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第3章 遠雷③

魔女の家で、学びと労働の日々が続いた。


 当時の私にとって、エルザとの一対一の座学は、苦痛以外の何ものでもなかった。


 エルザは厳しかった。


 常に高い学習効率を求め、昨日教えたことは、今日にはできて当然だと考えていた。


 それが、彼女の語った「人の一生は短い」という考えに基づくものだとは、幼い私にも理解できた。だが、私の頭が一度に覚えられる量を一切考慮しない授業の速さに、私は次第に疲れ果てていった。


「これは昨日覚えたはずの文字だ。なぜ書けない」


 普段は感情をほとんど表に出さないエルザの声にも、次第に苛立ちが混じるようになった。


 師から叱責されるたび、私の身体は緊張で強張った。


 言われたとおりに間違えた文字を書き直しながら、紙の上の文字を涙で滲ませたこともある。


 目を腫らし、鼻をすすりながらも、私は筆を置かなかった。


 エルザ師匠の教え方は厳しく、つらかった。


 それでも、この学びが渡り烏への復讐につながるのだと思えば、簡単に投げ出すわけにはいかなかった。


 そうして七日間にわたる詰め込み授業を終えた頃、私はすべての文字を、どうにか読み書きできるようになっていた。


 エルザは私の練習帳を一頁ずつ確かめると、鼻から小さく息を吐いた。


「その年で、これだけ書けるようになったのなら上等だ。明日からは、物語を題材にして、もう少し国語らしい授業をしてやろう」


 それだけ言うと、昼食を作るため厨房へ向かった。


 褒められたのだと理解するまでに、私はしばらく時間を要した。


 午後からは、すでに馴染みとなった労働が待っていた。


 できては潰れる掌の豆に耐えながら、私はエルザに命じられた家事を黙々とこなした。


 厳しい学びと苦しい労働しかない生活であれば、幼い私の心は、すぐに挫けていたかもしれない。


 だが、エルザ師匠との暮らしには、楽しみもあった。


 彼女が夜になると、しばしば行う天体観測である。


 初めのうちは、言われるままに器具を運び、読み上げられる数字を記録するだけだった。


 しかし、観測を重ねるにつれて、私の中では、夜空に浮かぶ星々への関心が強くなっていった。


 エルザは自分の作業を終えた後、自由に天体遠眼鏡を使う時間を与えてくれた。


 私は夢中になって筒の角度と焦点を変え、視界の中に浮かび上がる星々を眺めた。


 白く輝くもの。


 淡く青みを帯びたもの。


 燃える炭のように赤いもの。


 表面に縞を持つものもあれば、周囲を小さな光に囲まれたものもあった。


 星には、それぞれ異なる姿があった。


 それを一つずつ見つけていくことが、当時の私には何より楽しかった。


 ある夜の観測で、遠眼鏡の操作に夢中になっていた私へ、エルザが尋ねたことがある。


「お前は、なぜ星を見るのが好きなんだ」


 私は遠眼鏡から顔を離し、暗闇に浮かぶ彼女の輪郭へ目を向けた。


「綺麗だからです。星の光とか、表面の模様とかが」


 感じたままを答えた後、今度は私から尋ねた。


「エルザ師匠は……なぜ星を見るのですか」


 彼女がわずかに首を傾げる気配がした。


「そうだな。宇宙の理を研究することが私の仕事であり、それに、この世界の外側へ至る道を――」


 そこまで言いかけて、エルザは小さく息を吐いた。


「……いや。あとは、お前と同じだ。私も星々の輝きに魅せられている。ただ、それだけだよ」


 私はしばらく、闇の中の彼女を見上げていた。


 だが、それ以上は尋ねず、再び遠眼鏡へ目を戻した。


 その夜、エルザはいつもより長く、私に自由観測の時間を与えてくれた。


 エルザは、私への授業と家事、それにわずかな休息の時間を除けば、いつも調べ物や書き物をしていた。


 作業をする場所は、主に書庫の奥にある机だった。


 掃除の際、私はたびたび机の上を覗き込んだ。


