第8話「泣いたのは嫁さんの方だった」
お茶を持って戻ってきたエマさんは、縁側に入ってきた瞬間に何かを察したと思う。
私とリュカが黙って座っていた。言葉のあとに残るような空気の中に。
エマさんはお茶を三つ並べて、それから静かに座った。陶器が板に触れる音が、やけに澄んでいた。
ジジだけが、ぼんやり庭を眺めている。平和な庭と、妙に重たい縁側の空気が噛み合っていなかった。いつも通りのジジだった。
「聞こえていましたか」
先に口を開いたのは、エマさんだった。
リュカがびくりとした。私は少し考えてから、正直に言った。
「聞こえていたとしても、おかしくない距離ではあったわね」
「……エマ」リュカが言った。声が低く、かすれている。
「謝らなくていいのよ」エマさんは穏やかな声で言った。「あなたがそういう気持ちを持っていたのは、ずっと知っていたから」
沈黙が落ちた。
ジジが耳をぴくりと動かして、また動かなくなる。この猫、こういう時だけなぜか静かにしているのよ。
「知っていたの」リュカが言った。
「知っていたわ。結婚してから、ずっと」
エマさんは膝に手を置いて、ゆっくりと庭を見た。背筋はまっすぐで、でも目の端に何か疲れたものが滲んでいた。
「レナさんのことを話してくれたことはなかったけれど。でも、どこかよそよそしい瞬間があって。特に昔の話をするとき——そのときだけ、何かを避けているみたいだった」
「それは」
「怒っていないのよ」エマさんが言った。「今さら怒っても仕方がないし、あなたはちゃんと誠実な夫だったし。ただ」
エマさんが少し間を置いた。視線が庭の奥、遠いところへ行く。
「少し、悲しかったのは本当なの」
私はお茶を一口飲んだ。ほうじ茶の香ばしい香りが鼻を抜けていく。
これは夫婦の話になってきた。私が口を挟む場面かどうか、少し迷う。
でも黙っているのも変な気がした。ここで老婆が黙り込んでいても、場の空気が重くなるだけよ。お茶でも飲んでなさい、という感じになる。それはそれで悪くないが、もう少し役に立ってもいいかもしれない。
「エマさん」私は言った。「あなたたち、ちゃんと話したことある?」
二人が私を見た。
「この件についてよ。リュカが何を思っていたか、あなたが何を感じていたか。ちゃんと言葉にしたことが」
リュカが視線をそらした。縁側の板の目を数えるような視線だった。エマさんが少し目を伏せる。
「……なかったわね」エマさんが静かに言った。「ずっと、なんとなくわかっているつもりで、わかったふりをして、それで済ませていた気がする」
「そういうもんよ、長い夫婦は」私は言った。「でも、もうお互い年なんだから。言えることは言った方がいいと私は思うけれど」
しばらくして、エマさんが泣いた。
声を立てずに、ただ目から涙が伝っていた。
「ごめんなさい」エマさんが言った。誰に言っているのか、少しわからない感じがした。「変よね。謝りに来たのに、私が泣くなんて」
「泣きたければ泣けばいいわ」私は言った。「変でも何でもない」
リュカが困った顔をしている。謝りに来たはずなのに、妻を泣かせてしまった。話の流れがどこかへ行ってしまって、七十過ぎの男が少年みたいな困惑の顔をしている。
(まったく。謝るより先に、ちゃんと向き合う練習でもしておきなさいよ)
心の中でそう思ったが、言わなかった。そこまで言うと老婆の出しゃばりになる。
「リュカ」私は言った。
「なんだ」
「あなたが謝るべき相手は、今泣いてるんじゃないの」
リュカがゆっくりと、エマさんの方を向いた。
エマさんが目元を押さえながら、少しだけ笑った。目が赤くなっていた。
「急に謝られても困るのよ、本当に」
「そうだな」リュカが言った。「……ありがとう。今まで、何も言わなくて、すまなかった」
「それはこっちも同じよ」
私はそっと立ち上がり、台所へ向かった。
「お茶、入れ直すわね」
背後で二人が何か話しているのが聞こえたが、内容は聞かなかった。台所の方が、声が届かなくてちょうどいい。
台所に入ると、ジジがついてきた。私の足元に座って、黄色い目でじっと見上げてくる。
「お前はいい猫ね」私は言った。「こういうとき、気を使ってついてきてくれる」
ジジが短く鳴いた。
お世辞を言ったが、実際のところジジは台所に来ると何かもらえると思っているだけかもしれない。猫の動機はよく分からない。でも、来てくれるのはありがたいのよ。
湯気の立つ鍋を眺めながら、ぼんやり思った。
謝罪の場のはずが、すっかり夫婦の話になってしまった。でもまあ、それはそれで、いいことかもしれない。どちらにしても、私には関係のない話だ。お茶を出すだけでいい。
縁側から、低い声で何かを話すリュカの声が、かすかに聞こえてくる。内容はわからない。わからなくていい。
鍋の湯が沸き始めた。ジジが鍋の方を見て、また私を見た。
「何もあげないわよ」
ジジは白けた顔で、のそのそと足元に戻った。




