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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第五章 現世編
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第五十二話 大つごもり(上)


 鋏は重みのままに、白い指から逃れて土の上に落ちる……



「ほら、見て!すごいでしょう?!」


 そう言って彼女が示したものに、八重藤ははっと息を呑んだ。京を離れてから一度たりとも八重藤はそれを見たことがなかった。その花は天つ乙女が愛された花であるから、天満月媛さまを祀るこの月修院では植えてはならぬ決まりになっていたのだ。だが、月の女神の森にひっそりと佇んでいるだなんて。薄紅色の袖をひろげた女人のような桜の大樹…………



 …………その美しさは七度目に見るこの春もやはり変わらない。否、むしろいよいよ立ちまさり、いっそうの感動を誘うようにさえ思われるのだが、この年始に十六となった八重藤はだんだんとそこに恐ろしいものさえ感じるようになっていた。まるで罪のうちにこの上ない歓喜を見出すときのように、八重藤は桜の美を畏れ、うちふるえた。


 しかし、確かに桜は二人の罪の証であった――


 八重藤は夢のなかで、神代の清い乙女であった。桜のもとに憩っていた彼女がふと顔を上げたとき、女神が彼女に接吻をした。


 なおも唇に重みを感じたまま八重藤が薄く瞼を開くと、熱を帯びて潤んだ紫紺色の瞳があった。八重藤の全身もまた病毒のような気だるい熱に支配されていた。素肌を通る風の涼しさも乳房の上にきつく押しつぶされ、あるいはぬるんだ舌の上で湿ってしまう。これが罪、そして罰だ。ちぎれるほどに強く互いの手を結び合ったその果てに、どうしてもその先に行きつけぬほんのわずかな白い茫漠があることを知り、二人はふと離れ、藤尾の裸身は剥がれたように草の上に落ちて、八重藤の隣に横たわった。


「……眩しいわ」


 折しものどかな春の雲のを裂いて午後の日が差し込んできたところであった。八重藤は目を閉じて、瞼を透かして入る血潮のごときくれないの陽光を掌で覆い隠した。藤尾もそれにならったようだった。


「八重藤、どこ……?」


 草の上に投げ出した手が探り当てられて、そして固く握りしめられるようすだった。直後に風が二人の清い腹の上を吹き渡り、二人は深い息をついた。月修院の巫女の藤色のきぬと純潔の戒律とに幾重にも守られた乙女の肌は、いまや雲よりこぼれ流れ落ちる日差しを浴びて余すところなくきらめき、草の先にくすぐられてほのかに火照っている。ああ!なんたる無垢なる無恥が二人を充たしていたことだろう!まるで衣服というものを知らぬ時代の人々のように、二人は安らぎ、幸福であった。なぜなら、この日を幾年も前から二人は待ち望んできたからだ――恐らくは十四となった年の夏の夜、はだけた寝間着の内側をしとどに濡らす汗の玉から目が離せなくなってしまった、その瞬間から。


(……ああ、満月媛さま)


 指の隙間から陽光を仰ぎつつ、八重藤は祈った。恍惚の果てでさえ敬虔な彼女は決して祈りを忘れなかった。そして今、思いがけず与えられたこの上ない幸福を、けれども故のない幸福を支えるために、彼女はひたすらに祈っていた。


(わたくしは罪を犯している。今この瞬間罰せられてもかまいませぬ。たとえどんな辱めを受けようと、すべては報いなのだと受け止めましょう……ですが、どうか藤尾だけはお許しください。わたくしたちの罪、わたしひとりが全てをあがないますから。お忘れくださいますな。わたくしが、今以って満月媛を心からお慕い申し上げていることを)


 降ろした瞼の裏の暗闇にも、日輪は赤く幾重にも重なって滲み出る。すると、八重藤は新しい畏れの感情に慄いた。


(ああ、主上おかみよ……!お許しあそばせ。貴方さまがいらしているというのに、このように深く睦み合っているわたくしたちでございます。この不敬をお許しください。そしてどうか、罰するのならわたくしひとりを……藤尾だけは、どうか……)


 日輪にかれた瞳から涙がひとすじ流れ出した。隣に並ぶ人の安らかな寝息を耳にとめて、八重藤はその手をみずからのたなごころのうちに強く強く抱きしめた。まるで襲いくるものから庇おうとするかのように、強く。この春の午後の日、小鳥たちは喜びにあふれてさえずっていた。風が樹々を渡る音が触れるほど間近に聞こえてきた。そして隣の人の寝息――なぜ八重藤は聞き逃したのだろう。そっと歩み寄り、静かに立ち去っていった蹄の音を。天の下しろしめす畏き御方おおんかた、星の皇子の末裔たるお方の…………