 そこには、天体の動きや位置を記録した書類が山のように積まれていた。


 その中に混じって、この国の領土を記した地図が広げられていることがあった。


 地図には、三つの場所に印がつけられていた。


 それが、過去五年間に渡り烏の襲撃を受けた村々の位置であることを、私はすぐに理解した。


 上から重ねられた紙には、乱雑な字でいくつもの覚え書きが残されていた。


 襲撃の時期。


 被害者の数。


 村の規模。


 周辺の地形。


 わずかな情報をつなぎ合わせ、エルザが渡り烏の足取りと目的を探ろうとしていることが窺えた。


 魔女集会の日から、アストラエアの書簡を携えた梟が、一度だけエルザのもとを訪れた。


 王都周辺の村々に異常はなく、渡り烏が再び動いた気配も見られない。


 書簡に記されていたのは、そのような報告だった。


 エルザの弟子となってから、ひと月ほどが過ぎようとしていた。


 私はすでに文字の読み書きを覚え、簡単な物語であれば、問題なく内容を理解できるようになっていた。


 家事についても叱られることが少なくなり、それなりにそつなくこなせるようになっていた。


 その頃から、私は頻繁に悪夢を見るようになった。


 夢の中では決まって、故郷の村が燃えていた。


 私は父と母の名を呼びながら、炎の中を彷徨い続けた。


 燃え落ちた家々と、その残骸が迷路のように行く手を塞いでいる。


 どれほど走っても村の外へは出られず、呼びかけに答える声もなかった。


 やがて、炎の向こうに黒い影が見えた。


 渡り烏だった。


 あの影はいつも、血に濡れた黒い槍で、誰かの身体を貫いていた。


 その姿を見つけるたび、私は背を向けた。


 恐怖に追い立てられながら、出口のない村を走り続けた。


 ある夜、夢の中でもがき苦しむ私を、誰かが呼んでいた。


 目を開けると、書庫の薄闇に、エルザの青い瞳が浮かんでいた。


「このところ、よくうなされているな。悪い夢でも見ているのか」


 枕元に座った彼女は、私の背へ手を添え、身体を起こすのを手伝ってくれた。


 私は汗で濡れた寝間着の冷たさに震えながら、掠れた声を絞り出した。


「村が、燃えています。やつが……渡り烏が、人を……」


 エルザは何も言わず、しばらく私の背中をさすっていた。


 やがて枕元を離れると、温かい茶の入った杯と、一冊の本を持って戻ってきた。


 私の呼吸が落ち着くのを待ってから、枕元のランプへ火を灯す。


 それほど分厚くはない、古びた本だった。


 表紙には丁寧な装飾が施され、題名が美しい金色の文字で刻まれていた。


「これは……『ほのおのまじょと』……」


「『炎の魔女と失われた王国』だ。古い物語だが、眠れないのなら、これを聞けば少しは気も紛れるだろう」


 そう言って本を開き、エルザは普段よりも穏やかな声で読み始めた。


 澄んだ声が、狭い書庫の中へ静かに響いた。


 私はその声に導かれ、いつしか遠い物語の世界へ引き込まれていった。


 はるか昔。


 地上を覆った人類と凶竜の戦いが終わり、人の子らの国々が興って、まだ間もない頃。


 白の都と呼ばれる、美しい都を治める王女がいた。


 その国は、三代にわたって女王を戴き、長く繁栄していた。


 歴代の女王たちは、魔法と呼ばれる、この世ならざる力を持っていた。


 その力で民を助け、国を守った。


 領土こそ大きくはなかったが、国は豊かで、穏やかな文化を育んでいた。


 三代目の王女は、母から受け継いだ美しい姿と、慈悲深い心によって、民から深く慕われていた。


 国民の暮らしが苦しくなれば、自ら魔法を使って助けた。


 戦となれば自ら剣を取り、兵士たちの先頭に立って戦った。


 その剣は鋭く、戦場では幾人もの敵将を討ち取ったと伝えられている。


 やがて王女の名声を聞きつけ、近隣諸国の男王たちが、次々と婚姻を求めてきた。


 彼らは甘い言葉を囁き、高価な宝石や、美しい衣装を贈った。


