第18話「よかったんじゃない、って言ったら泣いた」
ヴィクターが翌朝また来た。
昨日とまったく同じ時間に、同じ格好で、同じ道を歩いてきた。几帳面な人だ。靴の音まで昨日と同じリズムに聞こえた気がした。
縁側に座って、お茶が出てくるのを待っている。
供回りは今日も外に置いてきた。彼らが元宰相の訪問先に毎朝並んでいる光景を、村の人間はどう思っているだろう。たぶん最初の日ほどは驚かなくなっている。人間、慣れる。慣れるのが早い村で助かった。
「昨日の続きを」とヴィクターが言った。
「どうぞ」
「あなたは、私がした行為をよかったと言った。本当にそう思っているのですか」
「思ってるわよ」
「どうして」
湯呑みを縁側に置きながら、私は少し考えた。
どうして、と言われても。本当によかったと思っているのだから、そうとしか言えない。言葉を探しているわけじゃなく、言葉が最初からそこにある。そういうことは、たまにある。
「あなたが出世しなかったとして、その地位に誰かが座ったでしょ。別の誰かが。その人があなたより優秀だったかどうかはわからないけど、あなたは優秀だったじゃないの、少なくとも」
「それは——」
「褒めてるのよ」
ヴィクターが黙った。褒められるとは思っていなかった顔だ。
「まあ、よかったんじゃないの。あなたが宰相になったことは」
そう言ったら、ヴィクターが急に黙り込んだ。
妙に長い沈黙だ。
ジジが縁側の柱から降りてきて、ヴィクターの足元のあたりをうろうろした。邪魔するつもりなのか、ただ気まぐれなのか。この猫はいつも動機がわからない。爪がぱたぱたと縁側の板を叩く音だけがしている。
私はお茶を飲みながら待った。
何か言いたいことがあるときは、待つのがいちばん早い。せかして出てきた言葉は、たいてい本当のことじゃない。これだけはわかった、長年生きてきて。これとジジの扱い方くらいは、得意になったかもしれない。
「レナ様」とヴィクターが言った。
声が少し、変だった。
「なに」
「あなたは——」
言いかけて、止まった。
私はそちらを見た。
ヴィクターが、湯呑みを両手で持ったまま俯いていた。肩がかすかに動いている。こらえている人間の動き方だ。
あれ、と思った。
「ヴィクター」
「……申し訳ありません」
「なんで謝るの」
「少々、取り乱しまして」
「取り乱してる?」
顔を上げたら、目が赤くなっていた。
私は少し困った。泣いているとは思わなかった。怒られるかとは思っていたかもしれないけど、「よかったんじゃない」と言われるとは思っていなかった顔だ。まあ、そうでしょうね。
「なんで泣くのよ」と私は言った。「困るじゃないの」
「申し訳——」
「謝るな、と言ってるでしょ。どうして泣いてるの」
ヴィクターが少し黙った。
「……わかりません」
「わかりません、って何よ」
「自分でも、なぜかと問われると」
私は首を振った。
参ったわね、と思った。元宰相が辺境の老婆の縁側で泣いている。供回りに見られたらどうするのか。几帳面な人だから見えない位置に置いてきているのだろうが、それとも計算が追いつかなくなっているか。どちらにしても、こちらは困る。
ジジが知らんぷりをしてよその方を向いていた。猫なりの気遣いかもしれない。いつになく役に立っている。
「怒られる方が楽だったのかしら、あなたは」と私は言った。
ヴィクターが顔を上げた。
「怒られる、あるいは突き放される。そういう反応なら、受け取れた。でもよかったと言われると、どこにも置きようがない。そういうこと?」
ヴィクターが少しの間、私の顔を見た。
「……そうかもしれません」
「やっかいね」
「おっしゃる通りです」
また目を伏せた。睫毛が少し濡れていた。
ジジが突然ヴィクターの膝に前足をかけた。乗ろうとしたのか、ただ触れたかったのかわからない。でもヴィクターがそれを見て、少し息をついた。
「猫が」
「いい子でしょ」
「……ええ」
小さく言って、ジジの頭を撫でた。
泣き止んでいた。撫でている間に、どこかへ行ったらしい。この猫はこういうとき妙に役に立つ。偉いんだか偉くないんだか。まあ、役に立てばなんでもいい。
「困らせたくて言ったわけじゃないのよ」と私は言った。
「わかっています」
「本当にそう思ってるから言ったの。あなたが宰相になってよかったと、私は思ってる。それだけ」
ヴィクターがまた黙った。庭を見ているようで、どこも見ていないような目だった。
「受け取り方はあなたの勝手よ。怒ってもいいし、納得しなくてもいい。ただ、私の本音はそっちなの」
「……はい」
「お茶、飲みなさい。冷める」
ヴィクターが湯呑みを口に持っていった。
縁側の向こうで風が通る。草が一斉に揺れて、また静かになった。
ジジが戻ってきて、今度は私の膝に乗った。重たい。でも温かい。
まあ、いいか。
二人でお茶を飲んだ。ヴィクターは何も言わず、私も言わない。庭の草がまたゆるく揺れている。これくらい静かな方が、縁側らしい。




