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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第五章 現世編
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第五十一話 人魚の島(上)

 玉藻国の北に位置する月修院に住む人々にとってはあまりにも長く過酷な冬が終わり、春となった。その年は月宮参りの年にあたっており、大人の僧侶や巫女たちは日々の務めのあいだにも準備に忙しなかった。子供たちはいつにない大人たちの忙しなさを前に、誰もがみな落ち着かなさげなようすであり、この冬に連れてこられたばかりの少女たちなど、ほとんど駆けるようにして潭月寮たんげつりょうの廊下を行く巫女たちに目をみはっていた。年老いた月当は、少女たちが手習いに精を出さなくなるのを見ては苦々しい顔をして、このようなことで心を乱すようでは満月媛さまをお慰めすることはできないと叱るのであったが、幼いものたちに道理を言い聞かせることはなかなかに難しいらしい。辛うじて祈りの時間だけは静謐が守られた。


 そのなかで、八重藤と藤尾とは変わらぬ日々を送っているように見えた。二人が連れ立ってしずしずと歩いていく光景はもはや珍しくもなんともなくなっていたが、たおやかで誰からも好かれる八重藤が、がさつで厄介者の藤尾をつきっきりで世話している光景は、奇妙とまではいえずともふしぎなものとして捉えられていたのである。まったく連れてこられたばかりの藤尾ときたら、物言いも態度もつっけんどんで身なりにもかまおうともせず、そのくせ野生の勘とでもいうのだろうか、妙に頭だけは切れるため、先輩の巫女たちはすっかりもてあまし、また同時に恐れてもいたのである。それでも八重藤ひとりは辛抱強く藤尾を諭しつづけた。そして、どれだけうるさがられようと一日中つきまとい、湯に浸からせ、髪を梳り、手をとって筆を持たせ、祈りを覚えさせ、実の姉のように気遣って倦むことを知らなかった――その気高くやさしい心が、一瞬であれ、八重藤に憧れを抱いた少女に通じないことがあるだろうか?


「八重藤はりっぱね。あの娘ときたら、まるで野良猫みたいだったもの。あんな娘をよく手なずけられたものだわ」

「そうね。それに落ち着いてみると、藤尾もなかなかきれいな娘よ。この冬で髪も背もどれだけ伸びたか知れないわ」

「でも、困ったわね。あの子、八重藤と一瞬たりとも離れていられないのだもの……」


 そんな噂を耳にするたびに、八重藤は口元を緩ませながらもふと考え込んでしまう。他の人の目にはどう見えるのか知らないけれど、一瞬たりとも離れていられないのは藤尾だけかしら、と。


 いいえ、きっとわたくしだって――


「ねぇ八重藤!」


 果樹の枝に鋏を伸べたまま立ち尽くしていた八重藤は、はっと我に返った。その一瞬の動揺のために、重なる樹木の葉にさえぎられていた陽が翡翠の瞳を鋭く射た。


 それは月宮参りのまさにその日であった。京からはるばるおはしまし給うた帝と京姫とは、まさに今、中庭に設けられた宴の席で月修院さまのもてなしを受けていらっしゃるはずであった。八重藤もお出迎えの際に遠く帝のご竜顔を仰ぎ見たが、なんだか畏れ多い気がして長くは直視していられなかった。ただ、四十という御年を目の前にいよいよ威に満ちた立ち姿が印象に残っている。それにくらべて、京姫は帝よりもずっと若い女性ではあったものの、よほど平凡で特色のない女性のように思われた。青白い浮腫むくんだ顔をなさっていたのはもしかしたらお病気なのかもしれないと先輩の巫女たちは噂をしあっていた。だが、聞くところによると、京姫は誰もが短命で、三十を超える方は滅多にいらっしゃらないということだ。亡くなるころにはお髪も老婆のように白くなってしまうとか。それこそが神を背負う苦しさなのであろう。だとすれば、いくら尊い天つ乙女とはいっても、その寵愛は敬遠したいものだ――もっとも、月の巫女の見習いには不要な心配であったが。


 それはともあれ……


「八重藤!」


 八重藤はゆっくりと鋏をおろして、名を呼ぶ人を振り返った。陽に差されたために少女の顔のあたりははじめ白くぼやけていたが、滲みだすようにして次第にその輪郭が、赤らんだ頬が、きらめく瞳が現れる。見透かせぬほどに深い、神秘の瞳だった。月修院さまの僧衣よりさらに深い――紫紺色はこの国では満月媛みちつきひめの色である。


