第五十話 聖夜
あの冬の日の自分のことを、彼女は九つであったと思うようにしていた。
そうすれば京の路上で行き倒れていた憐れな娘に手を差し伸べてくれた、あの可憐な少女と同い年だということになる。飢えと貧しさしか知らなかった娘に、初めて微笑みかけてくれた少女――この世界のなによりも清らかで貴く、いとおしい女人。
「さあ、わたくしと一緒に来て」
翡翠色の瞳にやせ細り土埃にまみれた娘を映して、少女はそうささやいた。少女の名は八重藤といった。
その朝は薄曇りで、朝日はおぼろにしか姿を現さぬまま高く昇り、そのまま滑り落ちるようにしてすばやく夜の谷間に身を潜めてしまった。月明りだけが簾の隙間から細く差し込んできて、汗ばむほどに温い車内の闇を鏡面のような冷ややかさのなかに浸そうとしていた。飢えた娘はなんとなくそれを恐れて、投げ出しかけた足をおずおずと与えられたばかりの着物の裾に引き込もうとした。そんな些細な所作のなかでさえ、綿の重みが踝に引っ掛かったために、彼女は少々まごついた。
「寒くなくて?」
気づいた少女がそっと尋ねて、その身の熱をますます彼女の方へと押し当てた。彼女の戸惑いはほとんどこの少女から寄越されたものであった。到底ありつけないと思っていた食糧や衣類や寝床のためではない。少女のかぐわしい香りが、甘くしとやかな声音が、時おり頬に触れる髪のやわらかさが、そして、そうしたものの一切を他人に許して憚らぬ彼女の慈愛に満ちた厚かましさが、彼女を慄かせた。まるでこの世のものではないものに魅入られたような気がしたのだった。
「……わたしはどこへ行くの?」
「月修院よ。京からずっと北の方にあるの。とても美しい場所よ。静かで満ち足りていて、そして守られているって感じがするの」
「守られているって、だれに……?」
生まれてこのかた他者による庇護というものを受けたことのない娘は、守られるという言葉そのものに、本能的に不安を抱いたようだった。すると、少女はその不安を気取ったように、翡翠色の瞳をゆっくりと瞬かせて、ゆっくりと言い聞かせるようにささやいた。
「天満月媛さまよ。月の女神さま……知っていて?この世界は天つ乙女という方が創られたの。そして、この世界が創られたばかりのころは、月と太陽とがともに浮かんでいたんですって。それを見た天つ乙女さまは『なんて眩しいのだろう』と仰ったの。満月媛さまは我が身を恥じて、水底に沈んでしまったそうよ。それから昼と夜とが交互に来るようになったんですって」
話を聞き終えて、娘もまた真剣な瞬きを返した。神からも信仰からもみはなされて生きてきた孤児の胸にも、この悲しい神話は、なにか苦しいほどの感情をかきたてたのである。憧れを募らせればそのぶんだけ冷酷に突き放されるという世の摂理に、この娘がそれだけ馴染んでいたためであろうか。娘はもうこれ以上埋める距離などないというのに、八重藤の方へといざり寄った。
「わたくしたちはそんな満月媛さまをお慰めするために、日夜お仕えしているの。そうすれば死んだ後でも満月媛さまに守っていただけるのよ。そして、よい来世を送ることができるの」
「来世?」
「そう。たとえ肉体が滅びても、わたくしたちの魂は死なないわ。魂はまた新しい肉体に宿り、わたくしたちは生まれ変わるの。そうして魂に刻まれた想いは受け継がれていくのよ」
「うそよ。そんなことが本当なら……本当なら、さっさと死んでしまえばよかった。あんな苦しい思いをしなくてよかったじゃない。あんなにがんばって、くるしんで、生きようとしなくったって……!」
娘の言葉は衿のうちに吸い込まれて消えていく。八重藤は震える細い肩に手を伸ばしかけてためらい、翡翠の波を薄い瞼で抑えて凪がせた。降ろされた手は乏しい月明りのなかで灰色に褪めている衣の膝の上で重ねられた。
