第五十三話 人魚の夜(上)
これが幸せってことなのかな、と思う。ソファの上に寝転がって、年末の特別番組を見るというでもなく眺めながら、大みそか恒例メニューのすき焼きで満腹になった胃を休めている時。父も母もほどよく酔い、姉は年末年始を利用して京野家に泊まりにきた香苗と楽しげに語らっている(香苗は両親が仕事で出かけてしまうというので、京野家に遊びにきたのだ)。部屋は明るく、温かく、あとはただ過ぎ去る時を名残惜しみつつも心地よく見送るだけ。指と指のすきまをやわらかな砂がこぼれおちていく優しく切ない感覚だ。背もたれが目隠しになっていることをよいことにして、左大臣までもがソファの上でうつらうつらしている。
誰の目を憚ったわけでもないが、舞は手にしている携帯電話の画面をそっと盗み見た。まだ返信は来ない。夕食前に送ったのだから、そろそろ返事があってもよいころなのに……それとも結城君も今日はお母さんとのんびりしているのかな。だったら邪魔しちゃいけなかったかな。でも、年越しの前にもう一回声を聴きたいし、できれば年明けの一番初めにも――こんなことは贅沢すぎるかな。
その次の瞬間、舞がはっと飛び起きたのは、携帯電話の着信音のためではなかった。左大臣がうたた寝から目を覚まして小声でどうかしたかと尋ねたが、舞は黙ったまま左大臣を引っ掴むとそのまま階段をのぼっていった。が、機嫌のよい京野家のひとびともその客人も、末娘の異変には誰一人として気がつかなかった。
「どうかいたしましたか、姫さま?」
階段の半ばで左大臣が不審げに訊くと、舞はその場に立ち止まり、携帯電話を握りしめた手で胸元をおさえながら首を振った。
「わからない……なんだか急に、胸のあたりがぞわってして。なんだか嫌な予感がする」
「もしや敵襲ですかな」
居ずまいを正す(引っ掴まれたなりに)左大臣に、舞は再び首を振った。
「ううん。そうじゃないと思う。なんとなくそう思うだけなんだけど。そうじゃなくて……なんだろう。すごく大切なひとに危険が迫ってる、みたいな。ものすごい遠くで、誰かが助けを求めてるみたいな。そんな気がして…………」
はつはつと爆ぜる薪の音が、湧き出づる清水の音を掻き消している。だが、炎の色は流れ出る夜そのもののような水の在り処を照らし出す。じっと見つめている者たちの目には、炎もその熱も、清水より放たれているように見えてくる。
――片鰭岳の山上に、いまや島民のほとんどがより集っていた。先ほどまではお重の中身などを振舞いつつ鷹揚に語り合っていた島民たちが真摯なまなざしを向けているその先に、旭さまのお背中がある。旭さまは湧き出る清水のかたわらに正座をして、瑠璃色の数珠をかけた両掌を合わせ、オモリと呼ばれる古い呪詞を、巫女の一族にだけ伝わるという人魚を迎えるための祝詞を、低い声で唱えていらっしゃる。この八年に一度の祭りの儀式らしい儀式はこの迎えの儀よりはじまって、この後に巫女と島の女たちだけが浜辺へ下り(この夜、浜は男子禁制の場である)、さらに巫女ひとりが代々口伝で受け継がれているという人魚の寄り来る場所へと向かうのだ。巫女と人魚とはそこで一晩睦事を交わす。そしてまた次の逢瀬の時までの島の平和と繁栄が約束されるという。
戦前この海原島に降り立ったとある民俗学者によれば、オモリの語源は思いであるという。その詞章はもはや東京方言をも自在に操る島民には耳慣れぬものになってしまった。だが、確かにそれは思いなのであった。人魚を恋い、懐かしみ、再会を喜ぶ思い。一言たりとも嘘偽りであってはならぬ思い。決して途切れることがあってはならぬ思い。
