第28話「松子、悪くなかったじゃないか」
縁側に座って、お茶を飲んでいた。
特別な日じゃない。ジジが膝の上でぐるぐる言っていて、お茶がほんの少し冷めていて。午後の光が縁側の板を温めていて、背中がじんわりした。鳥の声がどこかで聞こえて、また消えた。
そういう何でもない午後に、ふと思ったのだ。
松子って、悪くなかったじゃないか。
思った瞬間、自分でも驚いた。七十年以上生きてきて、一度も素直にそう思えたことがなかったから。
前世の記憶というのは、転生してからもずっと重かった。松子として死んで、レナとして目覚めて、二つの人生が頭の中に同居したまま育った。どちらが本当の自分かなんて、考えたところで答えが出ない。だから考えないようにしてきた。
正直に言えば、松子のことは後ろめたかった。
友達が少なくて、恋愛もうまくいかなくて、ゲームばかりしていた。仕事もそれなりで、誰かの記憶に強く残るような人間でもなかった。四十手前で死んだとき、悲しんでくれた人は多くなかったと思う。
「どうせ私なんか」と思いながら生きることに、慣れすぎていた。
レナの人生は違った。悪役令嬢として断罪されて、辺境に追放されて、それでも長く生き延びた。ひとりで薬を作って、村の人に必要とされて、誰かを看取って、また誰かに出会った。波乱があって、笑いもあった。松子よりずっと、動いた人生だった。
だから松子のことを、古い靴みたいに思っていた。もう履かない、でも捨てられない、邪魔なだけのもの。
でも。
お茶をひとくち飲んで、ジジの背中を撫でた。ジジの毛が柔らかくて、体が温かい。縁側の板もぽかぽかして、背骨のあたりから力が抜けるような気がした。
「ジジ、聞いてくれる?」
ジジが片耳だけこちらに向けた。聞いているのかいないのか。まあいい。
「前世の私がゲームをやり込んでなかったら、私はこの世界で何も知らないまま断罪されて終わってたのよ。破滅フラグも攻略対象も、全部あの人が持ってきたの」
ジジは特に反応しなかった。当然だ。猫に破滅フラグの話をしても仕方がない。
七十年かけてやっと気づいた。
「遅すぎると思わない?」
ジジが欠伸をした。思わないらしい。縁側でお茶が冷めるくらいぼんやりしていたというのは、われながら大したものだ。
でも、早く気づいたところで素直に受け取れたかどうかはわからない。七十年生きて、ようやく気づくくらいが松子という人間にはちょうどよかったのかもしれない。
松子は、ちゃんと私に渡してくれていたのだ。知識だけじゃない。「どうせ私なんか」と思いながらも、ゲームの中に素直な感動を見つけられる素朴さ。攻略対象の台詞に泣けるくらいの、単純な心。ひとりで静かに生きることへの耐性。
「辺境でひとりで暮らせたのは、松子のおかげだったのよ」
ジジの背中を撫でながら言った。ジジが喉を鳴らした。同意なのか、ただ気持ちいいだけなのか。
断罪された夜に泣かずに笑えたのも、たぶん松子のおかげだった。あの人はひとりで夜を散々越えてきた人間だから、夜が来るだけでは壊れなかった。誰にも言えない感情を夜中に抱えて、それでも朝になったら起きて仕事に行く。その積み重ねが、どこかに残っていた。
「まったく、気づくのが遅すぎる。七十年もかかるか普通」
ジジが顔を上げてこちらを見た。丸い目が、何か言いたそうに見えた。たぶん「干し魚はまだか」だけど。
お茶のにおいがした。少し冷えた茶の、薄い草のにおい。縁側のにおい、木のにおい、土のにおい。全部が混ざって、今日の午後のにおいになっていた。
ジジがのびをして、また丸くなった。縁側の光の中で、ぽかぽかしている。
三つの自分が、ようやく一本の線になった気がした。
松子が死んで、レナになって、レナがばあさんになって、今ここにいる。バラバラの話じゃない。全部つながっている。変な話だけれど、そういうことなんだろう。しかし、なんというか。
七十年越しに「ありがとう、前世の私」と言う日が来るとは思わなかった。
「松子、悪くなかったじゃないか」
声に出したら、ジジが片目を開けてこちらを見た。
「あんたに言ってないよ」
そう言ったら、ジジはまた目を閉じた。
興味ないらしい。まあそうだ。猫に前世の話をしても仕方がない。ジジには今日の干し魚の方が百倍大事だろう。それでいい。全部わかってもらわなくていい。ここにいてくれれば、十分だ。
お茶は、すっかり冷めていた。それでも飲んだ。悪くない。冷えた茶も、悪くない。ついでに松子も、悪くなかった。ようやくそう言えた気がして、なんだか少し、すっきりした。