「……きっと貴女の人生は、わたくしなどには想像もできないほどつらいものだったのでしょう。わたくしはきっとあなたの苦しみを理解することはできないわ。ごめんなさい。でもね、わたくしにも死んでしまえばよかったと思う日々があったわ」
沈黙のなかで娘が涙に汚れた顔を上げると、八重藤は重ねた指先を見下ろしながら語り出した。
「わたくしのお父さまは早くに亡くなったの。お母さまはわたくしをあまりかわいがってくださらなかった。お父さまが生きているころから、お母さまのもとには毎晩のようにちがう殿方がやってきたわ。わたくしは怖くて乳母の部屋で震えていたわ。
お父さまが亡くなってからしばらくして、お母さまはある夜やってきた殿方とともに家を出ていったきり、帰ってこなかった。わたくしはね、お母さまに捨てられたの。お母さまがいなくなってから、家に仕えていた使用人たちはひとり、またひとりといなくなったわ。乳母だけが最後まで残ってくれたの……でもね、本当は残ってくれないほうがよかったのよ。乳母は急に人が変わったように、わたくしに厳しくなった。態度も言葉遣いも乱暴になって、時には叩かれることもあったわ。ひどい言葉をたくさん言われたわ。わたくしには意味のわからないような言葉も」
「そんな家、逃げ出してしまえばよかったのに」
娘がふてくされたような顔で率直に言うと、八重藤はそうねと微笑んだ。
「貴女の言う通りよ。でも、できなかったの。だって乳母もとてもつらいのだって、わたくし知っていたから。乳母はわたくしの世話をするために精一杯だったの。それで優しく振舞う余裕がなくなってしまったのね。わたくしを世話するために、たったひとりになって、追い詰められて、行き場のない感情を発散できる相手はわたくしだけだったの。だから、わたくしは生まれてこなければいいと思ったわ。お父さまといっしょに死んでしまえばよかったって。乳母にもそう言われたの。『お前なんて、死んでしまえばいいのに』って。
ある夜、本当に死んでしまおうと思い立って、ひとりでこっそりと家を出て、東雲川に飛び込んだわ。幸いにもすぐに見つけられて助け出されたのだけれども。助けてくれた人たちに連れられて、あくる朝に家に帰った。そしたら……そしたら、乳母は死んでしまっていたの……自ら首をくくって」
八重藤は耐えられないように両手で顔を覆ったが、娘が予期した歔欷は訪わず、大きな花弁のような白い掌が開かれると、悲しみはすでに花芯となった誇りを負うて、翡翠の瞳に、力強い一顆のきらめきを宿していた。娘はそのきらめきに目を瞠った。人間のなかに、これほどの貴く憐れな感情を見出したのは、初めてであった。
八重藤は照れるように弱々しく微笑んだ。
「そうして身寄りのないわたくしは月修院に引き取られることになったの。月修院に来てからもわたくしは苦しみ続けたわ。あの夜どうして死ぬことができなかったんだろう、死んでしまえばよかったのにと。祈りのたびに満月媛さまに訴えたわ。『どうしてわたくしを連れていってくださらないのですか?どうしてわたくしをひとりにするのですか?』って。
でもね、ある日、月修院さまが――月修院のなかで一番えらいお方が、こう仰ったの。『八重藤、あなたは生かされているのですよ。生きなさい。生きてあなたのつとめを果たしなさい』って。そうよ。そして、わたくし、今日、貴女に会えたんだわ……」
夜が明けるころ、月の巫女と孤児たちを乗せた車は北山の麓にある月修院の門前へと到着した。轍さえもが凍てつく群青の底に、月修院宗主みずからが降り立って車を出迎えた。巫女たちが京にて慈善の業に尽くしている七日七夜、巫女とその救済の対象である孤児たちと苦しみをわけあうべく、宗主もまた一睡もせぬ習わしである。しかし、宗主は涼やかな灰色の瞳を疲労に濁らせることもなく、決して大仰ではない、穏やかな喜びと慈愛に満ちて、孤児たちを迎え入れられた。宗主はいつものように、帰ってきたばかりの巫女ひとりひとりにていねいに話しかけなさったが、八重藤にもやはりお優しい言葉をおかけになったのであった。