空の上を吹き渡る風が雲を払い、三日月が顔をのぞかせた拍子に、その思いがふいに途切れた。旭さまのお声にうっとりと酔っていた島民たちは、馴染みなき沈黙が鼓膜を痺れさせていることを知ると、ある者はけげんそうに、ある者は青ざめて顔を上げた。皆が一様に旭さまを見た。驚いたことに、旭さまはゆっくりと立ち上がっていらっしゃった。六十年近くにわたってこの儀式に立ち会ってきた井頭の目にも、こんなことは初めてのことである。巫女がオモリを中断して、席を立つだなんて。しかし、咎めることもできかねた。井頭はあまりにもこの夜を重んじていたから。
「……動いてはなりません」
旭さまが口を開いてもなお、誰ひとりとして身じろぎひとつするでもなかった。島民の顔は一様に緋色の炎に照らし出されているだけだ。
「危険が迫っています。けれど、誰一人としてこの場を動いてはなりません。よいですね?」
旭さまの鋭い一瞥を受けて、戸惑ったように顔を見合わせる者たちが幾人か。しかし、多くの者たちはやはりなおも夢見たように呆然として声も立てられないままである。
と、三日月から哄笑が降ってきて、人々は皆いっせいに腰を浮かせ、あたりを見回し始めた。旭さまひとりだけが眉をひそめた。不意に燃え盛る炎が掻き消えた。闇のなかにどよめきが広がった。
「静かに」
「さっすがですねぇ。まあ、だてに長生きしてるわけじゃないですよね、おばあちゃん?」
皆がいっせいに振り返った。人魚の神社の鳥居を潜り抜けて、暗い森のなかから月影の下へと姿を現したのは、異邦の女の姿であった。褐色の肌に纏うのは古の人々ならば天竺風とでも呼んだであろう鮮やかな緋色の衣装と、見た目にも重苦しいほどのきらびやかな宝飾品である。そして、女は異邦であると同時に異形でもあった――黒髪の流れ出すところから突き出ている三角形の白い耳と、裳の後ろからのぞいている尾とが、その証である。
女は、島民たちの頭越しに旭さまに不敵な笑みを投げかけたまま、素足でゆっくりと島民たちの方へと歩み寄っていったが、数メートルほどの距離を置いて立ち止まった。 旭さまはいつになく険しい顔で、異形の女と、華陽と、対峙なされた。
「神聖なる儀式を妨げ、島の平和を蹂躙せんと企む者よ……お前の狙いは何だ?」
「狙いですって?シンセーなる儀式を妨げ、島の平和をジューリンすることですよ。それ以外になにがあるというんです?」
華陽は美しい指から大きなエメラルドのついた指輪をひとつはずして掌でもてあそびつつ答える。
「それをなに故にと問うておる」
「なに故、なに故ですか。はぁ……これだから人間っていうのは。したいから、それだけですよ。欲望と感情があたしのコードウゲンリなんですもの。ねぇ、皆さん?あなた方だって美しい宝石は欲しいでしょう?美しい女を抱きたいでしょう?美酒に溺れていたいでしょう?それとおんなじ」
華陽が島民たちの方へわずかに歩み出すのを、旭さまは見逃さなかった。
「これ以上近づくでない」
「あら、怖い顔。でもだいじょぶでしょう?ちゃあんと結界を張っているから」
旭さまは黙って目を細めた。
「オモリを唱えるふりをして途中から結界を張っていましたね?ちゃーんと聞いてましたよ。まったく。民思いの優しい巫女さま。でも、それで人魚さまが来られなくなったらどうするんです?」
「……お前はこの島の者に指一本触れられません」
今までとは違う強いなにかが、感情を押し殺した声から滲み出ていた。華陽の登場よりも、存在よりも、島民を不安にさせたのはその旭さまの声音の方である。異様な事態が起こっているということをなによりも現実味を以って知らしめようとしていた。
「即刻立ち去るがよい」
「ふふ、嫌ですよ。だって、華陽ちゃんの柔肌に触れられぬ憐れな皆さまに、華麗なる幻術をご覧いただきたいんですもの……では、皆さま、お愉しみあれ」
悲鳴があがり、島民たちは突如として荒れ狂う海のなかに放り込まれた。鉛色の荒海は冷やされた鉄の無慈悲な冷たさを以って島民たちに襲いかかり、肺を塞いだ。かと思えば、次の瞬間、海は燃え盛る炎となって皮膚を爛れさせ、また次の瞬間には、あたりは恐ろしく悪意を持った暗黒に包まれた。闇の奥から激しい息づかいが聞こえたかと思った刹那、悪鬼、魔獣の類が押し寄せてきて、人々の脛の肉に食らいつき、貪りはじめた――そのように、当の島民たちには感じられたのだった。
