第1話「杖ついた老人が来た」
春の日差しというのは、いつになっても性格が悪い。
温かくて、眠くなって、何もかもどうでもよくなってくる。膝の上に乗ったジジが喉をごろごろ鳴らして、わたしはそのまま縁側でうとうとしかけていた。
「レナばあさん、お客さんだって」
村の子どもが走ってくる。元気なことね。
「客?」
「お城みたいな馬車が来てるよ。使いの人が、昨日も来てたやつ」
昨日来た使い。そう、昨日もこの穏やかな午後を邪魔された。
アルバート・フォン・ライゼン国王陛下が直々にご挨拶に伺いたい——
そんな大仰な手紙を置いていったのが昨日のこと。わたしは「どうぞご勝手に」と口頭で伝言を返した。断る理由もなかったし、受け入れる理由もなかった。来たければ来ればいい。どうせ縁側にいる。
「ありがとう」とわたしは子どもに言って、ジジを膝から退かせようとした。ジジは不服そうに目を細めて、その場をまったく動かなかった。
「あなたはそこにいなさい」
膝の上に残したまま、わたしは背筋だけ少し伸ばした。
足音が聞こえた。それも、規則的に——一歩、止まる。一歩、止まる。そういうリズム。
杖をついているのだとすぐ分かった。
庭の端に回り込んで縁側から見えてきたとき、わたしは思わずじっとその人を見てしまった。
老いた男だった。
白髪で、背がかつてより少し丸まっている。太い杖を右手に持ち、護衛が数人、少し離れたところで待機していた。男は一人でこちらへ歩いてくる。一歩一歩、確かめるように。
アルバート・フォン・ライゼン。
かつての——王子。今は退位した元国王、らしい。村に流れてくる噂話程度には知っている。
わたしは何を感じるかと、自分の胸のあたりを確かめるようにしてみた。
怒り? いや、ない。
懐かしさ? 少し、あるかも。
感動? 全くなかった。
あの断罪の場で冷たい目線を向けてきた王子が、こんなふうに老いたのか。人は老いる。そりゃそうよ。わたしだって老いた。お互い様ね。
男がようやく縁側の近くまで来て、立ち止まった。
「……レナ・フォン・アシュレイ、か」
「今はただのレナばあさんですよ」とわたしは答えた。「アシュレイの家名はとっくに返上しました。そっちが取り上げたんでしょうけど」
男は少し目を細めた。
痛いところを突かれたと思っているのかしら。別に責めたわけじゃないのに。ただの事実の確認よ。
「座りますか」とわたしは縁側の端を示した。「立ったままだと疲れるでしょ」
「……そうさせてもらう」
男は杖を支えにしながら、ゆっくりと縁側に腰を下ろした。思ったより苦労している。護衛の一人が手を貸そうとしたが、男は小さく首を振って断った。几帳面な人ね、昔から。自分でやらないと気が済まない。
「遠くからよく来ましたね」
「辺境だからな」
「そうですよ。わざわざ来なくていい辺境です」
男はそこで少し黙った。
ジジがわたしの膝の上でもぞりと動いて、アルバートの方をじっと見た。ジジは人を見る目がある。今この黒猫が何を思っているのか、ちょっと興味があった。
「……長旅だったので、少し休んでから話してもよいか」
「どうぞ」
男は杖を膝の前に立てて、両手でその柄を握り、ゆっくりと庭を眺めた。春の庭は特別何があるわけでもない。雑草が少しあって、古い梅の木が一本あって、茶トラのモモが日向でひっくり返っている。それだけの庭よ。
わたしは横目でその横顔を見た。
皺が深い。目の下にも、口元にも。白い眉毛が少し垂れ下がっている。かつて——どれくらい昔の話だろう——あの男が凛として正面を向いて、わたしに向かって声を上げた。証拠を突きつけて、去れと言った。
怒りはない。とっくに消えた。匂いが飛ぶみたいに、いつの間にか消えてた。
今はただ、老いた人が隣に座っているだけ。
「……礼を言う。来ることを許してくれて」
「別に」とわたしは答えた。「断る理由がなかっただけです」
「それでも、だ」
男は少し頭を下げた。深くはない。でも確かに、頭を下げた。
わたしはジジの背中を撫でながら、春の日差しが庭に落ちているのを眺めた。
話の本題はまだらしい。男はそれだけ言うと、また黙って庭を見ている。これは前置きね。長い前置きを作るタイプ。昔からそうだったかしら。知らなかったけど、今ならそういう人だと分かる気がした。
謝罪の言葉はまだ来ない。
来たとしても、まあ、どうということもないと思う。
モモが庭でふいに伸びをして、ひとしきり後ろ足で何かを掻いてから、また丸まった。ご苦労さまね。
縁側に春の風が通り抜けて、ジジが小さくくしゃみをした。