「あら、藤尾。わたくしの髪飾りを知らなくて?」

「いいえ、知らないけれど。もしかしてなくしたの?」

「ごめんなさい。貴女からもらったものだから、大事に袖のうちにしまっておいたはずなのだけれど」

「いいの、気にしないで。今度また京で買ってきてあげる。もっときれいなのにしましょうか?もっと色鮮やかな」

「いいえ、わたくしはあれが気に入っていたのよ。本当にきれい。見つめていると心が澄むようだったのに……ごめんなさい、藤尾」

「いいの。八重藤のためならいくつでも買ってあげる……水晶の髪飾りなんて」











 鶏の声にはっと目を覚まし、慌てて飛び起きた。翼はいそいで身支度を済ませると潮騒とどろく暁闇に出でて、朝ごとの静かな歩みをはじめた。しかし、非情なほどに清冽な冷気に触れても翼の心はなお、夢の泥をかぶったままであった。


(嫌な夢……)


 足元を乱しては危ないのだから目の前のことに集中しようとしても、心は海の底に引きずり込まれていく……夢のなかで、翼は瓶のなかにいた。瓶には水が満たされていて、翼の身は半身半魚の人魚の姿であった。脚は鱗におおわれたゆたかな尾に変わり、上半身は衣一つ纏わず、ただこまやかな水泡みなわがいくつもいくつも皮膚の上に実を結んでいた。瓶のなかは窮屈で翼は身を翻すことさえできない。瓶を内側から幾度叩けどガラスは割れず、声をあげようにも口から出る言葉は、叫びは、ただあぶくに変わるだけであった。


 瓶の外の世界は、はじめは餡のようなぼやけた暗闇であったが、次第に分厚いガラスを透かして瓶のまわりを行き交う人影が現れはじめる――親しいものたちは、瓶などに、翼の存在などにまるで気がつかないようすで、遠くから照らし出されたように現れては闇のなかに消えていった。笑いあうその声だけがいつまでも響いていた。家族のも、クラスメイトのも、舞のも、ルカのも、玲子のも、奈々のも…………


(もう嫌、誰か……!)


 翼の心は、助けて、とそう言いかけたのかもしれなかった。だが、救いの手を求めることに慣れていない心がためらったその拍子に、なにかがどこからともなく転がってきて、瓶にぶつかった。そして、翼がその正体を見定めているうちに、恭弥が現れたのだ。桜花中学のユニフォームを身に着けて、ボールを追いかけてやってくる恭弥の姿が。水に揺蕩う翼の尾鰭の先に転がっているのはサッカーボールであった。


 恭弥の顔を認めたその瞬間、翼は声ならぬ叫びでその名を呼んだ。恭弥になら聞こえるかもしれない。胸に沸いた悲痛な望みにかけて、翼は生まれて初めて、彼にすなおに想いを打ち明けようとしていた――お願い、助けて恭弥。あたしをここから出して。あたしに気づいて……!


 こちらを見つめた恭弥の瞳が、一瞬強く燃え立った気がした。だが、恭弥は輝きをそのままに背後の闇へと向けた。翼の目にはまだ捉えられぬなにかに、恭弥はいち早く気づいたらしい。失望する翼の瞳にそのなにかは、その少女ひとは深々と影を投げかける。


 お揃いの桜花中学サッカー部のユニフォームをまとって、佐久間美香は明るく駆けてきて恭弥の隣に並んだ。微笑み合う二人を正視することはとてもできなくて、翼はさっと顔をそむけた。心臓が早鐘のように鳴っている。内側からこの身を叩き壊そうとするように。頭のなかで壊れた機械のようなノイズが響いている。ああ、なんてやかましい笑い声なの。ここは静かな海の底のはずなのに……そこで翼ははっとする。あたしはなにを考えているのだろう。


 瓶の外に転がっているサッカーボール。触れられるはずもないのに手を伸ばしたその時、翼は指先から切ない海の泡となって消えていった。まるで、より集って翼の身体を成していたものが、翼の魂を見放していくように。嫌、嫌、嫌……!お願い、気づいて、こっちを見て、助けてよ恭弥……!ねぇ、助けてよ、誰か……!この叫びはどこにも届かない。無数の真珠の泡となって、翼は海の底へと溶けていく。滲み出て水のなかにふわりと浮かび上がる涙の泡のむこうに唇を重ねる二人の姿が見えた気がした。そして、その涙こそが翼の最後の一粒となった。


 ああ、かわいそうな人魚姫


 恋はかなわず海の泡


 その身は溶けて、


 その苦しみは、海の底までひろがって……



 ……水底――――



『青木さんが羨ましい……』


 翼は海鳴りのなかで足を止めた。


『青木さんはこれまでもずっと東野の隣にいて、これからもずっと東野の隣にいられる。だって幼馴染だから……』


(そんなことない……っ!)