しかし、旭さまの冷徹なお目には、土の上で溺れたようにもがき、むせび泣き、のたうちまわる島民たちが映るのみである。旭さまはかすかに顔をしかめると、沸き起こる土煙から袖で口を覆って、片手にかけられた数珠に向かって念じられた。
(皆の者、気を確かに。すべては幻に過ぎません)
阿鼻叫喚がすっとやんだ。救いをもとめて伏せ転んでいた人々は、涙と土に汚れた顔を恐る恐る上げて、新月のように澄明に、冷然と立ち尽くす旭さまのお顔を見つけてようやく現に戻った心地がするのであった。しかし、旭さまのお目は氷像のなかに灯された炎のように、冷たくも強く燃えて、妖しき女を睨んでいた。
「やっふー!さっすがー!」
妖しき女は妖しき女の本分を忘れる。華陽はいかにも楽しげに笑いながら手を打って言った。そんな軽薄な所作を以ってしても、なおも香水のようにべっとりと付きまとう色香が消え失せぬのを知っているように。華陽の笑いにつられて、緋色の衣装がさざめききらめく。
「やりますねぇ、おばあちゃん!でも、あたしの幻術もなかなかだったでしょう?ねぇ、どうです、おじいちゃん?もう一度見たいと思いませんか?」
「無駄です。井頭はお前の幻術に二度も惑わされるほど愚かではありません。去りなさい、女狐!お前の正体がわかった気がいたします」
笑いが消えた。不気味な沈黙のなかに華陽が投げ入れたものが、ぼとりぼとりと、熟しすぎた果実が落ちるような音を立てて、横たわる住民たちの足元に、目の前に、転がった。一瞬ののちに、悲鳴が再び夜空をつんざいた。旭さまもまた顔色を失われた。
「どうぞ、皆さま!華陽ちゃんからのプレゼント!久しく会ってなくてさびしかったでしょう?こっちは本物ですよ、ちゃあんと」
猛然と華陽を射た旭さまの眼が、はっと揺れた。変わり果てた仲間の姿を見ていよいよ恐怖に駆られた島民たちが我先にと逃げ出しはじめたのであった。静止の声ももはや届かぬ。
結界を乗り越えた人々の足は張り巡らされた華陽の残酷な罠に捕らえられていく。月光を凝らせて鋳たような黄金の甲冑を被った騎士たちがどこからともなく現れて、島民たちの行く手を塞ぎ、輝く斧を振るい、刃を差し込み、槌を落とすのだ。月影の下に、あたりには潰れた柘榴のような骸が散らばり、血しぶきに白い尾を穢されても華陽は悠然と微笑み続けていた。
逃げ損ねた人々は、あるいは辛うじてその場に踏みとどまった人々は、無残な最期を遂げる家族の、友の、あるいはもっと親しい人たちの影絵を浴びて蒼白になり、立ち尽くす者は声もなく、崩れ落ちる者は身を震わせ、倒れ込む者は嘔吐していた。儀式にあたって眼鏡をはずされていた旭さまの、瞠ったお目には、事のありようがますます残酷に鮮明に映り込んでいた。この島が、ましてやこの片鰭岳の聖域が血に濡れるのは、かつてないことであった――この八百年もの間。
「ねえ、華陽のお願い……聞いてくれますか?」
冷たいものがぞくりと背筋を撫であげる。本能的に逃げかけるも、旭さまはすでに自分が逃れ得ないことを悟った。女の声は耳元よりした。背後をとられたのだ。
鋭い鉄の感覚が、尼頭巾越しに首筋に迫っていた。振り向くこともできずに、旭さまは冷ややかに眦に眼を寄せて、背後の豊満で邪悪な芳香の方を見遣ろうとなさった。
「……神聖なる儀式を妨げ、島の平和を蹂躙したはず。この上望みがあるというのか」
「やっだー。覚えてくれたんですね?華陽ちゃん感激!でも、もうひとつ覚えててほしかったですねぇ。欲望と感情があたしのコードウゲンリなんですよ。そして欲望と感情に際限なんてありません。だからもうひとつ欲しくなっちゃったんですよねぇ」
「人魚の肉ならここにはない」
おやおやおや、と華陽は尼頭巾に頬を寄せつつ片眉を上げる。
