八曲目「Light colors」
「府雨の音楽記憶」八曲目「Light colors」
Lia
中学時代見た「Air」から、Liaはよく聴いています。
この曲「Light colors」を聴いたのは、東京から逃げ出して、父の単身赴任していた和歌山で浪人生活を送っていた時のこと。
軽い絶望感、受験勉強自体は、嫌じゃなかったけど、とりあえず双極がきつくて、躁鬱に振られてその鬱の時にずっと聴いていた。
音楽は音と声でできているから、あまり歌詞の意味に接続することがない。それは、僕の脳が意味の入力を拒んでいるからのような気がします。歌うことはできる。でもそれは、意味を極力排除している抑圧という形で成立します。
和歌山のTSUTAYAにバスに乗って行き、Liaのアルバムを借りて、聴く。
音楽に漂う透き通った悲壮感。空間性。そこに一人でいるという寂しさ。
どれもが詩的で、僕の感情を沈め、安心させます。
誰とも繋がれない和歌山での生活。自分のポテンシャルへの懐疑。のっぺりとした遠さ。
一番遠いのは自分の気持ちですが、それに接続するすべを、僕は知らなかった。
狂ってしまえたらなぁと思っていたのはもうすでに病的で、狂うのは生まれた時からの定めだったと思うのです。
狂えば楽になると思っていました。それは半分までは正解だった。
もう半分は単に、体がしんどいというくらいのことです。眠れず、眠れば長い。でも、小さい頃僕は、たしかにそうなりたいと思っていた。
キツいとも思わない。キツいのはどんなシチュエーションでも当たり前だから。
苦しいとも思わない。苦しいのは当たり前だから。
思い通りにいかないことがあるというのは、最初からわかっていた。
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CLANNADの智代はそういえばとても美しかったなぁと思いながら、この曲を聴いていました。
強くて、綺麗で、優しくて、どこか融通のきかない芯の強さ。
誰かを助けられる人が一番、誰かに助けてほしいと思っている袋小路。母性を求められるヒロインは、そのくびきから解き放たれることを望んでいるような気がします。
人のために生きることが当たり前の人生で、誰かを助けるために、誰かと付き合う。本当は世界を救えるのに、路傍の石を拾ってしまう。
そんな小さな物語で、智代は満足できるはずがないのに、雪を見て諦める。自分というのがどこか透き通っているから。あの銀髪のように。
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京都に行きたいというのは、最初のわがままでした。
あの和歌山の部屋で、受験と闘病を続けられたのは、間違いなく父親のおかげですが、自分の力も評価したい気持ちがあります。
たとえ病気だろうと、壁が京都の受験であろうと、なんとか乗り越える。その二つは僕が望んだことだから。
環境的な要因がなければ、発病しなかったかもしれない。
友達が「どうして病気をしてまで」仕事をするのかと言っていた。どうして病気をしてまで生きるのだろう。
たぶんそれは「病気が苦だ」という予断がある。
障害は確かにハンデで、能力の上に降った火山灰を拭って、能力を発揮するコストは大きい。そして手間です。
そういう「コスト」や「手間」をかけられないくらい忙しい世界では、そういう疑問を持つこともあると思います。
でも、反対側から言えば「コストをかければ問題を棚上げすること」ができる。手間をかければ、病気を抱えながら、薬を飲みながら、副作用に苦しめられながら、全ての面倒を抱え込んで一歩前に進めば、それは健常者の一歩と変わらない。
抱えながら生きるのは大変です。それこそが障害なのだから。何も抱えずに歩く人を羨むこともあるかもしれない。
でも一歩は一歩だと思います。
人によっては十年の間立ち止まることもあるかもしれない。
でも、不思議なことに、僕はほとんどその状態に近かったけれど、周りの人を羨んだことはない。
軽々な意識の一歩を、すぐ忘れ去る人がいることを知っているから。
僕の快楽は「記憶」すること。歩みが記憶できないのは僕にとっては健常でもなんでもない。忘却は病ではないけれど、顧みられることのない人生を羨むことはない。
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Airの「鳥の詩」を聴いた時、手を伸ばしても届かないものがあると知りました。
手の届かないところにあるものは、手が届かないが故に、価値がある。
自分の背中に翼がない。千年の時を経て、近づこうとする。
前世で助けられなかった人を助けるというテーマは、あの時助ける主体、主人公の視点で描かれていた。
誰かに助けてもらうことを期待しないまま、翼をたたんで鎖に繋がれ、空を飛べないヒロインと、なんとなく自分を重ね合わせます。
諦めて、心を凍てつかせて、偽物の笑顔で固めて、人に期待しない。不自由の中で見出した小さな自由みたいなものを弄んで、それで小さく満足する。
やりたいことというのは生きることだけで、わがままみたいなものも言わない。
我慢すると体に悪いとか、そんなことが言えるのは、我慢しなくていい環境にいるからだと、悪態をついてみたくもなります。
主張を通す前に、損得を計算する。たとえ「負け」でも「損」しなければいい。たとえ実利がマイナスでも「よりひどい負け」を回避する。
勝てない人生というのは、そういうふうにできている。勝つために人生を送っているわけではない。ただ生きるために生きるという営みはある。
人生に幸福を期待することはない。この悲壮感が、実に手応えがあって心地よいのです。




