出会ってから、それが私の見た、初めての魔女の笑顔だった。
偃月屋での食事を終えると、私たちは王都の中央市街地を離れ、カニンガム教授夫妻の家がある居住区へ向かった。
一般市民が暮らす住宅地は、商店や役所、政治庁舎の並ぶ中心街よりも高い土地に造られていた。
私たちは都の中を流れる運河に沿って、上流へと進んだ。
巡回する乗合馬車に揺られながら、私は遠ざかっていく王城の尖塔を見送った。
「王都は、とても広いのですね」
思わず呟くと、エルザは編んだ髪へ指を触れながら答えた。
「この国の人口の一割近くが暮らしている。そう考えれば、とてつもなく大きな城塞都市だと言えるだろうな」
窓の外へ目を向けながら、彼女は言葉を続けた。
「かつては居住区もなく、王城と、それを囲む城壁だけの砦だった。今のような都市へ発展したのは、三代前のセオデン王の功績だ。政治家としては今一つ振るわなかったが、都市設計に関しては天才的な感覚を持っていた」
エルザは、どこか懐かしむように、すでに亡い王を語っていた。
後に知ったことだが、セオデン王とは、およそ百五十年前に都を治めていた人物だった。
普段は何気なくともに暮らし、私へ知識を教えてくれるエルザ。
だが、彼女が遠い昔の出来事を、まるで昨日のことのように語る時、私は思い知らされた。
魔女であるエルザは、私のような人間とは、まるで異なる時間の中を生きている。
そして時折、私はそのことを寂しく感じた。
カニンガム教授夫妻の家へ到着した頃には、すでに日が傾き始めていた。
家は王都の外れにある高台へ建っており、そこから市街地を見下ろすことができた。
遠くの王城は西日を浴びて金色に輝き、その足元に広がる街並みは、少しずつ夕闇へ沈み始めていた。
「言うまでもないが、この家で粗相をして迷惑をかけるな。カニンガム夫妻は優しい人たちだ。だからこそ、礼節を尽くすことを忘れるなよ」
「はい、エルザ師匠」
エルザは頷くと、年季の入った木製の扉を叩いた。
間もなく家の中から返事があり、扉が開いた。
顔を見せたのは、柔和な表情をした初老の女性だった。
「まあ、いらっしゃい。エリザベス。首を長くして待っていたのよ。あなた、エリザベスが来たわよ」
カニンガム夫人は家の奥へ声をかけた。
「ご無沙汰しております、カニンガム夫人。今回もお世話になります」
エルザは丁寧に頭を下げた。
私は慌てて、それに倣った。
「いつものことなのだから、そんなにかしこまらなくていいのよ。ところで、こちらのかわいらしい坊やは?」
夫人は目尻に深い皺を寄せ、私へ微笑みかけた。
「この子は事情があり、今は私の家で預かっています。詳しい話は、後ほど」
エルザに肩をつつかれ、私は改めてお辞儀をした。
「ラルフ・ラングレンといいます。よろしくお願いします」
「まあ、きちんと挨拶ができて偉いわね。さあ、どうぞ中へ入ってちょうだい」
「お邪魔します」
私とエルザは声をそろえ、玄関をくぐった。
「やあ、いらっしゃい、エリザベス」
玄関の奥にある階段から、顎髭を蓄えた男が降りてきた。
「お邪魔します、カニンガム教授。今回もお世話になります」
「何、学生と教員ばかりが話し相手では、退屈でな。君が来ると、いつも刺激があって楽しいのだよ。ところで、こちらの少年は?」
私は急いで頭を下げた。
「初めまして。ラルフ・ラングレンと申します。今は事情があって、エルザ師匠の家に置いてもらっています。よろしくお願いします」
今度は、促される前に挨拶ができた。
カニンガム教授は、丸眼鏡の奥の目を細めた。
「ほう。エリザベスが人の子の面倒を見るとは珍しい。初めまして。私はエリック・カニンガム。王立大学で考古学を教えている。よろしく、ラルフ君」
そう言って、身を屈めながら手を差し出した。
私は、深い皺の刻まれた、力強い手を握り返した。
子供である私に対しても、対等な相手のように挨拶をする教授を、私は少し不思議に感じた。
「さあ、そろそろ腹も減った頃だろう。食事にしよう」
私とエルザは荷物を客間へ置き、食堂へ通された。
カニンガム夫妻の家は、王都の一般的な住宅だった。
決して広くはなかったが、老夫婦二人で暮らすには十分だという。
昼食を軽く済ませただけだったこともあり、私とエルザは、夫人の料理を大いに楽しんだ。
エルザの料理に不満があったわけではない。
だが、カニンガム夫人が作る郷土料理は、家庭の味でありながら、どこか洗練されていた。
私は久しぶりに、何も考えず食事そのものを楽しんだ。
「私が思うに――」
普段のカニンガム教授が、どのように話すのかは知らなかった。
だが、その夜の彼は、葡萄酒の杯を片手にずいぶん饒舌だった。
「王立大学の教員には、頭の固い者が多すぎる。君の提唱した宇宙拡大論についても、半世紀前の理論を持ち出して反論することしかできん。彼らは、新しい考えを生み出すことを放棄しているのだ」
教授から勧められた葡萄酒を口にしながら、エルザも、その夜は珍しくよく話していた。
「まったくです。かつては盛んだった宇宙物理学も、今では化石のような学問として扱われている。世界の外側へ目を向けることこそ、私たちが立つこの大地を知ることにつながるというのに」
老教授は、杯を持った手でエルザを指した。
「エリザベス。やはり私は、君を王立大学の常勤教員として推薦したい。君のような叡知の塊を、名ばかりの顧問にしておくのは惜しすぎる。今の学会にも、学生たちにも、君のような存在から刺激を与えなければ、変わるものも変わらんよ」