 湖のほとりで聴いた少女の声に、断崖の半ばで翼は憤りと悲しみを以って叫んでいた。


(あたしだって、きっと恭弥に置いてかれる。もし恭弥が佐久間さんを選んだら……ううん、きっと恭弥は佐久間さんを選ぶよね。だって、あんなに楽しそうに二人で笑って……)


『青木さんなんて消えちゃえばいいのに……!』


(そうだよ、あたしなんて…………)


 大波の岩に砕けるその振動が、翼を目覚めさせた。翼はその振動を右足の裏に感じていた。左足の裏はくうを踏んでいた。そのまま垂直に鉛色の海に続く空へと。


 翼は蒼ざめて左足を引き戻すと、岩の壁にもたれかかった。息が知らぬ間に乱れていた。これまでも戦いでなんども危ない目に遭ったことはある。けれども、こんな風に、日常の合間に命を絡めとられそうになったことはなかった。そしてこうした壮大な自然を前にしては、青龍としての能力はほとんど役に立たないも同然なのだ。灰色の空を背に青龍の鈴をかかげてみて、翼はじっとそこに目を寄せた。玉藻の国の神。東の守護神。水を司る聖なる龍――滅びた国の神は、青木翼を取り囲んでいる現実世界では、なんの権威も持たない……ああ、なんてあたしは弱いのだろう。




 ……さらに不快な出来事が翼を訪った。それは朝の炊事をしているときに起こった。ひとり立ち働いていた翼は、なにやら門のあたりでがやがやと騒いでいるような気配を察して厨の勝手口からそっと覗いてみると、まさしく門前に大勢の人が押し寄せて、旭さまになにか訴えかけている気配であった。旭さまの横顔は相変わらず落ち着き払っていたが、島民らしい人々は表情といい身振りといい声音といい、あきらかに憤り、興奮していた。島民たちの先頭に立っているのは、背が低く痩せた白髪の老爺で、よく日焼けした掌に載せたなにかを必死に旭さまに示しているようであった。しかし、一体どうしたというのだろう。これまで会った島民たちは(さほどいないとはいえ)皆、旭さまのことを心から尊敬し、話題にのぼせることさえ憚っているようであったのに、人々がこれほど旭さまに怒るとは。


「……あんたはそういってあの娘っ子庇うがな」


 老爺のわめき声が聞こえてきた。


「なにもかもあの娘っ子が来てからじゃ!昨日あの娘っ子が神社のまわりをふらつきまわっとるのを見たもんもおる」


 あの娘っ子……?


「その程度のことでは証拠にはなりません」

「じゃが、あの娘っ子以外に誰がするんじゃあ?……のう、旭さま。よう考えてみい。わしら島のもんはこんなことせん。しようったってできっこねぇ。この島のもんには島の血が流れとる。わしらのじいさんも、そのまたじいさんも、ずっと人魚さま拝んできたんじゃのに……わしゃご先祖さまに申し訳ない。わしらが守らなきゃいけなかったんじゃあ。そんなのに、のう……」


 いつしか老人の声はすすり泣きに変わっていた。つられて老人の後ろに集う人々もしくしくと鼻をすすったり、肩を震わせたりしはじめる。翼はもういても立ってもたまらなくなった。踏み出した一歩から、翼は駆けはじめた。この頃には、もう「あの娘っ子」なるものが他ならぬ自分であることに翼は気づいていたのだ。自分に何かしらの嫌疑がかけられている。それも、人魚の神社に関することで。


「一体なにがあったんですか?」


 翼の声に驚いて、島民たちは一斉に顔を上げた。旭さまもまた翼の登場は予想外であったようだった。島民たちの素朴な丸い目が、たちまち敵意の目つきに変わるのを見て取ったからか、旭さまは静かな声で翼を制した。しかし、翼はやめなかった。震える声で必死に尋ねた。