「八重藤、無事に帰ってきてよかった。誰よりも幼いあなたが、誰よりも重い務めを果たすことになるのではないかとの予感があったのです。あなたの務めは果たせましたか」
低く、心地よく、けれどもどこかざらついた声であった。八重藤は両手を額の前で結んで膝を折る月修院独特の辞儀をしたうえで、すなおに微笑んだ。
「はい、月修院さま。満月媛さまがわたくしたちを導いてくださいました」
八重藤の目配せを受けて、月修院さまは八重藤の後ろでおどおどしている娘の方に初めて声をかけられた。
「満月媛さまのお導きとは八重藤はよい言葉を使いました。もう何も心配はありません。ここでは誰もが支え合い慈しみあって暮らしているのです。貴女もきっとこの八重藤のようになれるでしょう」
「わたしが……?」
疑わしげに八重藤を見た娘のまなざしは、見る見るうちにほどけてあどけない陶酔を宿しはじめた。八重藤の翡翠の瞳はしっとりとそれに応え、瞳を追うように左手が伸びて、娘の手を取った。幼い者たちの交情を月修院さまは慈愛の目を細めて見守っていらっしゃった。折しも、明け初めの日が地を展き、夥しい夜露に濡れた草原を燦然と輝かせ、少女たちの頬を照らし出した。
「そうですよ。貴女は八重藤のようになれる。貴女の新たな名を付けねばなりませんね。ならばこう呼びましょう……八重藤から名をもらって、藤尾、と」
藤尾――そう、それが私の名前。
「京野」
桜花公園のベンチで鼻歌を歌いながら噴水を眺めていた舞は、待ち焦がれていた声にぱっと顔を上げた。中央の噴水広場へと続く階段を彼が下りてくる。司はチェックにグレー地のチェスターコートに、ネイビーのセーターの胸元から白いシャツの襟元をのぞかせて、着ている当人は至ってさりげなさそうに、片手をポケットに入れ、片手にリードを握って颯爽と歩いていた。立ち上がった舞はまずそのすらりとした姿にときめき、それからふと司の足元に目を下ろして愕然とした。
「トビちゃ……えっ……?」
これが本当に同じトビーだろうか。確かにかれこれ一月以上会ってなかったわけではあるけれど、子犬の成長がこんなに早いなんて。先月まではせいぜいポメラニアンサイズだったトビーは、今や小柄な柴犬ほどもある。それでもつぶらな黒い目や、舞を見つけるなり尻尾をちぎれんばかりに振りまわすところなどは少しも変わらずトビーなのであったが。
「トビちゃん、見ないあいだにずいぶん大きくなったね」
「ああ。母は抱き上げるのもやっとなぐらいだ」
「も、もしかして、本当に琥珀の子だったりする?」
「そんなわけあるか」
「そ、そうだよね……!おいで、トビちゃん!」
舞が屈みこんで飛びついてくる犬と戯れていると、司は、この肌寒い曇り空の下とはいえそれなりに人影もある噴水広場を目だけで見渡して、ひとつ咳払いをした。舞とトビーはふしぎそうに同時に司を仰いだ。司は恥ずかしげに目を逸らしていた。
「いや、その……歩かないか?」
「えっ、あっ、うん!」
モスグリーンのリードを引きながら、やや顔をうつむけて足早に噴水広場を去ろうとする司を、舞は小走りに追いかける。やがて紅葉した樹々に囲まれた公園内の散歩道へと出ると、司は歩調を緩めたので、舞も隣に並ぶことができた。そうして並んで歩くことの快い息苦しさに、舞は初めて酔いしれた。司もまた同じ気づまりで以って、秀でた鼻先を正面に固定していた。言葉を交わすだけのことが、この少年少女には急に難しくなってしまったのである。
(こ、これって、デート……?)