エルザは杯へ口をつけながら、苦笑した。
「お言葉はありがたいのですが、エリック。私の役目は、人間への手助けとして、学問の世界にわずかな手がかりを残すことだと考えています。それに、今の時代の人々が、私たちのような存在を受け入れるとも思えません」
カニンガム教授は杯を一息に空け、口元を拭った。
「そういうところだよ、エリザベス。君は、この世界における自分の役割を、誰より正しく理解している。だからこそ、君のような探求者を眠らせておくことは、人類の進歩を遅らせることになると思うのだがね」
エルザは、自分の杯の中を見つめた。
長い睫毛が、わずかに伏せられた。
「人類の進歩は、早いか遅いかの問題ではありません。肝心なのは、人間が自らの力で歩めるかどうかです」
その声は、静かだった。
「魔女のような、人の限界を超えた者に導かれたとしても、それを人類の成長とは呼べない。結局は、かつての魔女狩りのような悲劇を繰り返すだけです」
カニンガム教授は杯を卓上へ置き、背もたれへ身体を預けた。
「確かに、人類の知識が今の程度では、そうかもしれん。だが、いつか科学という叡知が、魔法という現象すらも記述する日が来るだろう」
老教授の目には、酒の酔いとは異なる熱が宿っていた。
「君たち魔女が扱う力は、いずれ科学が到達すべき答えであり、終着点へ向かうための道標となる。ただの救い手ではなく、人類を教え導く存在として、もう一度、歴史の表舞台へ立つべきだと私は思うがね」
エルザは首を横に振った。
「魔法など、所詮は戦うための道具にすぎません。私たち魔女も、この世界からは、兵器としての役割ばかりを求められてきた」
杯へ落とした視線を上げることなく、言葉を続けた。
「過ぎた知識と力は、いずれ人類そのものを滅ぼしかねない。私はそう考えています」
なおも反論しようとする夫を、カニンガム夫人が穏やかに制した。
「議論が盛り上がるのは結構ですけれど、もう夜も更けてきましたよ。あなたもエリザベスも、明日は大切なお仕事でしょう。それに――」
夫人は私を見て微笑んだ。
「子供は、とっくに眠る時間です」
私とエルザは夕食の礼を言い、席を立った。
「エルザ師匠は、どうして先生になろうと思ったのですか」
湯船から顔だけを出し、私はエルザへ尋ねた。
カニンガム夫妻の家には屋内に風呂があり、私たちは夫人の勧めに甘えて、旅の疲れを癒していた。
エルザは薄い肌着を身につけたまま、湯を張った桶へ長い銀髪を垂らし、洗っていた。
普段から身体を動かしているためか、あるいは魔女となる以前から鍛えていたのか、彼女の身体は細身ながら引き締まっていた。
「私が教師の道を選んだのは、ただの成り行きだ。魔女である以上、一つの場所へ長くとどまることは難しい。だが、教師ならば、どこへ行っても知識を生かせるからな」
師匠の答えは、私が思っていたよりも簡単だった。
成り行きだけで大学の教員になれるものかどうか、当時の私には分からなかった。
ただ、仕事について話す時のエルザが、どこか楽しそうに見えることだけは確かだった。
「お前にはあるのか。将来、就きたい仕事が」
洗った髪から湯を絞りながら、エルザは片目を閉じた顔を私へ向けた。
彼女が私の将来について、具体的に尋ねたのは、その時が初めてだった。
だが、私は答えを持っていなかった。
湯の表面を見つめながら、自分の心だけが、ひどく冷えているように感じた。
「今は、まだありません。渡り烏を倒すことしか、考えていませんから」
わずかな間、エルザの手が止まった。
だが、表情は変わらなかった。
「そうか」
彼女は、ただそれだけを答えた。
その夜、私とエルザは、客間を寝室として借りた。
師匠と同じ寝台で眠ったのは、その時が最初で最後だった。
旅の疲れがあるはずなのに、私はなかなか眠りにつけなかった。
隣から聞こえる、エルザの静かで規則正しい寝息。
薄暗がりの中に浮かぶ彼女の寝顔を眺めながら、私は死んだ父と母のことを思い出していた。
父は寡黙な人だった。
躾についても、普段はそれほど口うるさく言わなかった。
朝早く起き、畑へ出る。
日が沈む頃に帰り、食事をして眠る。
父は、来る日も来る日もそれを繰り返していた。
食後のわずかな時間と眠っている時を除けば、父が休んでいる姿を、私はほとんど見たことがなかった。
母はまめな性格で、幼い私にとっては、何かと口うるさい存在だった。
危ない遊びをするな。
家の手伝いをしろ。
食べ物の好き嫌いをするな。
思い出されるのは、私を縛る言葉ばかりだった。
だが、その言葉の間には、別の記憶もあった。
食事を終えた後の、家族三人で過ごす時間。
寝る前に聞かせてもらった物語。
父と母に挟まれて眠った、狭く温かな寝台。
思い出した途端、目から大粒の涙がこぼれた。
エルザ師匠を起こさないよう、私は必死に嗚咽を押し殺した。
固く目を閉じ、布団の中で身体を丸めた。
しばらくして、頭の横へ、温かい手が触れた。
目を開けると、薄闇の中に、エルザの青い瞳がぼんやりと浮かんでいた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、その手を私の頭へ置いたまま、静かに見つめていた。
私は、エルザという新しい保護者のすぐ隣にいながら、それでも家族を失った喪失の中へ、深く沈んでいた。