「どうかして、藤尾?」

「八重藤きて!すごいものを見つけたのよ!」


 藤尾の瞳はいまや神秘を忘れ、昂奮に輝いている。藤尾は新米の少女たちの役割である暁鳥あかつきどりたちの世話をしていたはずなのに。暁鳥に餌を撒くことと、「すごいもの」を見つけることははたして同時に両立し得るのか。


「だめよ、勝手に寮を抜け出したら」


 しかし、八重藤がなにか答えるよりはやく藤尾は駆けだした。八重藤の手を取って。その行き先がどうも望ましくない方向であることを見て取り、八重藤の足は渋った。しかし、藤尾はまるで気にするようすはない。


「はやくはやく!みんなに見つかったら大変だもの!」


 屈託のない笑顔で振り返った拍子に、衿のうちに含んでいた藤尾の長い髪が風をはらんでこぼれだし、八重藤の頬をくすぐった。それが、口にする言葉とはうらはらに八重藤の口元をゆるませる。


「どうして貴女はいつもそうやって……」

「八重藤にだけ教えてあげる。ねぇ、絶対内緒にしてね?ほら、急いで!」


 鋏は重みのままに、白い指から逃れて土の上に落ちる……







 いい一日だったと思う。最高の誕生日だ。本当に今年はすてきな年だった。


 十二月三十日の夜―― 今年一年を振り返ってみればいろいろなことがあった。五月に舞と翼と出会った。自分が四神であることを知って、けれども、どうしても戦う勇気を奮い起こせなくて笑うことしかできなかった。どうして自分が戦わなくてはいけないのかという思いが強くあった。どうして愛する日常にとどまっていてはいけないのか、と。どうして自分だけが……自分だけではないと気づいたのは、螺鈿との戦いのなかでだった。燃え上がる桜花町を救うべく必死に戦う舞の姿が、火に焼かれ苦しみながらも鈴を渡してくれた翼の姿が、教えてくれた。ひとりではなかった、今までもこれからもずっと。


 六月にはルカと出会い、仲間になった。七月には前世の記憶を取り戻した。胸苦しくなるほどに辛く、悲しく、懐かしい記憶だった。玄武の想いと奈々の想いとが二重に迫りきて、奈々は泣いた。誰かをいとおしいと思う。その人はもう現世ここにはいないのだと気づく。帰りたいと思う場所があり、そしてもうそこには帰れないのだと知る。でも、涙に濡れた顔を上げれば、姿かたちを変えながらも、かつて愛した人たちが、帰りたい世界が微笑んでいることに気づくのだ。そうだ。あたしは転生して、現世ここへ帰ってきた。


 八月、玲子と出会った。九月、水仙女学院の文化祭で芙蓉と再び戦った。十月、琥珀と戦った。十一月はなにごともなく平穏に過ぎた。そして十二月もまたなにごともなく終わろうとしている……


(このまま今年が無事に終わればいいんだけど)


 もちろん、漆との戦いは来年も続くわけだけどさ。でも、いいじゃない。せめて、あと一日ぐらい……吹きつけてきた冷たい風に思わずコートの襟を掻き合わせつつ、奈々はつぶやいた。夜空を見上げてひとつ吐いた溜息は白く、澄明な冬の夜を照らし出しながら却ってぼやかしている街灯の色と重なって、もっと夜をあいまいなものに見せた。けれども、溜息の凪いだ後には、漆黒の板に刻み込まれたような鮮明な星の瞬きがあった。


 奈々は立ち止まる。いつか兄が言っていた。星というのは人間が目視できるかぎりで一番遠い場所なのだと。そして、前世の、玄武の兄が言っていた。玉藻国の星々はすでにこの世界を去り次なる世界を求めて旅立った神々なのだと。でも次なる世界って?


 まったく脈略なしに、奈々は痛みともつかない疼きを胸に覚える。このところずっと胸に引っかかって消えてくれないもの。思い出させたのは、この腕に提げている誕生日プレゼントの包みの重みだろうか――舞がくれた料理用エプロン(奈々さんお料理するから……!)、ルカがくれた高級画材一式プロにこんなものでよいのかわからないが、玲子がくれた来年開催される美術展のチケットと手袋(あなたは受験生なんだから風邪を引かないように)。それから……



 ――奈々さん、お誕生日に、お祝いの場にいっしょにいられなくてごめんなさい。



 手紙の書き出しにはこうあった。



 ――あたしはこの冬休み中におじいちゃんの知り合いのところで剣道のおけいこに励むことにしました。それがなによりもみんなのためになると思って。あたしはまだまだ弱いから、もっと強くならなきゃいけないんです。だから、みんなといっしょにお祝いする資格はないんです。



 そこまで読んだ時、晴れやかな仲間たちの顔に囲まれて奈々の表情は曇った。



 ――でも、あたしは奈々さんと出会えて、奈々さんとすごせてすごく楽しかったです!お友達として一緒にいる奈々さんも、お姉さんとしてがんばってる奈々さんも、画家としての奈々さんも、そしていっしょに戦っている玄武としての奈々さんも、すごくすてきだなって思います!