寒さのせいではなく、舞はマフラーの中でほのかに頬を赤らめた。なにも初めからわかりきっていたことなのに。二人きりで公園で会うと約束したその時から。だが、二人の約束は、単に久しぶりにトビーに会いたいという舞の望みが司の母親の耳にうっかり入ってしまったときに、無理やり取りつけられたものなのだ。なにも司が休日に好んで舞の顔を見たがったわけではない。
舞の方だってそんなことは理解していたし、いまさら落ち込みもしなかった。確かに今日のコーディネートには母にも姉にも雑誌にも左大臣にも相談して散々悩んだし、公園に到着した瞬間から今日の花柄のスカートは司の好みからするとやはり派手すぎたのではないかと思いはじめていたし、せっかくだからスニーカーではなくて買ったばかりの真っ赤なバレエシューズ(リボンつき!)で来ればよかったと後悔してはいるのだが。しかし、これらの悩みも後悔も、散歩をしているトビーに会わせてもらうほんの五分かそこらの時間のためのものであったのだ。まさか一緒に歩くことになろうとは思ってもみなかった。人目を避けるためだとしても、一瞬で会合を終わらせてしまえばそれで済む話なのだし。
胸がくすぐったい。呼吸が上手にできない。舞は逃れるように頭上を仰いで、入り乱れる紅葉の果てに、乳白色の池のようにたたずむ曇り空を見出した。点描画のように重なり合い、わずらわしくももつれ合い、そして鮮やかに燃え立つ樹々の向こうにあっては、低く垂れこめた陰気な雲さえもが、この身が洗われるような清冽な安らぎを与えてくれるように思われる。
ふと舞と司の指先がすれ違いざまに触れあった。永遠のようなその刹那を受けて、痺れたように肩が跳ね、二人は慌てて指先を、少年はポケットのなかへ、少女は自分の右手のなかに避難させた。トビーが一体なにごとかと振り返った時、二人は赤く染まった顔を背け合っていたが、その実自分たちで思っているほど互いの距離は開いてはいけなかった。
言葉で繕うのも不自然に思われるままに沈黙が過ぎていった。犬が嬉しげに吐く息と、やわらかな足裏が土を踏む湿ったような音ばかりが、二人の時間を刻んでいった。たとえそれが無機質な秒針より心持ち急き気味であったとしても、二人にとってははるかに慈悲深く、ものわかりがよかったことは言うまでもない。沈黙の長さを気に病む必要もなく、気まずさを感じているという事実がもたらす悦びを永らえさせてくれるものであったから。
高鳴る胸を痺れる手でぎゅっと抑えて、舞はゆっくりと息を吐いた。その吐息を聞きつけたのだろうか。顔はまだ背けたまま司が口を開く。
「そ、そういえば、英語はどうだったんだ?」
沈黙にそういえばもなにもないのだが、舞には司が尋ねようとしていることがわかった。中間試験の結果のことを言っているのである。舞はようやく目線を少し前に戻せるようになって、
「な、なんとか……!」
「赤点は逃れたか?」
「うん!だって平均超えたもん!」
「そうか、よかったな」
舞は気づかれないように深呼吸をすると司の横顔を見つめて、ついに言った。
「結城君の教え方がじょうずだからだね……!」
司の鼻先は紅葉の色を投げかけられて、また向こうにすっと消えてしまった。
(……私はこの人が好き)
舞はひとりでに浮かんできた微笑みを口の端に載せて、あたかもその唇で紡ぐようにそっと呟いた。
(強がってるけど、本当は弱くて、さびしくて、やさしくて。ずっと孤独だっただけだよね。前世からずっと……)
翡翠の瞳が不安げに揺らめきだす。前世からずっと……本当に?前世の孤独と現世の孤独とのあいだに挟まれたあの幸福、あの笑顔を忘れ去ってしまってよいものだろうか。なぜ一続きになるべき物語に、束の間の挿話があったのか。
玲子の手紙を思い出す。漆の手先によって殺され、玲子の手によって地獄の門から押し返された司の魂が何を成したか。それが司の変貌の鍵であると玲子の手紙は語っていた。たとえ以前の司のことであっても、今の司は思い出せるのではないかとも。記憶は魂に刻まれるものだから――
結城司の魂に呼びかけられるのはあなただけではないでしょうか――
「……そういえば」
