第0話「レナばあさん、危篤だってよ」
そんな話が村中に広まったのは、春の終わりのことだった。
出どころはたぶん、先週薬草を届けに来た薬師の少年ね。私がちょっと咳き込んだだけなのに、「顔色が悪かった」「目が虚ろだった」と言いふらしたらしい。
目が虚ろなのはいつものことよ。昔からそう。それが私の平常運転なのに、わかってくれない。
当のレナ・フォン・アシュレイ——村人たちが「レナばあさん」と呼ぶこの私は、縁側に腰を下ろして湯呑みを両手で包んでいた。春の日差しが肩にぽかぽかと落ちてくる。畑の向こうで鶏が鳴いている。土と緑の混じった風が、ゆるやかに頬をなでていく。
まあ、のどかよね。
お茶がおいしい。今日はそれだけで十分じゃないの。
「レナばあさん! 生きてるか!」
隣の家の孫が畑を突っ切って駆けてきた。七歳か八歳の男の子で、息を切らしている。頬が赤くて、麦わら帽子がずれていた。私は湯呑みを口元に寄せたまま、ゆっくり視線だけ向けた。
「見てわかるでしょ」
「よかったー! 死んでないー!」
大声で叫んで、来たときと同じ勢いで走って帰っていった。砂埃が小さくふわっと舞い上がって、すぐ消えた。
……確認しに来ただけか。ご苦労さまね。
湯呑みに口をつける。うん、おいしい。
まあ、七十を超えれば体のあちこちにガタが来るわよ。膝が痛い。腰もよくない。朝は特に、起き上がるたびに体がきしむ音がする気がして、少しだけ憂鬱になる。でも今日は縁側まで自分で出てきたし、お茶も自分で淹れた。それの何が危篤なのかしら。
死にかけの定義って、どこからなのかしらね。
遠い目をしながら、ぼんやり考える。縁側の木の感触が、長年座り続けたせいかすっかり馴染んでいて、今日も変わらず私の体重を受け止めている。
転生してから、いったい何年になるかしら。
元の世界では松子という名前だった。二十代の半ばで過労死して——正確には倒れて病院に運ばれて、そのまま——目が覚めたら乙女ゲームの悪役令嬢よ。
断罪されたわよ、当然。
婚約破棄、令嬢たちの証言、王子アルバートの冷たい目線。全部込みで、まあお膳立て通りの場面だった。十代の子どもにできることなんてたかが知れてるし、あっという間に辺境送り。
馬車の中で泣いたかしら。まあ、そういう年頃だもの。外が雨だったか晴れだったかも覚えていない。ずいぶん遠い話よ。
辺境に着いたら、意外となんとかなった。もともとレナの体は魔法適性がそこそこあって、薬草の知識を叩き込んで村の薬師として定着。村人はいい人たちで、誰もレナ・フォン・アシュレイの悪評なんて知らなかった。知ったところで興味もなかっただろうし。
気がついたら数十年。
夫もなし、子どももなし。薬を作って、畑を耕して、猫を二匹飼って、老婆になった。
悪くなかったわよ、ほんとうに。
都の暮らしは夢の中みたいに霞んでいる。断罪も、怒りも悔しさも、とっくに消化しきった。残ったのは春の縁側と、おいしいお茶と、膝の痛みだけ。十分よ、ほんとうに。
猫の一匹——黒い方のジジが、縁側に上がってきて私の膝に乗った。重い。膝が痛いのに。でも温かいからまあいいか。日差しのにおいがする。猫というのは、いつでもちょうどいい温度をしている。
「あんたも長生きよねえ」
ジジはごろごろと喉を鳴らした。何か言いたいのかもしれないけど、私には猫語は通訳できない。言葉がなくても、温かければ十分よ。
二匹目の猫——茶トラのモモは縁側の端で丸まったまま、春の日差しをひとりじめにしている。気ままなやつよ、ほんとうに。でもあれでちゃんと朝は私の顔を舐めて起こしに来るから、まあ可愛いものだと思っている。
そういう午後の話よ。
村の入り口から、聞き慣れない馬の蹄の音がした。土を踏む硬い音で、この村の農馬とは違う。よく手入れされた馬の足音ね、と思った。
配達人らしき若い男が、少し緊張した顔でこちらへ歩いてくる。手に封書を持っている。紋章入りの、やけに上等な封書を。
「レナ・フォン・アシュレイ様のお宅でしょうか」
「そうよ」
「お手紙をお預かりしております。差出人は——元王太子、アルバート・フォン・ランディウス殿下より」
私は湯呑みを一口飲んだ。
ジジが膝の上で丸まった。
封書を受け取って、ゆっくりと開く。几帳面な字で、こう書いてあった。
「このたび、かつてのことをお詫び申し上げたく、お見舞いに伺いたいと存じます——」
しばらく春の空を見上げた。薄い雲がゆっくり流れている。鳥が一羽、遠く横切った。
一言だけこぼれでた。
「……いまさら?」
ジジがまた喉を鳴らした。まるで「そうよねえ」と言っているみたいだったけど、たぶん関係ない。そういう猫よ。




