九曲目「Luv Letter」
「府雨の音楽記憶」九曲目「Luv Letter」
DJ OKAWARI
時が止まっていた。パソコンからはずっとこの曲が流れていて、心にしずくを滴らせて、終わらない暗闇の中、眠らせてくれなかった。
正確には、眠れないから音楽を流していたのだけれど。
大学から今に至るまで、単純な言葉では表せない、答えのない凪で立ち往生していた。
自由を得たのは勘違いだった典型的な大学生。楽しく楽に好きなことができる。僕も多分に漏れずそう思った。
病気の中大学に入り、相変わらず午前四時に寝て午後四時に起きて、サークルに行くだけ。
自律と自由は全く違う語彙らしい。
知的なブレイクスルーを生み出すのは、しかし、自律ではなく自由。
コントロールされた生活では、知識しか身につかない。
知識を運用するためには、大きく回り道をして、元の場所まで帰ってくる必要がある。何年かけても。
理由のない抑圧の理由を探して、それがその時そうせざるを得ない、不可避の不毛だと知った。
何も生み出してない苦痛を、その身に刻み込むということは、時間を測ること。
何もないとわかる、喪失に手で触れる。
時間が帯だとわかる。その帯がぐちゃぐちゃに切られていた。帯が切られると、道のりが長くなる。
今の居場所もわからない。
京都の出町商店街の古本屋で、読まない本を買う。とりあえず買っていた。
本が読めなかった。大学で読んだのは早瀬耕『未必のマクベス』とこざわたまこ『負け逃げ』と原田マハ『モダン』だけ。読まなすぎて笑えてきてしまう。
文学部でよかった。
特に実験とかなくて、ぼーっとしているだけでよかった。
文学部生だったんだけど、読まなかったなぁ。
ただ流れていく時間に、ほとんど申し訳なさを感じなかった。病気だったし、見通しだけはよかった。いつか。いつか元に戻るだろうとわかっていた。
まだ元に戻ってないけれど、歩いてきた道の長さだけは、誇ることができる。
僕がいた大学は「インターネットに書いてあることを十年研究した後に、ネットでそれを知る」大学で、「整備された道をどれだけ早く走るかが問題な」大学ではない。
入った大学も学部も間違いじゃなかった。
通っていた神宮丸太町にある大学病院の精神科。いわゆる精神病院で、4、5回は入院させてもらった。
大学生じゃなければ、環境に身をそのまま投げることはできなかった。
それに、読まなくても、稼がなくても、生きなくても、責めるのはせいぜい自分だった。
自分の新たな相というのか、断面を知ったのは大きい。
感情というものに頼る瞬間が自分に訪れるとは思っていなかった。
0時から朝の4時まで、虚空を見ながら。DJ OKAWARIを聴く。楽しさはもちろんない。
音というのがとても純粋に感じられた。感じるというのが感情だと腑分けした。
この音楽は一つのトラウマで、耳にするとその時の沈鬱が蘇ってくる。それは人生で一度しか経験できないような、深い絶望だった。
陳腐な表現ではあるものの、誰かに無条件で愛されたかったのだと思う。
そして立ちはだかる絶対的な空虚感の壁。本当に壁に囲まれていて、息が詰まりそうだった。
貧乏したことないだろ、とか、もっと恵まれない人がいる、とかそういう観念的な不遇の競い合いも、その壁の前では考える暇もなかった。
社会が悪いとか、遺伝子が悪いとか、そんなことを言って説明できるなら、まだ幸せだ。もしそれで気持ちが楽になるなら。
精神病とは癌のようなものだと思う。人生から無邪気さが取り払われて、言い訳を許さない苦しさに苛まれる。
純粋に意志と力が求められる。僕は「入院できるならまだマシだろ」とか「親に金があったからまだいい方じゃん」という外野からの声には「幸せな人だな」と思う。
その人は病気の苦痛が金で和らぐと思っている。
本質的には病気は「理性への挑戦」の形を取る。金がいくらあっても本人が治療に前向きじゃなければ、病気は快方に向かわない。
理性が理解するのは自分のタイムリミットで、そういう意味では精神疾患は癌と変わらない。
何年かけられるか。それは気合いで時間を縮めることはできない。できたらみんなの選択は「0秒」だから。
その何年が、何年になるかは、たしかに環境によるかもしれない。でもそれは、本人のマイナスをゼロにする努力を考慮に入れない、健常者の論理だ。
実際病気が治るのは、仕事をすることに似ている。
スケジュール帳とかカレンダーに「この日までに治る」と書いて、それで終わりではない。
仕事はスケジュールに文字を書いただけで仕事になるわけではなく、やりたくないことをどうやるかとか、何にどれくらい時間がかかり、その時の自分のコンディションや、突発的に生じる別の仕事への対処など、のっぺりした面になっている。
言葉で解決を口にする人を、障害を持つ人は信じないだろう。
4時間ただ「Luv Letter」を聴くのもまた、のっぺりした時間なのだ。
それに、仕事には終わりがあるけれど、病気はともすると終わりのない、常に抱えた腫瘍で、薬がそもそも毒で、だから眠れないのだけれど、それを飲まないと、いつか壊れてしまうから。
薬を飲むのは嫌だった。友達だった人は自己処方していた。嫌なことをやるのが仕事なら、嫌なことをやるのが病気で、そこに、特に違いはないように思える。
そう言うと「薬があるだけマシじゃん」という人も出てくる。たぶん死ぬほうが生きるよりマシだから、その理論は当たっていない。
人生は幸福のためにあるわけじゃない。ただ死ぬと損な気がするから、苦痛を背負って生きている。生きることは難しい。難しいゲームだ。
人生の本質は苦痛か?
そう聞かれると、僕はしばしば絶句する。
苦痛というのは当たり前だし、苦痛を背負うほうが難しくて楽しい。
本質というか、生きることに特別の意味はない。当たり前に辛い。その他の喜びや楽しみは、単なる文化でしかない。
人生は、幸せのためというより、苦痛をどう引き受けるかによって、「選別」されているようにも思える。
苦しみだけが意志を生み出す。
その時になって初めて、意志が時間を掴むような、そんな気がする。
僕は鬱は長いけれど、空白への手応え自体は嫌いではない。