司の言葉の始まりはまた、そういえば、だった。
「父さんにこのあいだ会った」
途端に舞は物思いも忘れてぱっと顔を輝かせた。
「そうなんだ!お父さん、元気だった?」
「まあな……」
「トビーちゃんも会ったの?」
「いや、食事をしただけだから……」
「そうだったんだ。じゃあ、トビーちゃんに会ったらびっくりするね」
「確かに写真を見せたら言葉を失っていたな」
「おっきくなったもんね。お父さんといっぱいおしゃべりできた?」
「まあ、それなりにな。それで……そうだ」
とつぶやいて、司は足元のトビーの尻尾を見下ろしたまま、
「父さんの昔のゼミ生が今就職して遊園地に勤めてるらしい」
「そうなんだ」
「ああ……優秀な学生だったのに進学せずに残念だと父が言っていた」
「ふーん」
「アン・ブロンテについてなかなか鋭い卒業論文を書いたらしい」
「へぇー……」
司の目は相変わらずトビーの尻尾にくっついたままだ。トビーの尻尾は右に揺れつつ左に揺れつつ、以前よりはいくらか貫禄のついてきた足取りにあわせて動く。この話ははたしてどこへ行きつくのか。
こほん、と司がひとつ咳をした。
「それで、だ。その学生が、いやその、今は学生じゃないが、とにかく卒業生が遊園地のチケットを父にくれたらしい……二枚」
「よかったね」
「それを今度は父が僕にくれた。誰かと一緒に行くといいって。だが、僕は特に一緒に行く相手はいない」
と、目の前に差し出される厚地の封筒に舞は目を瞬いた。
「……えっ」
「お前はいるだろう、誰か一緒に行く相手が」
そう言いつつ、司はなぜだか絶対にこっちを見ようとしなかった。
「えっ、でも、お父さんと一緒に行けば……」
「父さんは忙しい」
「お母さんは……」
「子供じゃないんだぞ。母親となんか行くか」
「東野君は?」
「…………」
長いこと返事はなかった。封筒は受け取られぬまま宙に浮き、トビーの歩調は軽く尻尾は揺れ、司はまっすぐ前を見続けていた。流し目ではあるものの、司の瞳がこちらに向けられるまで舞は辛抱強く待たなければならなかった。
「……一緒に行くか?」
唇の動きを追っていないと、聞き逃してしまいそうな声だった。けれども、かすかな声は翡翠の池を潤わせ、波立たせる。舞は一瞬はっと息を呑み、それからは祈るようにひたすらに真摯に、じっと両手を組んで聞き入っていた。薄く開いた唇から吹き込む風が、小さくのぞく白い前歯の端を乾かしていく。
「うん……!」
小さくうなずいた舞は、急に堪えられなくなってぱっと顔を背けた。司の瞳もまた、木の葉が枝を離れるようにさっと舞の赤らんだ頬の上から剥がれ落ちて、宙を舞った。傍目から見れば子犬だけが楽しげであった。しかしその実、少年と少女は、子犬の何倍も幸福であったのである。
「二条楷は二条蒜臣の九男、母親はその側室の一人であったはずですが、もはや誰とも覚えておりませぬ。それほど家柄がよかったわけでもなかったのでしょうな。蒜臣には随分と多くの側室がおりましたが、そのなかでも我々が名を覚えているのはわずかでございますから。蒜臣が楷に目をかけなかったのも、九男であるという理由ばかりではありますまい。幼くして月修院に送ってしまったのも、母親が死んでもてあましたのでございましょうな」
「父親に顧みられず、愛情に飢えた孤独な少年時代……それがかの男を創りあげたと?」
「わたくしはそうは思いたくありませんな。そうした少年時代が、生まれ持った歪みを助長したという程度に」
「私も同感だ。しかし、やはりわからないな。楷と二条家の謀反の関わりが」
カシミアのセーターに身を包んだルカは椅子に背をもたせかけながら、長い指でペンをみごとに一回転させた。
「楷が無関係だなんてことがあり得るか?」
「楷が無関係と仰いますか」
丸テーブルの上に胡坐をかいた左大臣は、釦の目の間に皺を寄せていた。
「楷に無関係、ではなく?」
ルカは小さく首を振りながらあいまいに微笑んだ。
「つまり楷が生家の謀反に影響を受けたんだと言いたいわけだな。確かに楷はあの時京にいなかったさ。だからこそ怪しいんだ。わかるかい、左大臣?」