 ほんとうに、お誕生日おめでとうございます、奈々さん!!これからもよろしくお願いしますね。受験もがんばってください!!


                                     翼より

P・S

お誕生日プレゼント、気に入ってもらえるといいんですけど…




(気に入ったよ、すっごく。気に入ったけどさ……)


 別に誕生日パーティーにいてくれなくたってかまわない。翼が誕生日をお祝いしてくれる気持ちは本当だろうから。だが、ここしばらくの翼の横顔が瞼にちらついて仕方がない。時には思いつめたように虚空を見つめていた。時には今にも泣き出しそうに瞳を揺らしていた。それでも翼は弱音ひとつ吐こうとせず、いつも通りに振舞っていた。振舞おうとしていた。


「琥珀戦のことがまだ気にかかっているのね」


 今夜、翼のことが話題になったときに、玲子がそう言った。「翼ちゃんのことって?」と毒に伏せってあの場にいなかった舞がふしぎそうに尋ね、奈々が状況を説明した。北山の麓で琥珀を討ち損じたときのことだ。


「でも、なにも翼ひとりのせいじゃ……」

「そうさ。それに結果的にはあれでよかったとも言えるんだが、翼のあの性格だ。当然気にするだろうな」


 まさしくルカの言った通りだ。翼なら絶対に気にする。強くなりたい想いは誰よりも強い翼だもの。


 ……でも、それだけではないのだと、奈々は他の誰にも気づかれぬように目を細めた。みんなはまだ知らなくてよい。特に舞は。つい数日前に結城司と想いが通じ合って幸せいっぱいの舞にはどうすることもできないのだから。もしそれを知ってしまったとして舞は友達を想うまったくの善意から動くのだろうし、翼はきっと舞を恨んだり嫉んだりはしないだろうけれども……だけど、やはり…………


 朝日がを落としていた横顔、髪、制服の肩。後ろを歩いている奈々と翼にはその話し声は遠く、ただ楽しげな二人の笑い声が日の光とともにさざめいていた。それは、凍えるような長い夜の後に訪れた明るい朝の景色と調和した、一幅の幸福の絵であった――


「ななねぇちゃん!」


 幼い子の甲高い声で奈々ははっと我に返る。マンションのエントランスから弾丸のように飛び出してきて腰元に抱きついたものを見下ろしてみれば、弟の悠太であった。きちんと耳当て、マフラー、手袋、コート、ブーツのセットを着せられているところを見ると、勝手に家を出てきたのでもなさそうだ。それにしてもなぜ保育園児の悠太がこんな時間に一人で?


「あっ、奈々(ねぇ)、おかえりー!」

 揃った声がまたしても飛び出してきて奈々に引っ付いてきた。今度は双子の妹の音々と美々だ。こちらもきちんと厚着をしている。


「あんまりおそいからお迎えいこうと思ってたんだよ」

「そうなんだ、ありがとう」

「お誕生日パーティー楽しかった?」

「うん、すっごく楽しかった」


 奈々は微笑んでうなずく。嘘はない。本当に今日という日はすばらしかったから。


「でも、ぼくもきょうおいわいしたかったなあ」

「昨日みんなでしてくれたでしょ?」

「きょうがいいんだもん!」

「あっ、奈々姉!お兄ちゃんからのお誕生日プレゼント、さっき届いたよ!」

「ほんと?!」

「よかったね!奈々姉、ずっと楽しみにしてたもんね」

「ななねぇはおにいちゃんがいていいなあ。ななねぇのおにいちゃん、ぼくもあいたい」

「きっと近いうち会えるよ。今度帰国するってそう言ってたから。その時にみんなで会おうね」

「ほんと?やったー!」


 左手で悠太の手をつなぎ、右手にプレゼントの包みを抱え、双子の妹に囲まれながら奈々はマンションのエレベーターに乗り込んだ。幸せだった。大切な家族に囲まれ、友人たちにお祝いしてもらって、最愛の兄からプレゼントが届いて、疑いようもなく幸せなはずだった。このまま幸せに年が暮れるものと、そう信じていたのに。







 南の島の朝は桜花市より遅い。まだ日の昇らぬうちに翼は目を覚ます。騒がしい都会の中心というわけではないけれども街中で育った少女には、年々住人が減りつつあるこの離島の、何百年と変わらぬ沈黙を守りきっている暁が恐ろしくも思われた。人が立てる音はことりともしない。ただ海鳴りだけがある。


