表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢はとっくに老婆です。今さら謝りに来ないでください  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/18

第9話「私も悪くなかったわよ」

リュカが来るたびに、エマがついてくる。


今日も二人で並んで縁側に座っている。初夏の風が庭から流れ込んで、薬草の青い匂いをかすかに運んでくる。リュカは白髪になって、でも目はまだ若い頃の色をしていた。エマは品のいい婦人で、いつも少し申し訳なさそうな顔をしている。気の毒だと思う。謝罪をするのは夫なのに、妻まで同じ顔をしなくていい。


「本当に、怒っていないのか」


リュカが三度目にそう聞いた。


「聞いたじゃないの、それ。さっきも一回前も」


「答えが変わるかと思って」


「変わらないわよ」


ジジが庭に降りていた。木の根元で何か嗅いでいる。暇なのか忙しいのか、猫のことはよく分からない。背中だけが日向の光に白く浮かんでいた。


「怒ってないの、本当に」


「体力がないのよ、怒る」


リュカが黙った。


エマが隣で少し体を揺らした。泣きそうな気配だった。この方、前回も泣いていた。私が余計なことを言うたびに泣く。繊細なのかしら、それとも私が無意識に何かをやらかしているのかしら。


「エマさん、泣かなくていいわよ」


「す、すみません」


「謝られることでもないわ。あんたは何も悪くないもの」


エマがまた揺れた。悪化させてしまったかもしれない。私には泣いている人への対処法が分からない。


リュカが口を開いた。


「辺境の暮らし、つらくなかったか」


「つらいこともあったわよ」


「やっぱり」


「でも楽しいこともあった。それの方が多かったかしらね」


これは本当のことだった。嘘をつく理由もない。辺境の村は質素だったが、人が温かかった。村の子供たちに読み書きを教え、老いた村人の話を聞いて、冬には皆で鍋を囲んで笑いながら食べた。ジジの先代の猫も飼っていた。先代が逝ったあとでまたジジを拾ってきたのよ。


悪くなかった。本当に。


「幸せだったの?」


リュカの声が少し低くなった。眉のあたりに力が入っている。


「幸せよ。今も幸せ」


「……そうか」


「納得いかない顔ね」


「だって」


リュカが白い頭を少し傾けた。皺の深い横顔が、午後の光の中に沈んでいた。


「俺が側にいた方が、もっと幸せだったんじゃないかと思うと」


「それはどうかしら」


正直に言った。


「あんたは優しかったけど、踏み込めない人だったもの。私の隣に立って、王宮で私を守れた? それはアルバート様でも難しかったわよ。あんたなら尚更」


「……そうだな」


口の端をわずかに曲げて、リュカが言った。反論なし。分かっているのだろう。


「私は一人で辺境に行ったから良かったのよ。誰かのために心配する必要もなくて、自分の好きに生きられた」


エマが小さく息を吸った音がした。


「エマさん、本当に泣かなくていいわよ」


「あの、でも、私がリュカ様を」


「あんたのせいじゃないわ」


きっぱり言った。縁側の板に手を置いて、少し体ごと向き直る。


「私とリュカの縁は、そういう縁だったの。婚約していても、きっとどこかでうまくいかなくなったわよ。私はそんなに良い女じゃなかったもの、若い頃は」


リュカが苦い顔で笑った。


「俺に言わせれば良い女だったが」


「じゃあ言えばよかったのよ、その頃に」


「……それは」


「言えなかったわよね。分かってる」


庭でジジが欠伸をした。大きな欠伸で、小さな口が精一杯開いている。ふわあ、というような声が聞こえた気がする。


気持ちは分かる。私も欠伸をしたい。


「私はね」


言葉が自然に出てきた。


「あんたたちに怒る体力、もうないのよ。若い頃は怒ってたかもしれない。でも今は、怒るより先に眠くなるわ」


リュカが笑った。今度は苦くなく、肩の力が少し抜けるのが見えた。


エマも笑った。目が赤かったが、笑っていた。頬に少し色が戻っている。


「辺境の暮らし、本当に良かったの?」


「良かったわよ」


「悔しくなかった?」


「最初はね」


正直に言う。


「でも五年もすれば慣れるわ。十年もすれば馴染む。五十年経ったら、あそこが故郷になってるの。そういうもんよ」


ジジが縁側に戻ってきて、私の膝に飛び乗った。ぐるぐると喉を鳴らす。温かくて重い。いつもの重さ。


「この子も故郷の子よ。辺境の子。王都の猫より頭がいいわ」


リュカがジジを見て、少し手を伸ばした。ジジは匂いを嗅いでから、頭を押し付ける。猫に好かれる人と嫌われる人がいるが、リュカは好かれる方らしい。


エマが「触っていいですか」と聞いた。律儀な人だと思った。


「どうぞ」


エマがジジの背中を撫でた。ジジは逃げない。ぐるぐるの音が少し大きくなった。


三人と一匹で、しばらく黙っていた。風が通り、葉が揺れる。悪くない午後だった。


「また来ていいか」


「どうぞ。手土産があると嬉しいわ」


「何がいい」


「黒糖の菓子、王都のが美味しいのよ。辺境では手に入らなくてね」


「持ってくる」


「楽しみにしてるわ」


帰り道、二人の後ろ姿が門の向こうに消えた。並んで歩いている。エマの手がリュカの袖をそっと引いているのが、遠目にも見えた。


それはそれで、良かったと思う。


本当に良かったと思っているかどうか、自分でも分からないところが少しあったが、まあいい。怒る体力もないが、確かめる体力もない。


ジジが膝の上でまた丸まった。日が傾いて、縁側が少し陰ってくる。涼しい空気が庭から流れ込んできた。


まあ、悪くなかったわよ。私の人生も、今日の午後も。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