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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第五章 現世編
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第五十一話 人魚の島(下)

 昼頃になって、人魚の神社を見てくるようにと旭さまから言いつけられた。黒い鳥居をくぐると、樹々に狭まれた鬱蒼とした小径こみちが続いていた。てっきりその先には拝殿があると思っていたのだが、翼を待っていたのは小さな石造りの祠のようなものであった。それは開閉式扉つきの小さな家のような形をしていて、開いた扉の奥に黒ずんだ香箱のようなものが据えられており、その手前に供え物らしい酒やら蜜柑やらが慎ましく置かれている。翼は戸惑い、祠の横に掲げられた古い木の立て札を見た。薄れた墨の字で、そこにはごく簡略にこう書いてあった。



 人魚の肉を持ち去るべからず

 祟りあり!!



 それではこの箱のなかに人魚の肉が?翼は新たな当惑を覚えて、香箱を見つめた。翼のなかで人魚といえば、あの絵本や映画で見る人魚姫のイメージだ。下半身こそ魚ではあるが上半身は美しい人間の乙女で、美しい歌声を持ち、長い髪をなびかせ、魚たちと戯れ合っている。幼いころは人魚になって自由に海を泳いでみたいと半ば本気で願っていたものだ。その人魚の肉というのは……翼は身震いする。翼にとって、それは人肉に等しいのだった。


「とある娘が人魚を憐れに思い、海へ逃がしてやったのだそうです。人魚はその礼として自らの肉を一切れ娘に与えて……」


 旭さまのお声がよみがえる。娘は肉を口にせず、この場所に祀ったということだろうか。以前に授業で習った竹取物語のお話のようだ。かぐや姫からもらった不死の薬を、帝も口にせずに燃やしてしまったという。


 翼はひとまず祠の前で手を合わせた。島の人たちは一体どんな人魚を想像しているのだろう。一体どんな人魚が明日の夜、この島を訪うのだろうと考えながら。今朝、岩場の上にいた翼が寄り来るものとして予覚したのも、この人魚なのであろうか。人魚は海神の国から近づきつつある……?


 旭さまに命じられたからにはせめてなにかしらの発見をしようかと、翼は神社を回ってみた。しかし、境内と呼ぶのも憚られるほどささやかな土地のうちに他に見るべきものはないように思われた。祠と立て札以外にはまことに何一つないのである。十五分ほど我慢して居座ってみたが、これ以上の収穫はないものと諦め、翼は帰り道を辿りはじめた。鬱蒼と茂る樹々の向こうに、翼は海鳴りを聴いた。


(一体なんであたしはここにいるんだろう……)


 翼はふと下る山路で足をとめた。


(あたしは何してるの?この三日間、お稽古もせず、旭さまに命令されることを、まったくわけがわかんないままやって、それも結局なんにもなってない……!あたしはなんのためにここに来たの?人魚を迎えにきたの?そうじゃないでしょう!これじゃあダメ!強くなれない、あたし……あたし、強くなるためにここに来たのに……!)


 琥珀にとどめをさせなかった夜のことを、翼はいまだに夢に見る。荒ぶる獣の巨躯の前に、足は地をまともに踏みかねていた。なによりも耐えがたいのは琥珀が去り、京姫が琥珀を仕留めたと知るまでのその間であった。誰も翼を責めなかった。むしろ茫然自失の翼を皆は慰めてくれた。ただひとり、柏木を除いては――柏木は決して何を言うでもなかったが冷ややかな沈黙のうちに、翼への軽蔑を示していたように思う。柏木の態度と、皆のやさしさと、そのどちらが翼にはより苦しかったであろうか。そして思い出すのはあの夜ばかりではない。もっと遠く、もっと残忍な夜の記憶が、今も翼を凍りつかせる。紅の月を背に負って青龍を見下ろしていた漆の冷笑――


(強くならなくちゃいけないんだ。強くならなくちゃ。強くならなかったらまた敗ける……大事なものを失ってしまう。前世みたいに)


 弱かったから失った。京姫も、四神の仲間たちも、母も、京も、主上おかみも。なによりも……



 桐蔭とういんの宮さま……



 葉叢はむらの裏で重なったおもかげに翼ははっと息を呑んだ。急いで幻影を振り払い、その場に立ち尽くしていると、戦慄が地より這いのぼってくるのを覚えた。冷たい血が巡っている。これまでもそうではないかと疑ってみたことはあったけれど、やはりそうなのだ。なんでもなかった時にわかったならば嬉しかったかもしれない。なぜよりによってこんな時に……!