 目覚めてからも翼は薄い布団のなかで、身じろぎもせず、ただ瞳をじっと薄闇に凝らしている。そうして考えるのは遠い故郷の町にいる家族のことや友人のことだった。舞、奈々さん、ルカさん、玲子さん、左大臣、柏木さん――みんな元気にしているのかな。今日は奈々さんのお誕生日パーティーだったはず。本当に、参加できなくて心残りだけれど。でも、不甲斐ない自分だから。


 お母さん、お父さん、空お姉ちゃん、光お姉ちゃん、おばあちゃん、おじいちゃん――昨日電話したときはみんな元気そうだった。おじいちゃんはどこか心配そうだったけれど。でも、おじいちゃんがここに連れてきてくれたんじゃない。あたしが全然だめだってこと、おじいちゃんだけは気づいてくれてたんだよね……ごめんね。


 その時、遠からぬ場所で一番鶏が鳴いた。翼はついに起き出さなければならない時刻が来たことを知った。それがこの島にいる間の掟であった。


 海原島うなばらじまは人口百名にも満たない小さな島である。桜花町からは飛行機と船を乗り継いで半日ほどかかり、港に着く船は一日二便。それも小さな船であるから冬のこの時期は揺れに揺れる。翼は乗り物酔いする性質でなかったからよかったものの、そうでなかったらきっと大惨事になっていたはずだ。祖父は船を降りたころには真っ青な顔をしていた。


 この数か月、伸び悩む弟子を、思い悩む可愛い孫娘を見かねて、祖父がここに連れてきてくれた。この遠い離島には祖父の古い知人にあたる女性が暮らしているのだ。この女性ひとのもとで修業をしなさいというのが祖父の助言であったが、まさかひとりで島に置いていかれるなんて翼は思ってもみなかった。どうやら祖父も同じであったようなのだが。


「はるばる海原島ここへ来たからには生半可なことでは困ります。貴方がそばにいてはそれが翼さんの甘えにつながるのです。午後の便でお帰りください。今この時から修行は始まっているのですよ」


 当惑する祖父に、老女は灯りをつけない部屋の奥から冷ややかに言いのけた。それは決して反論を許さぬ声だった。


 夜が少しずつ薄まりゆく。朝の滴りを早くも受けて黒い木末こぬれは立ち騒いでいるが、足元に寄せる波の音にかき消されてしまう。波の音を踏みしめるようにして、翼はまだ頼りない足取りで岩場をのぼっていく。太平洋に突き出す崖の上へと続く急峻な岩場には手すりなどない。ただ、古人いにしえびとの足裏に幾度も踏まれ擦られたあとが、心持ち平たくなっているばかりである。今からほんの数十年前まで、島の女たちは、大人から子供まで、水を汲むためにこの岩場を素足でのぼっていたのだと旭さまは言っていた。


(でも、なんでおじいちゃんはあたしをあさひさまのところに預けたんだろう……)


 旭さま、というのは島の者たちが呼ぶのを聞いて翼が勝手に呼びはじめた名であった。特段なんと呼べとも言われていない。


 最初は旭さまに剣術を教えてもらえるものだと思っていた(そのつもりで奈々に手紙を書いた)。だが、この三日間でわかったことは、旭さまは剣道のことはからきし知らないということであり、旭さまの方もそれを気に留めてはいないということであった。


(剣道を教えてくれないんだとすれば、旭さまはあたしに何を教えてくれるっていうの?)


 剣術のことはなにひとつ教えられない旭さまは、雑用としか思えぬことばかり翼に命じた。そのひとつに、朝の水汲みがあった。水に乏しいこの島で、唯一清水が湧き出でているのが、旭さまの家の裏手にある片鰭岳かたひれだけの頂である。水道がすでに整備された今となっては、山上まではるばる水を汲みにいく必要もないのだが、旭さまは毎朝の水垢離みずごりにはこの清水がよいのだといって、翼に汲みにいかせるのだった。それにしても、翼がいない時は一体どうしていたのやら。一緒に暮らしている者もいないらしいが、まさか自ら赴くのだろうか。あの御歳で?


