第2話「冤罪でした、だって」
翌朝また来た。
馬車が止まる音で目が覚めた。ジジがさっさと縁側へ出ていって、外を確認してから戻ってきた。その態度が「昨日と同じのが来たわよ」と言っているようで、わたしは布団の中で少しだけ笑った。
昨日は結局、お茶を飲んで帰った。
アルバートは一時間ほど庭を眺めて、「また明日」と言って帰っていった。謝罪の前置きすら終わらなかったわけで、几帳面というか、慎重というか。何をそんなに準備しているのかしら。本番前に入念に稽古する役者みたいで、少し滑稽だった。
わたしは着替えて、縁側に座った。朝の空気はまだひんやりとして、露を含んだ草のにおいがする。ジジが戻ってきて足元に落ち着いた。今日も平和ね。
縁側から見える梅の木が、昨日よりまたひとつ花を増やしていた。もう少しで満開かしら。春というのは気前がいい。別に誰も見ていなくても咲く。そういう潔さが好きよ。
「また来てしまった」
「見れば分かります」
アルバートは昨日と同じように縁側に腰を下ろした。昨日より少し手際よくなっている。腰を落とすときの一瞬の間が、昨日より迷いなかった。慣れたのかもしれない。
ジジが今日は少しだけアルバートに近い場所に座っている。猫の合格点は低くないから、悪い人ではないのだろう。試されているとも知らずに、アルバートは正面を向いたままだった。
「……今日は、話をしに来た」
「どうぞ」
「あの断罪の件だ」
「ええ」
「あれは——」
男は少し間を置いた。
杖の柄を両手で握って、庭を見るでもなく、下を向くでもなく、ただじっと正面を向いて口を開いた。顎に力が入っているのが、横顔からでも分かった。
「冤罪だった」
わたしは湯飲みを持ったまま、少し首を傾けた。
「あー、そうだったの」
「……」
「まあいいわよ」
男が固まった。
固まった、というのが正確だと思う。体の動きが完全に止まって、横顔のまま空中の一点を見ている。瞬きすら止まったように見えた。
「……それだけか」
「それだけって?」
「その、反応が——」
「なにか他に言うことがあります?」
男は口を開きかけて、閉じた。また開きかけて、また閉じた。魚みたいね、と思ったけど言わなかった。失礼だから。
「あなたは、知っていたのか」とようやく男が言った。
「知らなかったわよ」
「では——」
「でも今さらどうということもないでしょ」とわたしは言った。「五十年前の話ですよ。そりゃ当時は驚いたし、冤罪なら腹も立てたと思う。でも今はもう、腹も立たない」
「なぜだ」
本当に分からない顔をしていた。眉間に皺が寄って、少し前のめりになっている。老いた顔に、若い頃の面影が重なって見えた気がした。
「あの断罪で、あなたは辺境に追いやられた。家名も財産も失い、婚約も消えた。それだけのことが起きて、なぜそんなに平然としていられるんだ」
わたしはジジの背中を撫でながら少し考えた。背中の毛が朝の日差しで温かかった。
「平然としているというか——消化したのよ」
「消化」
「長く生きたら、腹が立つことも悲しいことも、だいたい消化できるようになってくる。あなただってそういう経験、ひとつやふたつあるんじゃない?」
男は黙った。視線が遠くなる。何かを思い出しているのかしら。まあ、好きにしていいわよ。
「それに」とわたしは続けた。「追いやられた先が良かったのよ。この村は居心地がいいし、薬師の仕事は楽しかった。ジジにも出会えた。もし断罪されてなかったら、わたしは一生お城の近くでふんぞり返っていたかもしれない。それはそれで良かったかもしれないけど、今の生活と比べてどっちが良かったかは、正直分からない」
「……」
「だからといって感謝してるわけじゃないわよ」と急いで付け加えた。「冤罪はよくない。ちゃんと確かめてから断罪しなさい。それは反省しておいてね」
アルバートがまた固まった。
今度は少し違う固まり方で、何か言おうとして言葉を失っているような、そういう固まり方だった。口元がかすかに動いてから、止まった。
「……あなたは、怒っていないのか」
「今は怒ってません」
「今は、とは」
「昔は怒ってたかもしれないけど、覚えてないわ。怒ったまま五十年過ごすほど体力ないもの」
わたしはお茶を一口飲んだ。冷めかけていた。温度が下がると少し渋みが増す。それはそれで悪くない。
アルバートは長い沈黙の後、ぽつりと言った。
「……私はずっと、あなたが怒っていると思っていた」
「そうでしょうね」
「許してもらえないと思っていた」
「まあ、そういう予想も分かる」
「謝罪を受け取ってもらえないと思って——」
「そんな難しく考えなくていいわよ」
わたしはそう言って、空になった自分の湯飲みを眺めた。お茶のおかわりを入れようかしらと思った。アルバートの分も。この男はたぶん、いい茶が飲み慣れていない。縁側で飲む、少し冷めかけた茶の味というのも、悪くないものよ。
「あなたが謝りたいなら謝ればいい。わたしがそれを受け取るかどうかは、まあ、聞いてみないと分からないけど。怒鳴ったりはしません」
「それは——」
「でも今日はちょっと待ちなさい」
立ち上がって、台所へ向かう。膝が少し鳴った。板張りの廊下が朝のひんやりした空気を含んでいて、足の裏に伝わってくる。
「お茶を入れ直してくるから」
背後でアルバートがまた何か言おうとして黙った気配がした。
これは長い話になりそうね。そう思いながら、わたしは急須を手に取った。
まあ、急ぐこともないでしょ。どうせどこにも行かないんだから。お互いに。