(またあたしは失うかもしれない……!)


 翼は両手で顔を覆った。


(ううん、弱いままだったら、このままだったら絶対に失う。嫌……!強くならなくちゃ。早く、早く、早く……!)


 顔を覆った両手を払い、翼は山路を駆け下りはじめる。


(旭さまに言わなくちゃ。午後の便で帰りますって。ここにいてもあたし、何も学べないから……!ああ、わかった。おじいちゃんはきっと勘違いしたんだ。あたしが沈んでいるのを見て、こういう自然の豊かなところでゆっくりすればいいんだって。でもそうじゃないの、おじいちゃん。あたし、強くなりたいの……!みんなを守るために。そして今度こそ……)


 木漏れ日が瞼を刺したとき、翼は駆ける足を止めた。ただ狂おしいまでの焦燥に駆られて走っていたせいか、さほどの距離をおりてきたわけでもないのに息は荒かった。けれども翼は体の疲れに頓着する様子はない。さざめく日差しのなかで瞳をみひらいて、翼はそこになにを眺めていたのだろうか。

 

――朝日が斑を落としていた横顔、髪、制服の肩。後ろを歩いている翼にはその話し声は遠く、ただ楽しげな二人の笑い声が日の光とともにさざめいていた。楽しげな二人――恭弥と、美香と。



 日だまりのなかで翼はうなだれた。ダメだ、あたしはまだ桜花市には帰れない。現実に立ち向かうだけの勇気があたしにはない。もし今恭弥を失ったら(それはあたしの恐れている失い方とはまた違うけれど)、あたしは二度度立ち上がれなくなる。だって、だって……あたしはすごく弱いから。


 山のどこかでからすが鳴いている。そのさらに遠くで、寄せ来る波が唸っていた。







「えっ、翼、出かけちゃったんですか?」


 十二月三十日、午後。一緒に白崎邸で開かれる奈々の誕生日パーティの準備をしようと、青木家の玄関先に立った舞は、目をまん丸くして言った。


「いつ帰ってくるんですか?」

「それがはっきりしないのよね。ただ遊びにいったんじゃなくて、修行に行ったとかで」


 翼の母の返答に、「修行?!」とますます舞は目を丸くする。


「どこに行ったんですか?」

「えーっとね、なんだっけ……なんとか島。南の方の島だったと思うけど。おじいちゃんが連れてったから覚えてると思うけど。おじいちゃーん!!」


 と、翼の母はエプロンをかけた身をねじって、家のなかに向かって呼びかけた。元警察官だけあって威勢がいい。ほどなくして、廊下のむこうから着物姿の老人がとぼとぼと現れた。翼の祖父は以前にも会ったことがあるが、なんだか今日は以前より元気がない気がする。翼のことが気にかかってなければ、舞も心配したことだろう。


「ねっ、おじいちゃん、翼が行ってる島、どこだっけ?」


 「海原島だが」ともごもごと返事がある。


「あっ、海原島だ。知ってる、舞ちゃん?」

「い、いいえ……でも、なんでわざわざその島に?」

「なんだっけ?おじいちゃんの古い知り合いがいるんでしょ?剣道の?そうだよね、おじいちゃん?」

「う、うん……」

「そうなんですかー」

「昨日電話したときは元気そうだったわよ。しっかし、やーね、あいつも。舞ちゃんたちに黙っていくなんてさ。わざわざ来てくれたのにごめんね、舞ちゃん」


 帰り際、見送ってくれた翼の祖父の態度になにか違和感を覚えた気がしたけれども、舞は去った。時は金なり。師走とあっては、ことに誕生日パーティの当日とあってはなおさらだ。急いで白崎邸へと向かおう。飾りつけは舞と左大臣が担当することになっていたし、お料理も手伝わなければならないし。


「いやはや、翼殿は立派ですな」


 自転車にひょいと飛び乗った舞のリュックから顔を突き出して、左大臣がつぶやく。


「本当だね。すごいなぁ、修行だなんて。せっかくの冬休みなのに」

「姫さまにも少しは見習っていただきたいものですな」

「えー?!だ、だって、もうすぐお正月だよ?!お雑煮とかお節とか食べたいもん!」

「……姫さまの取り柄は食欲だけですかな」


(……がんばってね、翼!)