「まさか華陽ちゃんがあれを探してると思ったんですか?とんでもなーい。もし手土産に持っていければ相方が喜ぶかなーなんて思ったんですけど、ただそれだけ。干物ごときに用はありませんよ。もっとも……」
先の細く尖った舌が唾液に濡れて、紅を塗った唇を舐め上げた。その仕草はまさしく獣であった。
「……生肉だったら別ですけどね」
旭さまははっと目を見開かれた。突きつけられている武器を忘れて振り返ろうとした一瞬、旭さまは怒りに我を忘れていたのだった。口走りかけた憤怒と罵倒の言葉を、華陽はまた猫なで声で制した。
「おやおや、口には気をつけた方がいいんじゃないですかぁ?わかってるでしょう?あたしは結界を破ったんです」
誇り高き野生の荒馬が初めて人の手に捕らえられたとき、彼もまた今の旭さまのような屈辱に打ち震えたのであろうか。それは生命を支えている樹をも立ち枯れさせるほどの汚毒であったはずである。だが……
旭さまの瞳はいつも島のすべてを見渡していられた。島民ひとりひとりの顔を見つめていられた。生まれ、そして死にゆく島民たちの顔。その顔のなかで、絶えては受け継がれていくもの。今この瞬間、旭さまのお目は、聖域にあって打ちひしがれる島民たちの顔に注がれている。彼らの命だけは、せめて助けられるかもしれないのだ。この世界で最も愛しいものを犠牲にさえすれば。
「……案内します」
歩み出す旭さまの後ろ姿を呆然と眺めていた女たちにはきっとわかったことであろう。旭さまの行く先が。そして、旭さまが何を犠牲にしようとしているかが。
「まさか、人魚さまを……!」
もっと深く、深く。誰の手も届かないほど深く――――
「せっかくだから、馴れ初めとか話してくれてもいいんですよー?」
華陽が軽薄にしゃべり続けるなかで、老尼はじっと沈黙を守っていた。邪なるものに口を開くのは自ら死すのと同じことであるから。もはや死など、おのれひとりの命などどうなってもかまわない。この世界で最も尊いものを犠牲にした今となっては。それでも――否、だからこそ、人魚の巫女は黙し続けるのだ。ほどなくしてこの手から失われるものとの大切な記憶を守るべく。
「もう、つれないですねぇー」
華陽はそう言いながら機嫌よく笑っている。この異形の女は老尼が崖の上のあやうい足場を辿るのを見下ろしながら、宝石で飾り立てた素足と白い尾を宙に揺らしていた。すさまじい風が吹きつけるたびに、さすがの老尼の足元もよろめいたが、華陽は妖しい力で以って強風から身を守っているらしかった。よろめくたびに、華陽は冷やかしたり、囃し立てたりした。
(翼、こんな時に貴方が助けにきてくれれば……)
藍色の髪の凛々しい少女のことを想う。打ちひしがれてもなお澄み渡った瞳をした少女のことを。もし、自分が彼女を正しく導けていれば、このような惨劇は起こらなかったのだろうか。済んだことを悔やんでもとはいえど、華陽によって無残に散らされた島民たちの命を思うと、老尼は深く悔やまずにはいられなかった。
老体には次第に寒さも堪えてくる。苦しげに息を吐きながら海の轟きを遠く聞くとき、華陽はまたもや老女を冷やかした。
「大丈夫ですかあ、おばあちゃん?気をつけてくださいね。このあたり、事故が多いんですって」
……ああ、なんと喧しい蠅だろう。
「さっきも女の子がひとりここから落ちたんですよ。好きな人にフラれた幻覚を見たんですって。かわいそうに」
岩壁に手を充ててうつ伏せていた旭さまはさっと顔を上げられた。瞳はまっすぐに華陽を射抜いていたが、その顔面は蒼白であった。
「まさか……」
「おや、気になりますかぁ?でも、大丈夫ですよっ!この島の女の子じゃありませんから」
震えが痩せた肩にのぼってきて、旭さまは妖狐から急いで顔を背けられた。しかし、一体どうやって?家の周りには結界を張っておいた。それさえも破ってこの女は翼をたらしこんだというのか――ああ、翼!私が呼んだばかりに!