 ちょうど半ばまで来たというところで翼は足を止めた。南の島といえどもさすがに冬の夜だけあって、稽古着一枚では震えるほどに寒い。岩肌に触れる右手は感覚を失うほどに冷え切っているが、この石の壁に手を突いていなければ一歩歩み出すことさえ恐ろしい。左手に持つ桶の差しかかる先は、くうであり、海であった。


(あたしは……)


 翼は左肩に縋るようにして東の海を見た。夜明けは刻々と近づいている。まるで胎動を透かし見るように、分厚くわだかまった雲の向こうの朝を翼は確かに見た。しかし、水平線は黒くけぶり、海原はいまだ薄墨のような灰色で、海鳥の影ひとつ見当たらない。


 舞の誕生日にみんなで行った夏の海が、翼にとってもっとも新しい海の思い出だった。この海は果たしてあの輝かしい海と一続きなのであろうか。唸りとどろく海――まるで巨大な生き物のように、海は波間に翼を引き入れようと陰湿な目をじっとこちらに向けているように思われる。


(あたしなんでこんなところに……たったひとりで……)


 海から目を背けた翼は、また引き戻されるように海の方に視線を遣った。先の恐ろしい想像がまだ胸にまとわりついていたにも関わらず。翼を呼んだのは海ではなかった。なにかまた別のものであった。そう、なにか、不可解な、寄り来るもの……




「お早う」


 ようよう日が差しはじめたころ、翼は老女と今日最初の対面をした。障子紙を透かして入るわずかな陽光のほか、北に面した古い和室の、一層奥まったところにいる老女の姿を照らし出すものはない。


「おはようございます」


 翼は畳の上に深くいやした。すべての礼儀作法をやかましく取り決める祖父と違って、老女は細かいことをとやかく言おうとしない。翼の一挙一動はぎこちなくなる。次の所作、次の言葉にいちいち迷うためである。


「朝の務めご苦労でした。今日の朝目は如何いかがです」


 朝目というのは、この島ではよく言う言葉で、朝起きてその日最初に見たものを言うらしい。そんなことを言ったら天井か布団かということになる気がするのだが、もう少しひろく捉えて、最初にふと目にとまって印象深く感じたもののことでもよいようだった。口数少ない老女はなぜか朝目のことだけは尋ねるのを忘れない。翼はしばし考えてから口を開いた。


「今朝は水を汲んで、山道を通って帰りました。その、つまり、いつもの崖の方の石段からではなくて。その時、山のなかで小さな黒い鳥居を見つけました」

「ほう、あれを見つけましたか」


 老女は笑いもせずにつぶやいた。そこからの沈黙に耐えかねて、翼はまた口を開いた。


「そ、そうなんですっ……!あの鳥居がとても印象的で……なんていうのか、なんかとても不思議な、神秘的な感じがして。あれは神社ですか?どんな神さまを祀っているんですか?」

「神さまではありません」

「では……」

「人魚を祀っています」


 水垢離を済ませたせいか、そのお声までもが冴え冴えとしていた。翼は思わず旭さまのお顔を仰ぎ見た。乏しい光線のなかに正座をしている老女の歳はいくらとも知れない。祖父の古い知人であるということから推して七十ほどであろうか。象牙色の皮膚にはやはりそれだけの年輪が刻まれているように見えるけれども、まっすぐに伸びた背と眼差しの鋭さが少しも衰えを感じさせない。清浄な雪のような白さを閃かせている尼頭巾のうちからその切れ長の瞳は、楕円型の眼鏡を透かして翼を射る。


「人魚?」

「おや、お祖父さまに聞きませんでしたか」

「えっと、特になにも……」


 尼は別に呆れるようすもなく、水泡のような瑠璃色の数珠持つ手を法衣の膝の上に据えなおした。


「この海原島は人魚の島といわれています。伝説では今から八百年ほど前、人魚がこの島に流れ着いたのだとか。人魚の肉を口にすると、その者は永遠の命を授かるといいます。島の者たちはこの人魚を然るべきお方に献上しようと人魚を生け捕りにしておきましたが、とある娘が人魚を憐れに思い、海へ逃がしてやったのだそうです。人魚はその礼として自らの肉を一切れ娘に与えてこう言いました。私は水底にある海神わたつみの国の者であるから、そう繁くは島にはやってこられない。但し、八年に一度、一年の最後の夜には必ず来ると約束する。そして、もしこの島の者たちが私を捕らえようとせず、私を歓迎して捧げものをするのであれば、私はその見返りとしてこの島に清らかな水と豊かな食べ物をもたらそう、と。以来、片鰭山の頂きからは清水が湧き、島は豊漁と豊作に恵まれるようになったとのこと。この伝説から、島では人魚を祀るようになったのです」


 旭さまがこれほど饒舌になるのを、翼は初めて見た。淀みない語り口である。唖然としている翼を、旭さまはまっすぐに見据えたまま、まったくなにげない調子で、


「今年はその八年に一度の年に当たります」


 とそう言った。


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