「なるほど、忘れておりました。漆のやつは月修院にいながらにして京を引っ掻き回したのでしたな」
そういうことさ、とうなずくルカ。
「舞の言った言葉を覚えているだろう。京で対面したとき、漆は姫にこう言った――『私はこの国を覆す』と。二条家の謀反はあいつの計画のはじまりに過ぎなかったのかもしれない。雪崩の前の雪玉のような小さな兆しさ」
そしてその雪玉ゆえに白虎の一族は皆殺しにされたのだ。その事実に左大臣は戦慄を覚えたように黙した。白虎の一族、一条家の人々は二条家の残党によって一夜のうちに惨殺され、白虎だけが悪夢のような夜を生き延びた。その母は死してなお衣の下に娘を庇い続けた。
「楷が漆となった原因についてはどう思う?」
ルカは指先でまたペンを回した。
「私は漆の姿を直接見ていないが……奈々の絵を見るかぎり、漆の容姿は我々が知っている『月修院さま』とは大きく変わっている」
「それを申せば人格そのものが変わっております。まったく、香苗殿の日記がなければ信じられませぬ。わたくしなぞ、いまだ半信半疑でございますぞ」
「私だって奈々の絵がなければ信じていなかったさ」
「わたくしの記憶が正しければ、最後の月宮参りの折に楷は数えで四十二。しかし、漆の見た目はどう見ても二十代。それに楷はああのように凍りつくような美貌の持ち主ではありませんでしたな」
「ああ。なにより決定的にちがうのは瞳の色だ。楷の瞳の色は灰色だった。だが、漆は紫紺色だ。あいつは単に若返っただけではない。というよりは、奴の場合……いや…………」
じっとうつむいて考え込んでいたルカは、左大臣の怪訝そうな目を受けても何かを語ろうとはしなかった。思索はただルカの瞳のなかでのみ深まっていく。
ふと、ルカは椅子ごと体を窓の方へと向けた。差し込む冬の日差しがクリムゾン色の絨毯に輝く金糸を縫い込ませている。その上に影を落として、絨毯の色に負けぬほど燃え立つ髪を結い上げた少女が佇んでいる。玲子は先ほどからずっとルカと左大臣の会話に加わっていなかった。
しかたないさ、こんな日だもの。ルカのまなざしはそんなやさしい諦めを浮かべていた。十二月二十五日――今日はクリスマスだ。こんな日ぐらいは休息が必要なはずだ、たとえ四神であっても。
「玲子、今日はもう終わりにしよう。昼食のあと解散だ」
今夜はきっと最愛の父と水入らずで過ごすはずの玲子のために、ルカはそう提案した。きっと玲子もそれを思って夢心地であるのだろうと。しかし、車椅子のわずかな動きで振り向いた玲子はルカの言葉のあともなお、なにか目覚めきれないような瞳をしていた。瞬きがいつもよりほんの少し緩慢であった。
「……えぇ」
緩慢な瞬きのうちの最後の動きが、窓外の光を撫でた。睫毛に灯された光のかけらのうちに、玲子はなにを見つめていたのだろうか。
玲子が見つめていたもの――それはある日の午後、白崎邸の庭を柏木も連れずに巡っていた時のことであった。噴水の前で車椅子を停めた。いつの間にか車椅子の後ろに歩み寄っていて、急に両肩に触れた手。見上げた先にあった少女の顔。少女は微笑んでさえいなかった。少女の翡翠の瞳は、まるで逃さまいとでもするように、懸命に、玲子を見下ろしていたしかし、その真摯さをうらぎるように、風にそよいだ髪が寒さのために薄桃色になった頬にかかる、そのさまが少女をあどけなく見せていた。
「……玲子さん」
誰を憚るわけでもあるまい。でもきっと玲子だけに聞かせたくて、少女はささやき声になったのだ。
「手紙、読みました」
「……そう」
噴き上げていた水が止まると、意識できぬほどにささやかに思われた水音がさまざまな音を掻き消していたことに気がつく。たとえば振り返り見上げている、少女の呼吸の音だとか。こんな沈黙は玲子には恐ろしいようにも思われた。早く噴水が湧き出ればよいのに。
「ぜんぶ教えてくれて、ありがとうございました。それから……ごめんなさい」
舞の瞳が潤みだす。目を逸らした先まで同じ輝きが追いかけてときにはどうすればよいのだろう。芝生の色までもが金色の陽を受けて燃えている午後。
