第9話「私も悪くなかったわよ」
リュカが来るたびに、エマがついてくる。
今日も二人で並んで縁側に座っている。初夏の風が庭から流れ込んで、薬草の青い匂いをかすかに運んでくる。リュカは白髪になって、でも目はまだ若い頃の色をしていた。エマは品のいい婦人で、いつも少し申し訳なさそうな顔をしている。気の毒だと思う。謝罪をするのは夫なのに、妻まで同じ顔をしなくていい。
「本当に、怒っていないのか」
リュカが三度目にそう聞いた。
「聞いたじゃないの、それ。さっきも一回前も」
「答えが変わるかと思って」
「変わらないわよ」
ジジが庭に降りていた。木の根元で何か嗅いでいる。暇なのか忙しいのか、猫のことはよく分からない。背中だけが日向の光に白く浮かんでいた。
「怒ってないの、本当に」
「体力がないのよ、怒る」
リュカが黙った。
エマが隣で少し体を揺らした。泣きそうな気配だった。この方、前回も泣いていた。私が余計なことを言うたびに泣く。繊細なのかしら、それとも私が無意識に何かをやらかしているのかしら。
「エマさん、泣かなくていいわよ」
「す、すみません」
「謝られることでもないわ。あんたは何も悪くないもの」
エマがまた揺れた。悪化させてしまったかもしれない。私には泣いている人への対処法が分からない。
リュカが口を開いた。
「辺境の暮らし、つらくなかったか」
「つらいこともあったわよ」
「やっぱり」
「でも楽しいこともあった。それの方が多かったかしらね」
これは本当のことだった。嘘をつく理由もない。辺境の村は質素だったが、人が温かかった。村の子供たちに読み書きを教え、老いた村人の話を聞いて、冬には皆で鍋を囲んで笑いながら食べた。ジジの先代の猫も飼っていた。先代が逝ったあとでまたジジを拾ってきたのよ。
悪くなかった。本当に。
「幸せだったの?」
リュカの声が少し低くなった。眉のあたりに力が入っている。
「幸せよ。今も幸せ」
「……そうか」
「納得いかない顔ね」
「だって」
リュカが白い頭を少し傾けた。皺の深い横顔が、午後の光の中に沈んでいた。
「俺が側にいた方が、もっと幸せだったんじゃないかと思うと」
「それはどうかしら」
正直に言った。
「あんたは優しかったけど、踏み込めない人だったもの。私の隣に立って、王宮で私を守れた? それはアルバート様でも難しかったわよ。あんたなら尚更」
「……そうだな」
口の端をわずかに曲げて、リュカが言った。反論なし。分かっているのだろう。
「私は一人で辺境に行ったから良かったのよ。誰かのために心配する必要もなくて、自分の好きに生きられた」
エマが小さく息を吸った音がした。
「エマさん、本当に泣かなくていいわよ」
「あの、でも、私がリュカ様を」
「あんたのせいじゃないわ」
きっぱり言った。縁側の板に手を置いて、少し体ごと向き直る。
「私とリュカの縁は、そういう縁だったの。婚約していても、きっとどこかでうまくいかなくなったわよ。私はそんなに良い女じゃなかったもの、若い頃は」
リュカが苦い顔で笑った。
「俺に言わせれば良い女だったが」
「じゃあ言えばよかったのよ、その頃に」
「……それは」
「言えなかったわよね。分かってる」
庭でジジが欠伸をした。大きな欠伸で、小さな口が精一杯開いている。ふわあ、というような声が聞こえた気がする。
気持ちは分かる。私も欠伸をしたい。
「私はね」
言葉が自然に出てきた。
「あんたたちに怒る体力、もうないのよ。若い頃は怒ってたかもしれない。でも今は、怒るより先に眠くなるわ」
リュカが笑った。今度は苦くなく、肩の力が少し抜けるのが見えた。
エマも笑った。目が赤かったが、笑っていた。頬に少し色が戻っている。
「辺境の暮らし、本当に良かったの?」
「良かったわよ」
「悔しくなかった?」
「最初はね」
正直に言う。
「でも五年もすれば慣れるわ。十年もすれば馴染む。五十年経ったら、あそこが故郷になってるの。そういうもんよ」
ジジが縁側に戻ってきて、私の膝に飛び乗った。ぐるぐると喉を鳴らす。温かくて重い。いつもの重さ。
「この子も故郷の子よ。辺境の子。王都の猫より頭がいいわ」
リュカがジジを見て、少し手を伸ばした。ジジは匂いを嗅いでから、頭を押し付ける。猫に好かれる人と嫌われる人がいるが、リュカは好かれる方らしい。
エマが「触っていいですか」と聞いた。律儀な人だと思った。
「どうぞ」
エマがジジの背中を撫でた。ジジは逃げない。ぐるぐるの音が少し大きくなった。
三人と一匹で、しばらく黙っていた。風が通り、葉が揺れる。悪くない午後だった。
「また来ていいか」
「どうぞ。手土産があると嬉しいわ」
「何がいい」
「黒糖の菓子、王都のが美味しいのよ。辺境では手に入らなくてね」
「持ってくる」
「楽しみにしてるわ」
帰り道、二人の後ろ姿が門の向こうに消えた。並んで歩いている。エマの手がリュカの袖をそっと引いているのが、遠目にも見えた。
それはそれで、良かったと思う。
本当に良かったと思っているかどうか、自分でも分からないところが少しあったが、まあいい。怒る体力もないが、確かめる体力もない。
ジジが膝の上でまた丸まった。日が傾いて、縁側が少し陰ってくる。涼しい空気が庭から流れ込んできた。
まあ、悪くなかったわよ。私の人生も、今日の午後も。