 だが王女は、彼らが望んでいるのが自分の心ではなく、魔女としての力であることを見抜いていた。


 そこで王女は宣言した。


 自らを剣の立ち合いで打ち負かした者と、婚姻を結ぶ、と。


 多くの王が名乗りを上げた。


 しかし、王女の剣に勝てた者は、一人としていなかった。


 ほとんどの王たちは、やがて婚姻を諦めた。


 だが、その中に一人だけ、どうしても王女の力を手に入れようと執心する王がいた。


 彼は、自らの帝国を広げ、世界のすべてを支配しようという野望を抱いていた。


 男王は、古き災厄と呼ばれる凶竜種の生き残りと契約を結んだ。


 そして竜人の軍勢を率い、王女の国へ攻め入った。


 王女は剣を取り、自ら戦場へ赴いた。


 だが、竜人の軍勢は強大だった。


 王女の兵士たちは少しずつ追い詰められ、ついには白の都そのものが、敵軍に包囲された。


 民が戦火に巻き込まれることを憂えた王女は、自らの身と魔女の力を差し出すことを条件に、都への攻撃をやめるよう男王へ申し出た。


 男王はそれを受け入れた。


 王女は剣を置き、自ら敵のもとへ下った。


 しかし、王女を手に入れた男王は、約束を守らなかった。


 彼は竜人の軍勢へ命じ、白の都への侵攻を始めた。


 都はたちまち蹂躙された。


 裏切りを知った王女は拘束を解き、白の都へ舞い戻った。


 彼女は城の天守へ立て籠もり、残された騎士たちとともに、最後まで抗った。


 だが、やがて城門は破られた。


 王女を守っていた最後の騎士も殺され、とうとう彼女は一人になった。


 男王は王女の前へ立ち、剣を突きつけ、己の勝利を告げた。


 その時、王女の怒りが燃え上がった。


 それは、自らの身を薪とする、魔女の炎だった。


 炎は男王を包み、竜人の兵士たちを呑み込み、城の天守を焼いた。


 だが、王女の怒りは、それでも収まらなかった。


 炎は城から都へ広がった。


 家々を焼き、塔を焼き、白い城壁をも包み込んだ。


 最後には、白の都すべてを呑み込む大火となった。


 天を舐めるほどの巨大な火柱は、遠く離れた国々からも見えたという。


 こうして、魔女の王女が治めた白の都と、その国は歴史から姿を消した。


 今ではただ、古い物語の中にのみ、その名を残している。


 最後の一文を読み終えると、エルザは静かに本を閉じた。


 それほど長い話ではなかった。


 だが、ほかの子供向けの物語のように、幸福な結末を迎えるものではなかった。


 むしろ、胸の中へ重いものを残す終わり方だった。


 それでも私の頭には、白い都の壮麗な姿や、戦場を駆ける美しい王女の姿が、はっきりと浮かんでいた。


「悲しいお話ですね」


 布団の中から枕元のエルザを見上げ、私は率直な感想を口にした。


 彼女は本の表紙を撫でながら、小さく息を吐いた。


 そして、私の髪をくしゃりと撫でた。


「……そうだな。だが、この話は一つの教訓とも取れる」


 エルザは閉じた本へ目を落とした。


「大きな力を求める者は、その力によって焼かれる。力を持つ者もまた、その力によって災いを招き、最後には自らを滅ぼすことがある」


 静かな声だった。


「過ぎた力や、報復の心は、いつか人の身を滅ぼす。そういう話だ」


 そう言うとランプの火を消し、枕元から立ち上がった。


「少しは落ち着いたか。明け方まではまだ時間がある。もう休みなさい」


 書庫から出ようとするエルザへ目を向け、私は尋ねた。


「この物語は、本当にあったことなのですか」


 扉へ手をかけたまま、彼女は答えた。


「この話が書かれたのは、遠い昔のことだ。もとになった出来事はあったのだろう。だが、それがどこまで真実だったのか、今となっては確かめる術はない」


 扉が静かに閉じた。


 その音を聞いてから間もなく、私も再び眠りへ落ちた。


 

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