「何も知らなかったの、私。玲子さんが私と司を守ってくれたのに。変身もできなくなって、歩けなくなって、それでも私に何も言わないで。私、玲子さんの気持ちも知らないでひどいことたくさん言ったのに。それでも、玲子さんは一緒に戦ってくれた……」
「……私は朱雀だから」
頬にかかる冷たい飛沫が今度はわずらわしく思われてきた。こんなにも声を振り絞っているのに、間近に立つ少女には届かない気がして。うつむいた顔をほんの少し上げればよいだけなのだけれど。
「あなたを守るのは当たり前のこと。たとえこの命を失ったとしても……」
「でも司まで助けてくれたじゃない」
舞はよろめくのを堪えようとするように、玲子の肩を痛いほどにぎゅっと掴んだ。
「司のことは守らなくてもよかったでしょ?だってそれは朱雀の仕事じゃないもの」
「そうよ。だから助けなかったわ。貴女の幼馴染の結城司は消えてしまった」
「でも会わせてくれたじゃない……!違う人生を歩んでいても、離れ離れの時があっても、結城司は結城司だもん!司の魂は同じだよ。今も前も変わらない……だから、私は司のこと、また好きになったんです…………」
でも、それははたして舞を幸せにしたのだろうか。この恋はあなたを疲れさせ、苦しませただけではなかったのだろうか。涙に震える舞の声だけではとても見極めることはできずに芝生の色から顔を上げようとした玲子の視界は、桜花中学のセーラー服の胸元に塞がれた。
「ずっと見守ってくれてたんだよね、私のこと。私が玲子さんのことを知る前から、ずっと……」
頭の上で鼻をすする音がする。
玲子は思わずため息をつきかけた。それは幸福な午後のはずであった。顔をわずかにもたげて、舞の肩越しに見つめる冬の景色の完璧な美しさこそ、まさに幸福の象徴であるかのように思われた。冷気のためにいっそう先鋭さを増した陽光は、花眠るアーチのこまやかな葉の形を作り、微睡む樹々の枝先を朝露のように輝かせ、空をなにか痛いほどに澄みわたらせていた。
冬の吐息が右耳に触れている火照った小さな頬をしっとりと冷ましていく。頬から立ちのぼる温度が、凍えかけた耳朶を溶かす。
「……今度のクリスマスにね、結城君と出かけることになりました」
玲子の頬に影を落として、舞はようやく微笑みながら、まだ少し涙で濁った声でそう言った。
「私ね、その時ちゃんと想いを伝えるつもりです。このことを、玲子さんに誰より先に言いたかったの……」
……きっと想いは伝わるだろう。孤独に震えていた魂は癒される。古き罪は贖われ、引き裂かれた魂は結ばれる。月の女神の森で出会った二人の前に新たな道が横たわっている。その果てになにがあるのかはまだわからない。はるか昔、この世を去った星々の目にさえ届かぬ場所へと二人は至りつくのかもしれない。まだ誰も行きついたことのない現世。それが少しでもよいものになることを願って、人は祈るのだ。
「幸せに、なって…………」
ふしぎそうにこちらをうかがうルカのまなざしに瞼で触れて、玲子はいつになく口元を緩ませて、車椅子の車輪をクリムゾンの絨毯の上に滑らせた。邸のどこかからルカの母が聴いているらしいクリスマスキャロルが流れてくる――祝福を今宵、この美しい世界に。
本当に、今日という日は夢のように過ぎていった。見るものも触れるものも聴くものも、まるで相争って舞に触れるように鮮明に迫り来るのに、一方ではすべてが夢のようにも思われる。これは本当に現実なのかと疑いたくなる。明日、今日という日を思い出せるか不安になる――それはあまりにも幸せすぎるからなのだと知るのには、舞はまだ幼すぎた。
「あーらーのーのはーてに、ゆうーひーはおちーて」
遊園地で繰り返し流れていた曲を、そっと口ずさむ。幼稚園でみんなで歌ったクリスマスキャロルの、そこから先の歌詞を思い出せなくて、あとはあいまいな鼻歌だけになる。ふと街灯にとりこぼされた薄闇から目を上げると、まさしく歌詞のように、桜花町の家並みのむこうに夕日が消えゆこうとするところであった。
「あっ……」
