第17話「踏み台にしました、正直ね」
翌朝、ヴィクターはまた来た。
日が高くなる前の、まだ空気が冷たい時間だ。門のところに立って、声をかけてきた。供回りは今日も外に置いてきたらしく、中には入ってこない。几帳面な主人の、几帳面な指示なのだろう。
「昨日よく眠れた?」私は縁側から声を返した。
「あまり」
「そう。まあ、入りなさい」
ヴィクターが庭を歩いてきた。昨日と同じ立派な服だ。旅の荷物の中にああいうのが何着も入っているのだろう。面倒な人たちね、と私は思った。この村に来るのに正装が必要かしら。
縁側に腰を下ろして、また庭を眺めている。
私はお茶の支度をしに行った。
湯呑みを二つ持って戻ったら、ヴィクターが「お手伝いを——」と立ちかけた。
「いらない」
「しかし」
「私はこれで五十年飯を作ってきたの。若い人に手伝ってもらう必要はないわ」
ヴィクターが「若くはありませんが」と言った。
「私よりは若いでしょ」
それきり二人で黙ってお茶を飲んだ。
朝の光が庭に斜めに落ちている。草の葉先に昨夜の露が残っていて、光を受けてきらっと光った。綺麗なものね。まあ、声には出さない。言わなくていいことというものがある。
ジジが縁側の柱のところで毛を繕っている。今日はヴィクターに近い方に陣取っていた。少し慣れてきたらしい。猫は正直だ。嫌いな相手には絶対に近づかない。
「レナ様」
ヴィクターが切り出した。
「うん」
「昨日は続きを明日に、と言われたので——今日、話させていただきたいのですが」
「どうぞ」
ヴィクターが湯呑みを膝の上に置いた。居住まいを正し、少し息を吸う。それだけで、準備してきた話だとわかった。
「あなたの失墜を、私は利用しました」
言葉が平坦で、言い訳の気配がない。私の反応を試すような間も、謝罪を先に出すような柔らかさもない。ただ事実を言った、という声だった。
私はお茶を飲みながら聞いた。
「あなたが断罪されて、宮廷の力のバランスが変わった。アシュレイ家が失脚し、その周辺にあった仕事と人脈が空く。私はそこに入りました。あなたがいなければ手が届かなかった場所です。あなたの上に積み上げた地位です」
言葉が止まった。
庭の草が揺れる。風の匂いが少しだけ湿っている。
「……正直ね」私は言った。
「偽ってもどうにもならないので」
「そうね」
私はしばらく、湯呑みの底を見た。
利用された、と聞いて、怒りが来るかと思った。来なかった。そうだろうな、とどこかで思っていた気もする。誰かが動いたはずで、それがヴィクターだったのか、という話だ。まあ、そういうものでしょ。
「まあ」私は言った。「いい判断だったんじゃない?」
ヴィクターが固まった。
「私が出世してもろくなことにならなかったし」
「……は?」
「あの頃の私が宰相になってたとして、何ができたかしら。断罪された悪役令嬢よ。前世の記憶があって、ゲームのことは知ってたけど、政治のことなんて何も知らなかった。あなたの方が向いてたんじゃないの」
ヴィクターが「向いているかどうかの話ではなく」と言いかけた。
「向いてる話でしょ」
「……」
「利用した、とあなたは言うけれど。私はそこにいなかった。空いた席に座ったというだけで、それはあなたが悪いわけじゃない」
ジジが欠伸をした。大口を開けて、牙が見えている。長い欠伸だ。
「あなたは」ヴィクターが言った。「怒らないのですか」
「どうして怒るの」
「私はあなたの不幸を足場に出世した男です」
「でも私を不幸にしたのはあなたじゃないでしょ。断罪したのはアルバートで、黙ってたのはセリアで、あなたはその後の話だ」
「だとしても——」
「だとしても、何? あなたが謝ったとして、私の五十年が変わるの? 変わらないでしょ」
ヴィクターがまた黙った。湯呑みを両手で持ったまま、どこを見ればいいかわからないような顔をしている。
困った顔だ。元宰相が縁側で困った顔をしている。
お茶が冷めかけていた。私はそれを飲み終えた。
「私ね」私は言った。「最初はここが嫌だったの。追放されて、知らない土地に放り出されて、何していいかわからなかった。薬草のことは少し知ってたから、それで食いつないで。そのうち村に馴染んで、気づいたら五十年。早いものね」
「……」
「悪くなかったわよ、この人生。ゲームの通りに生きなくてよかったかもしれない。宰相になってたら、別の面倒ごとが山ほどあったと思うし」
「それは」ヴィクターが言った。「慰めですか」
「慰めじゃない。本音よ」
ヴィクターが私の顔を見た。
長い時間、見ている。何か言いたそうだったが、言葉が出てこないようだった。
「お茶、もう一杯要る?」
「……いただきます」
私はまた台所に行った。
「いい判断だった」と言われるとは思っていなかったのだろう。まあ、しょうがない。本音がそれなのだから。
台所の入り口にジジがいた。何かほしそうな顔で、こちらを見ている。おやつはさっきあげたでしょ、と思ったが、黙って無視した。どうせまた欠伸をするだけの猫だ。
お湯を注ぎながら、そんなことを考えた。




