七曲目「We Don't Talk Anymore」
「府雨の音楽記憶」七曲目「We Don't Talk Anymore」
チャーリー・プース
洋楽ではデュア・リパの「New Rules」と並んで好きな曲。
MVが切なくて、そんな恋愛したことないのですが、なんとなく地下鉄の改札で最後に手を振った人のことを思い出すみたいな、きゅっとなる感情をかき立てられます。
恋愛をしない世代というけれど、恋愛のコストを考えたら、なかなかできないというもの。
好きというのには責任が伴う。
性的になるのも、逆に性を抑制するのも、どちらにもコードがある。
恋愛をするのが好きというのもあるらしいですが。
僕は好きな人がいるというだけで心が温まります。
好き、というのははもしかしたら姫にかしずく騎士のようなものなのかもしれません。
自分にとっての姫。あるいは神様みたいなものと、恋愛をしたいとは思わない。
そういう僕と恋愛したいと思う人もいないでしょう。
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日本において「好き」というのは、もちろん「好きにしたい」とは違う、特別の感情と状態を表す言葉です。
好きというのは対象への働きかけではなくて、自分の状態です。そして「相手の気持ちを押し測った結果」という、特別の条件が常に付帯しています。
そこには、相手の「美しさ」に対する敬意と、笑顔を向けられたことに対する「嬉しさ」があります。
好きというのは、あなたといるのが嬉しいということです。ただそれだけのことです。ただ話して、ただその時の自分を観察して、そこに手を繋ぐ必要なんてない。
確かめるのは、失礼かなと思うこともあります。
欲しさみたいなものは、好きを歪めます。
それも、欲しさにまみれてみなければわからないことではあるのですが、他者を欲することとその結果は、当然ながら裏切り合いの関係にあるからです。
僕の「好き」は、相手のことを考えることが幸福かどうかにかかっています。
だから、好きじゃない人と恋愛するのは、時間の無駄というより、不誠実です。
恋愛が目的化しているのであれば、それこそ失礼であるとすら思います。相手に対してではなく、自分の「好き」という感情を曇らせてしまうという意味で。
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好きな人が遠くにいて、自分以外の人と仲良くしているのを想像するのは悲しいことです。
でもそういう悲しいことが、世界にはよくあると、チャーリー・プースは言うわけです。
セレーナ・ゴメスの声を、想像することだけで、僕は慰められます。
たとえ、僕以外の人に笑顔を向けていても、僕の思い出までは塗りつぶされることはないと、声を想像することで。
声は、音楽なのかな。
音楽は、声援なのかな。
たとえ、音がただの物理現象でも、歌詞がただの記号でも、そこには確かに声を感じることができます。
音楽を聴くことで傷から滲み出てくる体液が、痛みとともに、自分を癒してくれるのです。
声は外から聴こえてくるだけじゃない。音楽を鳴らすのは自分の気持ちです。
苦しい時に口ずさめる歌は、「自分」の歌ではないけれど、歌詞が自分の中から出てくるのは救いです。
助けてくれるのは自分の中にいる、その人への好意だから。自分の好きという気持ちが、自分を守ってくれる。
その「声歌」が、綺麗であることが。
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もう会えないというのが、雪の降りしきる町を想起させます。
雪を眺めるだけの窓の外の風景と、部屋の中の暖かさ。
矛盾する内外は、まるで生と死のようで、外に出る気はしない。
甘やかされて、ぬくぬくしていてもいつかは、外に出なくてはいけない。でもそれは、今ではない。
雪は降る。
大人になるのを待っている子どものように、ただ観察する。それが仕事だから。
実際に雪の冷たさを知るのは、風景の誤謬を感じるのは、まだずうっと先なんだと、思ったような気がします。
メグメルを思い出した。中学二年生の時のCLANNAD。アニメを見てあんなに愛に溢れた人たち、実際には見たことないなと、現実に幻滅していたけれど、あの話は結局、愛が生み出す奇跡というより、「逃げるという向き合い方」を語っていた。気がします。
向き合わないという向き合い方で、大切な人を守ろうとしていた。
優しさとは愛ではない。
優しさは自分の能力の範囲で行使されますが、愛はしばしば優しさとは逆のネグレクトを肯定する。
優しさは単なる行為でなんの意味もない自己満足ですが、愛に人は手応えを求めます。
だから、僕は単に好きでありたい。
ただ声援を反芻したい。愛という手触りでトマトを握りつぶしたくない。僕はたぶん、家族という形態が嫌いなんだと思います。CLANNADでは感動しなかった。
朋也の絶望を想像すると、自分の無味乾燥で冷酷な諦めに嫌気がさす。
自分の優しさには、愛されることを毛ほども求めていない他者への根本的な不信がある。
好きな人に愛されたとしても、その愛の意味を解することはないんだろうな。
そう思うと、僕の優しさには他者への愛は介在していない。レストランのお会計のようなもので、ただの感謝でしかない。
これは、裏切りへの防衛反応の一つだと思いますが、そういう意味で僕はたぶん、誰一人として信じていないし、やりとりは、形式的なものに過ぎないのだと思います。
メグメルは自分の笑顔の悲壮さを、決定的なものにしました。ああ、悲しいというのはここまで心地よく、脳髄をじゅわりと溶かすんだ。
ほろほろと崩れていく脳みそに涙腺が反応しないのは、心が冷めているのか、ジプレキサの薬効か。
たまに涙を催す時はいつも、父親のことを考えている。
肩を揉んでやったこともない父親を。僕が喜んでいると思って、五歳の時、くすぐってきた父親を、疎ましく思っていたことを、悪いと思って。どうすれば父親を好きになるかわからないから、そういう無情な自分が怖くて。それで泣いてしまう。あの幡ヶ谷の六号通り商店街で肩車してもらったのは、六歳だった。嬉しくもなんともなかったことを、よく覚えている。
いつも作り笑顔ばかり見せて、心の底から喜んだことのない自分をどうして憎むことができないんだろう。
楽しいと思ったことも、嬉しいと思ったことも、本当は一度も、誰も好きと思ったこともないんじゃないかと思うと、本当に怖くなる。
嘘をついて平気なんだとしたら、ロボットよりタチが悪い。
意味が通じればいい。気持ちなんかなくてもいい。AIみたいに文脈と確率で言葉を紡ぎ、確固たる意見なんかない。
曖昧な好きという感覚を頼みに、自分の感情を偽物だと言い続けて、精緻なグラスを抱えて、使うこともせず落とさないように大切に拭う。傷だらけでも大切なグラスだから。
一つしか持っていないんだ。