思わず足を止めた舞の隣で、彼も立ち止まる。その最後の瞬間、屋根と屋根の群れのはざまで、太陽はひときわ強く燃え立った。その煌めきの強さたるや、その燃え立つところを起点にして緋色の扇の羽のように滲み出す数条の光が、すでに夜の喪に伏していた家々の屋根を焼き尽くすかと思われたほどであった。しかし、陽光は海のようにゆらめきながら吸い込まれて西の果てに消えていった。今日もいつもと変わらぬ日没が訪れたのだ。
少女と少年は魅入られたようにその様子を眺めていた。そして、輝く緋色の帯であった西の空が、崇め追いすがるべきものを失って、次第に呆けたような青みを受け容れつつあるのを見ると、ようやくものの心を得たようにはっとして、顔を見合わせた。あわてて目を逸らしあった二人は、競い合うかのように急いで歩きだした。
沈黙のまま、二人は京野家の前に着いた。なじみ深い我が家の門を背に頼もしくも冷たく感じつつ、舞はようやく来たるべき時が来たことを知った。顔を上げた舞は、宵闇のなかでも司の瞳を取りこぼさずに見つけることができた。
「……結城君」
絞りだした声は意外にもしっかりしていた。少なくとも、ジェットコースターであれほど叫んだわりには。
「今日はありがとう」
「……ああ」
「すっごく楽しかった、ほんとうに」
コーヒーカップを回し過ぎて怒られたことも。お化け屋敷でしがみついた拍子に司を気絶させかけたことも。
「結城君と一緒に行けてよかった」
観覧車で見た景色。共に歩いたイルミネーションの道。帰りの電車の揺れ。思わずよろめいた体を咄嗟に抱き止めてくれたあたたかな手。
「……私ね、結城君のことが好き」
ずっと伝えたかったこの言葉。好き、好き、好き――胸のなかに何度も繰り返される。
司は目を伏せた。それが何を意味するのか、舞はもはや占おうともしなかった。なんだかそんな彼の仕草が、やけに恭順に、敬虔に、思われただけだった。舞はその時ほど司をいとおしく思ったことはなかったように思われた。こらえきれずに、舞は司の背に触れた。肩に触れた。胸に触れた。冷たい頬と頬を寄せて、舞はほとばしる想いを叫んだ。
「結城君、大好き……!」
ああ!この瞬間世界が終わってしまったとしても、少しも惜しくない。だって想いを伝えられたから。結城君のそばにいるから。これ以上近づけないほど――もしかしたら司が望んでいないほどに、ゆえにもう二度とはあり得ないほどに、そばに。
「京野」
チェスターコートの肩の上で聴く声は震えている。
「……はい」
「僕は……僕はお前のことが嫌いだ」
知ってたよ、とは言い返せずにコートの袖の二の腕のあたりをぎゅっと掴む。知っていたからつらくないのだろうか。それとも、もっと先の言葉を待っているから……?
「お前はしつこく僕に付きまとおうとする。どれだけ突き放しても、閉じこもっても、お前だけは僕を離れようとしない。だから嫌いだ。お前を見ると、心がざわついて落ち着かないのに……初めて会った時からずっとそうだった。前世のせいなのかもしれない。以前の結城司のせいなのかもしれない。だが、いずれにしても僕には関係のないことだ。他人の想いに人生を振り回されるなんて、うんざりだ。だが…………」
かじかんだ指が、不器用に、もう少しだけ近くに舞を抱き寄せた。
「それでも、そばにいてほしいと思ってる……だめか?」
それは、こんなにもそばにいなければ聴き取れないほどのかすかな声だった。不安につまずいた言葉の終わりは、舞の右肩のあたりにうずもれてしまったようだった。
……舞は瞳いっぱいに光が溢れだすのを覚えた。街灯の光も、見慣れた向かいの家の窓の光も、ささやかな星影も、背中に浴びている我が家の灯りも。光は集い、翡翠の瞳の上できらめく結晶となり、舞がそっと瞳を閉じるとともにひとつの形を得てあたたかに滲みだした。微笑む舞の唇が濡れた。
「だめじゃないよ。大丈夫……ずっとそばにいるから」
結城君大好き、ともう一度ささやくと、「ああ」という低い返事があり、それからしばしの逡巡のあとで、舞はもう少しだけ司のそばに近づくことができた気がした。
「貴女の瞳が好き。貴女の紫紺色の瞳、まるで吸い込まれるみたい…………藤尾、わたくしたち、ずっと一緒よ」
わたしもよ。大好き、大好きなの。愛しているわ、八重藤。お願い、ずっとそばにいて。わたしの手を離さないでね――