 遠い桜花市からはなにもしてあげられないけれど、気持ちだけを届けたい。薄氷のように透き通った日差しをきらきらと額に浴びて、舞は強くペダルを踏み込んだ。


 少女は知らない――舞を見送ったあと、しょぼしょぼと寝室に戻った翼の祖父が、大掃除中らしく八畳の和室いっぱいに散らばった段ボールの箱を紐解いては浮かない顔つきをしていることを。


「ちがう……これもちがう……」


 翼の祖父が段ボール箱から選りだしているのは古い写真帳である。それは幼少期、少年時代、青春時代、就職、結婚前後など、時代が時代だけに数は少ないながらに、翼の祖父の来し方を綴ったものなのである。だが、いくら頁を捲ってみてもやはり見当たらない。


(はて、どこで知り合ったのだ、あの女性ひとに)


 以前の切れを失い悄然としている孫の姿を見た時、ふっとあの女性の顔が浮かんだのだ。あの女性ならばなんとかしてくれるだろう、海原島へ行かなければ、ただそれだけが頭にあった。気がつけば、大事な翼をひとり残して東京へ戻ってきていた。だが、どこにも見当たらないのだ、旭なる女の姿は。どの写真にも。恐らくは写真には撮られなかった人生の片隅にさえも。


(ましてや海原島など今まで一度も訪ねたことがないというに、なぜあの時はまともに調べもせずに行き方がわかったのだろう。おかしい……まるであの島に、あの女性に、呼ばれていたようだ。無論、わしじゃない。翼がだ。ああ、なにかわしはとんでもないことをしでかしたんじゃないだろうか)


「まあおじいさん、何ぼんやりしてるんですかっ!私がこんなにせわしなくしているのに、まったくもう……!」


 大掃除のせいでいつになく気が立っている妻に叱られて、のろのろと写真帳を閉じて立ち上がる。一刻も早く島に翼を迎えにいかなければいけないのに、いざそれを妻に伝えようとすると舌がまわらなくなってくるのはなぜだろう。そのうちに、だんだんと頭のなかが痺れてきて、なにを心配していたのかさえもわからなくなってくるような気がしてきた。







 ……結局その日にしたことといえば、水汲みと、三度の食事の支度と、旭さまの邸の掃除ぐらいなものである。前日と何ら変わらない。唯一異なるのは人魚の神社を見にいくように言われたことぐらいであるが、それがなんであろう。ただちょっと散歩に出たのと一緒である。


 旭さま、あたしこのままでいいんでしょうか――こんな問いは何度も口から出かけたけれど、面と向き合うとなかなか容易に形にはならなかった。夕飯の準備のときもそうであった。


 この家での食事はたった二人で、囲炉裏のある古い畳の間でするのである。献立は毎食同じだった。翼が簡単に一品をつくり、旭さまがご飯とおみおつけを用意して、漬物壺から塩辛い胡瓜やら白菜やらを取りだしてくださる。旭さまは卵や肉は召しあがったが、魚は口にしなかった。だが、他人が魚を食すのを咎めるようなこともされなかった。


「私は人魚さまを祀る巫女ですから、魚は口にしません」


 三日目の夜にして、初めて旭さまは翼に打ち明けた。夕飯の支度のときである。驚きのあまり包丁が止まってしまった。


「旭さまが?」

「そうです。私の家は代々巫女の家系なのです」

「では、明日のお祭りも?」


 人魚を迎える八年に一度の明日の行事は、この島の人々にとっては厳かな神事であるとともに、楽しい祭りでもあるらしかった。今日の午後、旭さまとともに村に買い出しに行ったとき、村のあちらこちらに掲げられていた横断幕やらのぼりやらで、それがわかった。村の公民館では、主婦たちがにぎやかに語らいながら米と芋を煮て神酒みきを作っているのを見かけもした。


