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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第五章 現世編
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第五十二話 大つごもり(下)


「ごめんなさい」


 誰……?


「私の目論見もくろみが外れたのです。わたくしが呼んだばかりに、貴女を無用に傷つけてしまいました」


 誰かがあたしの頭を撫でている。すごくさびしくて悲しいはずなのに、なんだかほっとする。


「かくなる上はわたくし一人で守らなくては……」


 どこへ行くの?……待って。行かないで、お願い――


 


 目を覚ました翼の背は、畳を刺す斜陽の鮮烈な色に染められていた。泣き疲れて眠ってしまったと見える。だが、それにしても長く眠っていたようだが……


 熱く、気だるい眠りからゆるゆると身を起こすと、肩にかけられた毛布がはらりと落ちた旭さまはいない。ただ、旭さまが座っていたその奥の、斜陽さえも行きつけぬ暗がりに、線香の煙がほのかに立ちのぼっている。そして、旭さまが座っていたところの少し手前に、紫色の布をかけられたなにかと、一筆箋。


 今夜私は帰りません。きちんと食べて休むこと。明日の朝の便で帰る支度をしておいてください。今夜はくれぐれも外に出てはなりません。よいお年を――翼がいざって手にした一筆箋には墨の字でさらさらとしたためめられていた。読み終えた翼が紫色の布をとりはずしてみると、そこには決して慎ましいとはいいがたい大きさのおにぎりが二つ並んでいた。


 翼は急に空腹を覚えた。そういえば、朝からなにも口にしていなかった。なんとなくいつも旭さまと差し向かいになっている場所で食事をすることはためらわれて、いつもの囲炉裏端におにぎりを運ぼうとしてみたけれど、それもなんだかさみしいように思われて、翼はその場で手を合わせた。少なくとも線香の煙と差し向かいになっていれば、旭さまと向き合っているような気にはなれる。


 旭さま――


 どこへ行ってしまわれたのだろう、とまで考えて、翼は気づいた。今日は八年に一度の人魚を迎える日だ。だから旭さまは儀式のために出ていってしまわれたのだ。


 梅干しのおにぎりの最後の一口を呑み込みながら、翼は袴の上でぎゅっと握りしめた。冷えた米が喉を降りていく感触が、翼にかすかな身震いをさせる。旭さまは今夜は外へ出てはならないと書き残していた。だが、その時、翼の瞳の端が、今年最後の夕焼けを捉えた。


「……ごちそうさまでした」


 翼は掌を合わせる。まだおにぎりはひとつ残っている。でも、これをいただくのは帰ってきてからだ。人魚の神社へと行って、きちんとこの目で何があったかを確かめてから……



 風が片鰭岳かたひれだけの樹々の葉を騒がせている。まさに今その表面から太陽の温もりが奪い去られようとしている固い土の上を、翼は駆けていた。家を出たとき、町の方から太鼓のような音が聞こえてきた気がするが、島の人々は町の方にいるのだろうか。神社の近くには人気がないとよいのだが、もしかしたら儀式というのは神社で行われるのかもしれない。とにかく、急いだほうがいい。


 夜気は冷たく肺を切りつけ、夕闇の色をにじませる。黒い木立のなかでは手を伸ばした先さえ見透かすことが難しい。踏みつける小枝のはぜるような音、蹴り飛ばした小石の転がっていく音が妙に耳元近くに聞こえてくる。けれども、翼は少しも怖じずに山の斜面を駆けのぼり続けた。


 山頂に着いたとき、翼はまさしく今年最後の陽光が水平線の向こうに沈むのを目撃した。かがやく銅の鏡のかけらが、すさまじい呻りを立てる広大な鈍色の幕の向こうに落ち、その一瞬、幕の端は燻りはじめてそこから燃え立つかと思われたが、そのかすかな火も呻りに押し込まれて掻き消えてしまった。あとには淡い雲の腹に留まる残照と、さらにその彼方、鈍色の海と対を成す紺青の海、そしてそこに強く苦しげにきらめく星々の光があった。それは、山の上にたったひとり立ち尽くす少女を狂わせんばかりの光景であった。


 だが、翼は日没を見届けると、息を整える間もなく再び走り出した。宵の底でひっそりと何かを縫い上げているように湧き出ている清水のかたわらを抜け、鳥居を抜け、ただ星の光だけを頼りに、翼は祠の前に立った。


 翼ははっと息を呑んだ。闇に慣れてきた目が、こぼたれた祠の惨状を映し出したのである。扉は引きちぎられ、屋根は崩れ、その周囲に残骸とおぼしき石の破片が転がっていた。ただのいたずらにしてもひどすぎる。島民たちの言うことは最もだ。こんなひどいことをこの島の人たちができるとは思えない。翼にだってできないことを、島民たちが理解してくれればいいのだが。


(待って、この光景、どこかで見たような……)


 翼は片手をこめかみにあてて考えた。前世の記憶?ううん、違う。もっと近い記憶で……そうだ、花魁井戸。ううん、正しくはそうじゃなくて、螺鈿らでんのお墓だ。螺鈿のお墓もこんな風に壊されてたしか骨壺が盗まれていた。あれは漆の仕業じゃなかったっけ?それで芙蓉は螺鈿をよみがえらせて…………


