第10話「私をおいていくんじゃないよ」
手紙が来たのは夕方だった。
差出人はエマ。封を開けると、几帳面でない文字が続いていた。手が震えていたのか、あるいは泣きながら書いたのか。エマはいつも丁寧な人だったから、この文字は相当のことがあったのだと分かる。
読んだ。ジジが足元に来て、体を擦り付けてくる。
「……また先に行ってしまったのね」
リュカ。享年七十四歳。先週、静かに逝ったという。エマより先に。
「二人目よ」
呟いたら、口が少し重かった。アルバートの時は「一人目」と言った。今日が「二人目」。このまま数えていくのかと思うと、少し変な気持ちになる。なんか、先着順みたいな話ね。
縁側に出た。夕暮れが庭を赤く染めていた。軒先に干した薬草が、夕風にゆらゆら揺れている。山から下りてくる風は少し冷たくて、頬に当たるとひやりとした。
ジジが膝に乗ってきた。最近は以前より体が重い気がする。太ったのか、それとも私の足が細くなったのか。どちらもかもしれない。
「リュカ、あんた黒糖の菓子、持ってくるって言ってたじゃないの」
まだもらっていない。
次に来た時には絶対に催促しようと思っていた。王都の黒糖菓子は本当に美味しくて、辺境では手に入らなくて、五十年ぶりに食べた時には少し泣きそうになったくらいよ。
もう食べられない。
「……まあ、エマさんに頼めばいいか」
でもエマは今、それどころではないだろう。手紙の文字を思い出した。震えた文字。あのしっかりした、いつも少し申し訳なさそうな顔をしていた人が、どんな顔で書いたのか。
なんと返事を書けばいいか、分からなかった。
「ご愁傷様」は当然として、それだけでは足りない気がした。でも何を言えばいいのか。私はエマの夫を好いていたわけでも嫌いだったわけでもない。複雑な立場の人だった。婚約者を奪った男の妻とも言えるし、私の幼なじみを幸せにしてくれた人とも言える。
どちらとも言える人に、どんな言葉をかければいいのか。
「リュカ、あんたね」
誰もいない庭に向かって言った。夕焼けが赤くて、庭の草がその色を映している。
「エマさんをおいていくとは、何を考えてるのよ」
返事はなかった。当たり前だ。
「あんた、昔からそういうところがあったわよ。大事なことを先延ばしにして、肝心な時にいなくなる。告白もできなかった。私が追放される時も見送りに来なかった。今度は妻より先に逝って」
全部、肝心なところでいない人だった。七十四歳になっても、最後までそれよ。
「仕方ないわね」
ジジがぐるぐると鳴った。喉の振動が膝に伝わってくる。温かい。
「仕方ないけど、エマさんが心配ね」
それは本当だった。
エマには子供がいると聞いていた。成人した息子か娘か。だから一人になるわけではないが、それでも夫を亡くした直後というのは、子供がいても孤独なものだ。私には分からないが、想像はできる。
何か送ろうか。
菓子でも、茶でも。それとも花か。
「花はやめておこう。縁起が悪いわ」
茶がいい。辺境の山茶は風味がいい。王都では手に入らないやつ。葉の色が濃くて、飲むと体の芯から温まる。エマは冷え性そうな顔をしている。
そう決めたら、少し気持ちが楽になった。
何を書くかはまだ分からない。気の利いた言葉は思いつかない。でも茶を一緒に送れば、言葉が足りなくても少しはましになるかもしれない。
「アルバートの時もそうすれば良かったわね」
でもあの男には菓子より謝罪を聞いてほしそうな顔をしていたから、何か送ったところで受け取らなかったかもしれない。几帳面な人は、そういうところがある。
夕日が落ちていく。空の端が紫に変わって、最後に残っていた赤がゆっくり消えていった。
「二人も先に行って、残りは私だけかしら」
そうかもしれない。
この年になると、知人というのは一人また一人と減っていく。アルバートも逝った。リュカも逝った。次は誰か来るのかしら。それとも誰も来ないまま、私が先に逝るか。
「ジジ、あんたは長生きしてよ」
ジジは答えなかった。暖かいままじっとしている。
「私より長生きしたら困るけど、私が先に逝ったら困るし」
どちらにしても困る。猫というのはそういうものだ。困らせてくれる。でもそれが、ちょうどいい。
暗くなってきた庭に、星がひとつ出た。
「リュカ、あの世でアルバートと仲良くしなさいよ」
二人は、現世ではそんなに仲良くなかった気がする。王子と平民の幼なじみ、立場が違いすぎた。でもあの世に立場はないだろう。
私を置いて先に行った二人が、向こうで所在なく立っている絵が浮かんだ。几帳面な元王様と、大事なことを先延ばしにし続けた幼なじみが、同じ場所で顔を合わせている。どんな顔をしているのかしら。
「ふふ」
笑いが出た。
悲しいより、おかしかった。
「そっちも大変ね」
ジジが欠伸をした。大きな口を開けて。私もつられて、あくびが出た。
明日、エマへの手紙を書こう。言葉は思いつかないが、茶を同封すれば何とかなる。何とかならないかもしれないが、何もしないよりはいい。
縁側を立ち上がって、部屋に戻った。
ジジが後ろからついてきた。重たい足音が板を踏む。
「お前だけは置いていかないでよ」
ジジは答えなかった。でも、ちゃんとついてきた。
それで十分よ。まったく。