「えぇ、私が取り仕切ります。夜の御迎えの儀だけですが」

「すごい……!」


 と思わずつぶやいたあとで、翼は無礼だったかもしれないと、竈に屈みこんでいる旭さまからいそいで顔を背けて、大根を切り出した。しばらくはまな板に包丁の刃先があたる、過労やかな、心なごむ音が時を刻んでいた。日は暮れかけ、古い豆電球ひとつしか灯さぬ台所にはかまどの火がまばゆかった。


「神社には行きましたか」


 と、旭さまは翼に背を向けたまま尋ねられた。


「は、はい……」

「なにを見ました」

「なにをと言われても……その、鳥居と、祠と……」


 答え方が悪かったものか、旭さまは何もおっしゃらない。翼は困ってしまった。


「人魚の肉が祀られているようでした。その、箱に入ってて、見えませんでしたけど……」

「そうですか」

「あの、本当にあの中に入ってるんですか?人魚の肉……?」


 人魚を祀る巫女にこう尋ねたところで答えは自ずと知れているような気がしたけれど、翼はついそう訊いてしまった。背後で旭さまが立ち上がられる気配がした。


「……あなたならばどうしますか?」


 剃刀の刃を思わす、無駄のない旭さまのお言葉が、つかの間やさしくにごった気がした。翼は思わずそのお背中を振り仰いだ。


「えっ?」

「あなたならば人魚の肉を口にしますか?」


 伝説のことを言っているのだと、翼は心づいた。助けた礼に人魚の肉を渡されたとして、自分ならばそれを口にするかどうかと、旭さまは尋ねていらっしゃる……


 翼は首を振った。


「いいえ。あたしは永遠の命なんてほしくないですから」

「なぜです」

「だって……あたし一人で生きてたところで、さびしいですし。それに、家族や友達が先に死んでいくのを見るのは嫌です」

「家族や友人は新たに作れますよ」

「そうかもしれないけど。でも、あたしは、今の家族や友達がいちばん大事だから……」


 だって、ようやく巡り合えたのだもの、と翼は胸のなかでつぶやいた。つらい離別があった。悲しい終焉があった。でも、ようやくこうして巡り合えたのだ。だから、自分ひとりだけ生き延びるなんてあり得ない。大人になって、おばちゃんになって、おばあさんになる。その時までずっといっしょだ。


 と、その時、ちょうど今頃奈々の誕生日パーティーのために集まっている仲間のことが翼の頭に浮かんできた。きっと準備をしているのだろう。ああそうだ、舞と一緒に飾り付けをすることになっていたのに、それさえ忘れてきてしまった……あたし、何してるんだろう。いちばん大事といいながら、そのいちばん大事な人たちから離れて、たった一人でこんな島にいるなんて。あたしにとって本当に大事なものって、なんだったのだろう……?


「手が止まっていますよ、翼さん」


 旭さまの声で我に返る。けれども、胸に空いた穴に冷え冷えと染み入る喪失感は埋めようがなかった。ぱちぱちとはぜる竈の火の音も翼の心を到底あたため得ない。旭さまのお背中もまた、手を伸ばせば触れられるほど、縋れるほどに間近にあるというのに、さながら立像のように整然と屹立して、翼が求めている人のぬくもりには遠かった。さびしい島の、馴染みのない古い生活のなかにあって、まるでこの世界でたったひとりになってしまったかのように翼は感じていた。今宵はことさらにさびしい夜になりそうだった。







 それはかつては島の漁師たちが漁の道具をしまっておくのに使用していた倉であったのだが、漁をする者も年々減り、今ではいつ崩れてもおかしくないといったようすのこの木造の小屋に立ち入る島民はいない。島民の詮索好きは自分たちの知っているかぎりのこと、自分たちの生活の範囲内にとどまっているから、島の北端の浜辺に置き忘れられたようなこの小屋を、草木も眠る丑三つ時なぞに眺めている者もいなかった。もしそんなもの好きがいれば、この小屋から漏れる灯りに気づいたかもしれなかったが。