 その時、遠からぬ人の気配に、翼は我にかえる。いけない、島の人たちがやってきたのだ。ここにいれば、またなにか悪事をたくらんでいることかと疑われるかもしれない。旭さまはきっとこのために外出を禁じたのだ。この神聖な迎えの夜に、厄介ごとが持ち上がらぬように。面倒ごとに翼が巻き込まれないように。


 先導の鈴の音が弾ける。参道を引き返そうにも人々は鳥居をくぐってこちらへやってくるようだった。翼はあたりを見回して、どこか身を潜める場所はないかと探した。人魚の神社を囲む森のなかならばいくらでも身は隠せるが、こんな暗いなかで森のなかをさまよっては迷子になるのは確実だ。うっかり足を滑らせでもしたらそれこそ一大事だ。大けがをするよりは島民たちの疑いの目を向けられる方がまだましなのかもしれない。


(でも……)


 「しらばっくれるか、おのれ!」――井頭と呼ばれていたあの老人の声が頭のなかに甦る。その瞬間、翼は冷たい手が心臓をわしづかみにされたような気がした。耳の奥で砂が流れるような音がする。いやだ、やっぱり会いたくない……!





 ……追われた小鹿のように森のなかへ駆けこんだ翼は、神社を守る森がそのままに、毎朝のぼってくる崖の足場に続いていることを知ったのだった。海の果てにはくらげのようにまだおぼろに光が残っていた。しかし、それは狭すぎる足場を照らすには弱々しすぎた。翼はぴたりと岩壁にしがみついてしゃがみこみ、震える足を闇に伸べて、次の足場を探った。


 陽光に見捨てられた世界はまるで均衡というものまで失ってしまったようだった。嵐でもないというのに、海風は耳をふさぎたくなるような轟音を立てて吹き荒れ、翼の足元をさらおうとする。進むことは難しく、かといって戻ることも不可能であり、留まっていては凍死してしまう。


 風の音の隙間に、歯と歯が触れて鳴るカチカチという音と、海の声が聞こえてくる。一体いまどれほどの高さにいるのかもわからない。あとどれぐらいで降りきれるのだろうか。もう何時間もこうしてここにいる気がするが、空のなずみ具合からみると、まだ何分と過ぎていないのだろう。翼はこの時、旭さまの言いつけに背いたことを強く後悔していた。


(でも、なんとかして、降りなくちゃ……っ!)


 少しずつ下駄の底ですさっているその間だけは、風の音が途絶えている。ハッ、ハッ、と短く吐く呼吸の音が迫ってくるために。めいっぱい伸ばした爪先が空に伸べられた。翼は慎重に袴の膝で石の表面を擦りながら進んで、右足をひとつ下の段へと落とした。


 途端に呼吸を塞ぐような風が吹き寄せてくる。翼はその瞬間、視覚も聴覚も全身の感覚をも失った。もう身の前後左右もわからない。意識さえも手放してしまいそうだ。海原島は今、持ちうるだけの凶暴さを以って翼に襲いかかっていた。


『おめえみたいな不信心者にはいーまに祟りが下る!』


 井頭の言葉がふいに思い出された。これは祟りなのだろうか。翼はなにもしていないけれど、人魚もまた、島民たちと同じで、余所者の翼を疑っているのだろうか。


『ひとりでいるよりは、弱い自分のままでいる方がよいというのですか』


 旭さま、あたしは……あたしはそうだと思います。弱いままでもいい。今この時、桜花市にいたかった。こんな風にひとりぼっちではなくて。こんなに寒くもなくて。みんなと一緒に笑っていたかった。


『かくなる上はわたくし一人で守らなくては……』


 一体なにを守るというの?たったひとりでなにを守れるというの……?




 ……寒い………………




「翼」


 誰かの呼び声に、暗闇のなかで顔を上げる。すさまじい風がいつの間にか凪いでいる。


「おい、翼」


 そんなはずあり得ないと思いながら、翼は立ち上がる。この声には抗いがたい。


「恭弥……?」

「お前なあ、そんなところでなにしてんだよ」


 ぎゅっと胸元で震える手を握りしめる。いつのまにか恭弥が目の前に立っている。あの人懐っこい、いたずらっぽい笑顔に、かぎりない優しさを滲ませて。


「うそ、なんでここに……」

「はあ?お前が呼んでたからだろ?」

「あたしが……?」


 あたしが呼んでたの?あたしが呼ぶ声が聞こえたの、恭弥?


 ……あたしが呼んだら、来てくれるの?


