第12話「覚えてないわよ、そんなこと」
二日目の朝、セリアとガレスは村の宿に泊まっていた。
朝早くにセリアだけが来た。ガレスは「少し足が痛い」と言って宿に残ったらしい。
まあ、そうでしょうね。あの人、ここに来たくて来たわけじゃないでしょ。足は口実よ、きっと。
セリアは昨日より少しだけ、やわらかい顔をしていた。
昨日は肩が上がっていたのに、今日は下がっている。長年連れ添った夫がいないせいかもしれないし、ここの空気に慣れたせいかもしれない。人間というのは案外、一晩で変わるものだ。
ジジが珍しく、セリアの膝に乗った。
「猫、好きなの?」と私は聞いた。
「嫌いじゃないわ」とセリアが言って、ジジの頭を撫でた。ジジは目を細めた。人を見る目がある猫だ。昨日ガレスの膝には乗らなかったのに。まあ、猫なりの評価なのだろう。
茶を飲んで、しばらく庭を見た。
昨日より雲が多い。でも雨にはならなそうだ。庭の草が、風に少しずつ揺れている。
セリアが静かに息を吸った。
「レナ」
「うん」
「断罪の場で、私、黙っていたでしょ」
来た。と思った。
来るとわかっていた言葉だ。昨日からずっと、彼女の喉のあたりにひっかかっていたやつ。
「あの時、あなたのために何も言えなかった。ずっとそれを、後悔してた」
私は茶碗を両手で包んで、記憶を探した。
断罪の場。王宮の大広間。アルバートの声。集まった人たち。自分が何を言われたか。
でも、セリアが黙っていたかどうか。
それが、どうにも、はっきりしない。
「覚えてないわよ、そんなこと」と私は言った。
セリアが、ぴたりと止まった。
「……え?」
「だから、覚えてない」
「覚えて……ないの?」
「ないわよ」と私は言った。「あの日のこと、なんとなくは覚えてるけど、あんたが黙ってたかどうかなんて、全然記憶にない」
セリアが目をぱちぱちさせた。
拍子抜けした、という顔。長年抱えてきた言葉を、すっとかわされた人の顔だ。私はとくに意地悪をしたつもりはないのに、なんとも言えない顔になっている。
「でも」と彼女は言った。「覚えていないはずがないわ。あれだけのことがあったのに」
「そうは言ってもねえ」
「あなたは追放されて、婚約も破棄されて、あんなに大勢の前で——」
「まあ、それはそうね。大変だったのは確かよ。でも、それはもう五十年以上前のことでしょ」
「五十年経っても、忘れられることじゃないわ」
「あんたは忘れられなかったのね」と私は言った。「でも私は忘れた。本当に」
セリアが少し、唇を引き結んだ。
「嘘をついてる?」
「なんで嘘をつくの」
「……私を、楽にさせようとして」
私は首を振った。
「違う。本当に覚えていないの。昔のことは全部霞んでる」
それは本当のことだ。
断罪の場の記憶なんて、もうほとんど霧の中だ。寒かった、床が冷たかった、それくらいはなんとなく残っている。誰がどこに立っていたとか、誰が何を言ったとか、そういうのはもうよくわからない。
セリアが黙っていたかどうかも、その霧の中よ。まあ、そういうものでしょ。ジジも知らないわよ、あのときのこと。彼はまだ生まれてもいない。
「あのね」と私は言った。「七十年以上生きると、脳みそにしまえる量が限界になってくるのよ。新しいことを覚えるために、古いことが消えていく。そういうものじゃないかしら」
「そんな」
「嫌なこと、覚えていても仕方ないでしょ」
セリアがゆっくり、茶碗を置いた。陶器の小さな音が、朝の静けさの中に広がった。
ジジだけが、静かに喉を鳴らしていた。相変わらず空気を読んでいるのかいないのかわからないけど、音はちょうどいい。
「ずっと」と彼女はやっと言った。「ずっと、あなたに謝りたかった。何十年も、ずっと」
「そう」
「あの日、私が声を上げていれば、あなたの人生は変わっていたかもしれない。それを——」
「まあ、変わってたかもしれないし、変わってなかったかもしれない。どのみち、今となってはわからないわ」
「レナ」
「あんたが何十年も悩んでたのはわかった。でも、私はここで薬師として暮らして、それなりに楽しくやってきた。そっちの話もしたいわよ」
ジジが伸びをして、また丸まった。毛並みが日の光にふわりと浮かぶ。
セリアは少しの間、目を伏せていた。
そのまま泣くかと思ったけれど、泣かなかった。
「……覚えていない、って言われると」と彼女はつぶやいた。「謝り場所がなくなるわね」
「そうね」
「困ったわ」
「困らなくていいわよ」と私は言った。「来てくれただけで、じゅうぶんよ」
セリアがゆっくりと顔を上げた。
その目が少しだけ潤んでいたけれど、私は見て見ぬふりをした。そういうものよ。まあ、それでいい。
ジジが小さくにゃあと鳴いた。
タイミングが絶妙すぎる。お茶のお代わりでも出しましょうか。庭の白い花が、風に揺れた。