「ふんふんふふーん」


 島民の誰が想像するだろうか。小屋の内側に、宮殿の一室かと見紛うばかりの豪奢な一間が広がっているなどと。天井は実際の小屋の三倍ほども高く、天窓が取り付けられ、紺青の夜空に満天の星々と三日月とが回転している。床には豪奢な緋と金の絨毯が敷き詰められており、円形の壁に沿って並べられているのは見るだけでため息がでてしまいそうな調度品の数々。部屋の中央に置かれた寝台のまわりには帳がめぐらされ、寝台の傍らに立つ女の影が、帳の上にくっきりと濃く浮かび上がっている。すらりと伸びた脚、なにひとつ纏っていないように見えるほっそりとした胴、豊かな胸、長い髪、秀でた鼻と反り返った睫毛。影からして美しい妖しい女である。ただ、人間の女にはないものが見ゆる――頭から突き出た三角の耳がふたつ。


「ふっふーん。狭いところですけど、住めば都とはよく言ったものですねぇ」


 星たちのきらめきを受けて絹のようにきらめく褐色の肌、波打つ長い黒髪、裸身と見えたその身には白いレオタードを纏い、ひとつひとつの指を宝石で飾った素足で床を擦りつつ微笑んでいる。その女は華陽である。


「あたしの幻術とセンスを以ってすればこんなもんです!えへん!あとはもうちょっと、飾りを現地調達したかったんですけど、まっ、仕方ない。ここはしけたとこですもんね」


 赤瑪瑙あかめのうの瞳が見上げるのは、天窓を区切るように十字に渡された梁の中央部である。そこに飾られて柘榴のごとく集って実っているのは、よくよく見れば三人の島民の生首なのであった。


 華陽に微笑みがふいに歪んだ。


「あーつまんない!昔はもっと派手に人の腕でも足でも首でも斬り落としたりできたのに!」


 華陽は寝台に身を投げだして、しばし駄々っ子のように暴れまわっていたが、やがてぱっと起き上がると、ぐすん、と涙を拭きつつ、


「フン、いつか華陽ちゃん大帝国を築き上げたときには覚悟しててくださいよーだ、っと。まっ、泣いてても仕方ないですね。ちゃきちゃき仕事に入りますか。華陽ちゃん大帝国の設立が一日でも早まらんことを願いつつ。どれどれ……」


 華陽が腕を宙に伸べると、壁沿いに置かれていた書架よりひとりでに一冊の本が飛び出して、うるさいほど宝石に飾り立てられた華陽の手におさまった。華陽はまたもや仰向けに寝台の上に寝転んで、今度は爪先を天井に向けながら、本を紐解いた。


「むかーしむかし、ふかーい海の底に、うつくしい人魚のお姫さまがすんでいました。ある月の夜のことです。人魚姫が月の光を浴びながらうっとりと波間を漂っていると、一艘の船がこちらへ近づいてくるのが見え……って、これ、この島の伝説と違いますね?」


 気づいた華陽は朗読をやめて、ぱらぱらと絵本を放り出した。続いて本棚から飛び出してきたのは古い絵巻物である。華陽がうつぶせると、絵巻物はひとりでにくるくると広がっていく。粗末な絵の割に大きな黄ばんだ空白が川のように寝台を流れていった。


「……ふーん、人魚の肉を食べると永遠の若さと命を授かる、ですか。グロテスクですねぇ。魚も人間もたいして美味しくありませんしねぇ。あたしには別に必要ありませんけど、手土産に持ち帰るのも悪くないかもしれないですね。琥珀の回収に失敗した埋め合わせぐらいになってくれるといいんですけど。あの人、しばらくご機嫌ななめでしたからね。あー怖い怖い」


 華陽はぶるっと身を震わせると、早くも飽きたように絵巻を放り出して、絵本の方を再び取り上げた。


「こっちの方が絵はきれいですね。って、まあまあ、かわいそうなお姫さま。王子様にフラれて、海の泡になっちゃうなんて。まあ、本当に、かわいそう……」


 華陽の口の端が残酷に吊り上げる。


「どうですかぁ、翼さん?つらい恋をする貴女も、いっそ海の泡になってしまったら楽なんじゃないですか?」


 華陽が目を細めながら見上げる天窓に、もはや星影はない。そこには薄い布団にくるまって横たわり、不安げに暗闇に目を凝らしている翼の姿があった。華陽が眺めているうちに、翼は苦しそうに寝返りを打った。




 同じ頃、桜花市の自宅の寝室で、奈々がはっと目を覚ます。


「翼ちゃん……?!」



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