「ほら、とにかく帰るぞ」


 差し伸べられる掌に震える手を押し当てると、震える手は求めていた温もりで包まれた。手をつなぐのなんて、何年ぶりだろう。なんだか気恥ずかしいけれど。思わず赤らんだ顔をうつむけると、恭弥が笑った。すると、ついいつもの癖が出てしまう。


「ちょっ、ちょっと、なに笑ってんのよ……!」

「照れんなよ、ばーか」

「て、照れてなんか……!」


 額を指で弾かれる。突っかかる翼を笑い飛ばして、ほら帰るぞ、と恭弥が手を引く。こんな日を翼はずっと待っていたような気がしてならなかった。


 一歩踏み出した足。それは桜花市へと帰る一歩。恭弥のそばへと歩む一歩――唸る虚空を踏んだ一歩。


「……!」


 耳元で風を切る音がしたその瞬間、咄嗟に伸ばした右手が石段の端を掴んだ。翼の両足は今、轟く海のはるか上で揺れている。さっきまで立っていた場所は、いまや翼の頭よりも上にあった。


 一体なにが起こったのかはわからないながらに明瞭だ。翼は足を踏み外して落ちた。だが、それまで見ていた光景ははたして何であったのだろうか。


「あっれぇー?まだそこにいるんですかぁ?」


 聞き覚えのない若い女の声が頭上から降ってきた。翼はほとんど本能的に、その声の持ち主が邪なる者であることを知った。だが、「誰っ?!」と怒鳴って見上げても、邪な女の姿は見えない。だが、女はまちがいなく近くにいた。


「誰とはずいぶん不躾ですねぇ。人に名前を聞くときは自分から名乗るものですよ。まっ、あたしの方ではあなたのことたっくさん知ってますから別にいいですけど……初めまして、青木翼さん!そしてまもなくさようならですね。あとどれぐらい持ちます?」

「あんたは……!」


 いつか舞が言っていた。琥珀から結城司の子犬を取り戻すために北山に入ったときのこと、舞がまったく原因は不能なままに戦闘不能状態になってしまったときのことだ。舞は自分を襲ったのは若い女であったと言っていた。意識を失うその刹那、舞の目に褐色の素足が映り込んだのだ。舞はこんなことも言っていた。女の声といい話し方といい不気味なほどに朗らかで、軽薄であったと。まるで命の重みなど知らないかのように。玲子もまた、篠川での琥珀戦で女の声を聞いたと報告していた――今聞こえてくる声の主はまさしくその女であるらしい。


「あら、もしかしてあたしのこと知ってます?そうですねぇ、ここまでひとりで頑張った翼ちゃんには、あたしの美貌を見せてあげてもいいかもしれませんねぇ」


 と言って、つい先ほどまで翼が立っていた石段の上から翼を見下ろした女は、確かに美貌と称するに恥じない面立ちであった。なめらかな褐色の肌に、流星のごとく濃く尾を引いた眉、細面にかかる波打つ漆黒の髪と、瑪瑙のごとく赤い瞳。そのいずれもが美しく、また獣のにおいを漂わせている。


「こんばんは、華陽といいます。理由わけあって漆さまのお手伝いをすることになりました。というわけで、翼ちゃん、あなたには微塵も恨みはないわけなんですけど……」


 吹きつける風にも華陽の髪は少しも乱されない。ただ、屈みこんだ姿勢からゆっくり起き上がる動作のために波打つ黒髪が揺れて、瑪瑙の瞳は獣欲に滾ったままに遠のいていく。と、翼は崖の端をつかんでいる右指の上に、泥のようにやわらかな重みを覚えた。が、すぐさまそれは苛烈な痛みとなって、翼の細い指を圧した。


「……っ!」

「恨みはないんですけど、ほんっとに恨みはないんですけど、でもやっぱり邪魔なんですよねぇ、あなたたちは。いろいろ考えてはみたんですよ?あなたたちを生かしておいた方法がいいのかもしれないって思ってたときもありますし。でも、あなたたちはねぇ、危険すぎます。だから死んでもらうことにしました。悪く思わないでくださいね?」


(ダメッ!手を離さないで、あたし……!)


 震えはじめる右手に渾身の力を込めて、翼は歯を食いしばっていた。


(なんとかしなくちゃ……ここでは誰も助けてくれないんだから、自分の手でなんとかしなくちゃ……っ!)


 自分の手――踏み躙られている右手で?宙をさまようしかない左手で?一体どうすればいいというの?



 ああ、一体なんであたしはここに…………



 滲みだした涙で視界がぼやけてくる。翼を見下している妖しい女の顔がうつろい、見知った顔に変わっていく。あたしをこから蹴落とそうとしている、ひとりの少女。


 少女がふっと笑う。


「青木さんなんてだいきらい。青木さんなんて消えちゃえばいいのに……ねっ、東野?」


 見開かれる瞳に涙の幕が薄くなっても、幻は掻き消えない。美香の肩に手をまわして立っているのは確かに恭弥だ。先ほどまで翼に手を差し伸べていてくれたはずの恭弥が、今や翼を冷ややかに見下ろして、並び合う美香と目が合うなりその唇にキスをした。


 耐え切れずに目を閉じた瞬間に、熱いものが頬を伝いかけた。しかし、涙は風にさらわれて轟く虚空へと消えていく。そして翼の右手もまた……


「……ッ!」


 月を背負って二人が嗤っていた。すでに手の届かなくなかった場所で。この身ひとりは闇に堕ちゆく。




「バイバーイ、翼ちゃん」



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