「一体なにがあったんですか?あ、あたしが……あたしが一体なにを…………」

「しらばっくれるか、おのれ!」


 老爺は両腕を振り回さんばかりにして再びわめき出した。


「おめえがなにしたか、お前がいちばんよーくわかっとるじゃろが!!」

「神社が荒らされたのです」


 旭さまがそっけなく言った。


「祀られていたはずの人魚の肉も盗まれてしまいました」

「そんな……!」

「見やがれ、これを!!」


 老人は涙と唾を飛ばして怒鳴りながら、唖然とする翼の前に空の香箱を突き出した。確かに神社に祀られていたものだ。


「この箱が何メートルも飛ばされて転がっとった!おめえみたいな不信心者にはいーまに祟りが下る!人魚さまの肉盗んで何しやがるんじゃ?!今すぐ返せ!!」

「ですから翼は犯人ではないと言っているでしょう」


 旭さまはそれ以上老爺が翼に迫らないようにと、僧服の袖をかかげて帳のように二人の間を仕切られた。


井頭いがしら、この子の潔白は私が保証します。それでもこの子を疑いますか?」

「あんたんことは信用しとる。じゃが……じゃが、いくらなんでもおかしなことが多すぎるんじゃ、ここんとこ」


 井頭と呼ばれた老爺の言葉を受けて、そうだそうだと島民たちがざわめきだす。


「一昨日から三人も行方がわからん。今朝また一人見えなくなったそうじゃ。この娘っ子が来てからじゃ」

「その話は知っています。ですが、この子はずっと私と一緒にいるのですよ。そもそもこんな幼い娘が大人四人に何ができるというのです」


 もっともな指摘を受けても、井頭は長く伸びた白い眉の下から疑い深く翼を睨みつけた。


「ともかくこの娘っ子はおかしい」

「勝手にお言いなさい。神社のことは心配しなくても、人魚さまは今宵やって来られますよ。祭りはいつも通りに行います。よいですね?」


 島民たちが納得したようには見えなかったが、ともかく旭さまのお言葉を受けて、島民たちはくるりと背を返して元来た道を引き返しはじめた。井頭は最後まで執念深く翼を睨んでいたが、旭さまと目が合うと、ぶつぶつとなにか言いながら香箱を預けてその場を去った。


 翼は旭さまとともに、家の前の急な坂を島民たちが下っていくのを見送っていた。そして島民の背中が坂に覆われて見えなくなると、急にわっと声を上げてその場にくずれ落ちた。


「翼、中へ入りましょう。ここは人目があります」


 旭さまはいつも通り厳しい声でそう言うと、屈みこむ翼の背中を置き去りにして一足先に家のなかへと戻ってしまった。




「もう帰りますっ……!」


 先ほどから畳の上に伏して一つ事を繰り返し続ける翼を、旭さまは静かなまなざしを注いでいらっしゃる。そのみ手には水泡を思わせる瑠璃色の数珠がやはりかけられていた。


「もういや!桜花市に帰るっ!!もう耐えられない……!こんなところに、たったひとりで……っ!」

「ひとりでいるよりは、弱い自分のままでいる方がよいというのですか」


 旭さまはそう尋ねられた。


「弱いまま帰れば貴女は失うかもしれないのですよ、大切な人たちを……」

「なら、あたしに何を教えてくれたっていうんですかっ?!」


 畳の上に拳を叩きつけて、翼は怒鳴る。もはや礼儀さえも忘れていた。無理もない話である。十四歳の少女にとって、見ず知らずの他人から突如として故なき憎悪を向けられるということは、疑いのまなざしを向けられるということは、あまりにも辛いできごとであった。ここには庇ってくれる知り合いもいないとあってはなおさらである。翼は鼻をすすってさらに続けた。


「なら、あたしに何を教えてくれるんですかっ?!ここに来てから、あたしはなにひとつ学んでません!ここにいたって強くなれるわけがない……っ!」


 旭さまは押し黙った。決して図星を突かれたための沈黙ではないことは、動揺している翼にもよくわかっていたが、旭さまが言葉を返すことをまるきり諦めてしまったように思われて見放されたような悲しさを覚えた。かといって、翼は自らの言葉を撤回しようとはしなかった。それほどまでに、翼は縋りたかった。救われたかった。


 差し入る昼間の弱い日は障子紙を透かしても、震える翼の膝までは届かなかった。旭さまは翼からお目を転じて、その日の差し込む方を遠く見定めるようにされていた。


「……今日は大晦日おおつごもりです」


 旭さまのみのうちで数珠がかすかに鳴った。


「今日は午後の船はありません。堪忍なさい、翼さん」

「……っ!」


 翼の嗚咽が再びあふれだして、畳の上の僧衣の裾を浸していく。それでも老尼は身じろぎひとつするでもなく、ただ静かに掌を合わせ続けていた。






海原島行きフェリー時刻表

乙姫市つばいち港 9:00発→椨木島→海原島 10:45着






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