もう決して許してはおけなかった。この女とは刺し違えなければならないと、旭は悟った。
片鰭岳から崖を下り、傍目には荒磯とばかり見える岩場を命からがら渡った先に、島の女性しか立ち入りを許されぬ浜がある。それはそそりたつ崖下にわずかに堆積した砂であり、人二人並んで歩くこともままならぬ。この浜には、島の女たちでさえ、八年に一度の祭りのときにしか足を踏み入れず、浜の場所も男たちに、ましてや島外の者には決して漏らさぬように日々互いに戒め合っている。かつて島を訪れた民俗学者にこの浜の場所を語ってしまったという主婦は、ひと月も経たぬうちに家族もろとも島を出ることになってしまったというほどである。
崖に沿って細長く伸びるこの浜をさらに進んだ先に、海原に入り口をひろげる海蝕洞があることは、島の女たちでさえ知らない。女たちは浜の半ばで道を引き返すためである。人魚と会うためには浜につながれた小舟の纜を解き、暗闇も荒波をも恐れずに、洞窟のうちに漕ぎ進まなければならぬことを知っているのは、巫女ひとりだけであった。
浜から洞窟までのわずかな間でさえ引っ繰り返りかねない古い小舟であったが、旭は巧みに櫂を操った。洞窟のなかは、まことにここが海面の上かと疑われるほどに静まり返っていた。鏡面のごとく波は凪ぎ、楷の軋む音だけが厳かに響く。岩壁は暗く、ただ波に濡れたところばかりがつややかだった。華陽は小舟を厭って宙を浮遊したまま旭の周囲についてまわっていたが、闇のなかで赤い目を赫かせては興味深げに辺りを見回しているようすだった。軽口をたたくことも忘れているようだ。
……この場所を知ったのは、まだ旭が十六の娘であったころだ。旭は海原島で生まれ育ち、文字もみやびも知らねども、海底に潜き日々の糧を得ることに関しては長けていた。旭は海女であったのだ。日灼けして赤茶けた髪と、琥珀の肌と、島の男たちに恐れられるほどの強い瞳を持った寡黙な娘だった。
ある時、この娘はどうしたことか風を見誤った。そしてこの海蝕洞へと押し流され、好奇心のままに舟を漕ぎ進めていった。そこで人魚と出会ったのだ。
網に囲われ、ところどころ傷ついた生き物は、人間の娘の姿を認めるなり水中より顔を出し、救いを求めた。その言葉は海神の国の言葉であり、到底人間の娘の知り得るものではなかったのだが。それは海女のする磯笛の音色とよく似た言語であった。
なるほど、島のみんなが騒いでいた人魚というのがこれであったのか。なんでも然るべきお方に献上するのだとか父親が話していた気がするのだが。それにしても今まで聞かされてきた人魚と実物の人魚はなんたる違いであろうか……旭は恍惚として長いこと舟の上より人魚を見下ろしていたが、その間も、人魚は必死にこの海女の娘に語りかけていた。人魚の尾鰭は海面の上に幾度も跳ねてせわしなく音を立て、網に押しつけられた皮膚は裂けて血が滲み出た。そこには幼い子供が言いたいことが伝わらないもどかしさにむずかる時のような、あどけない切実があった。
ようよう我に返った旭は、なすべきことを悟った。旭が舟を漕ぎ寄せると、人魚は怯えて水中に隠れてしまったが、旭は構わず水のなかに飛び込んだ。
朝の陽ざしが海蝕洞の入り口より帯状に差して、海中を蒼く照らし出していた。生き物の気配はない。ここは聖域なのだ。手際よく小刀を操りながら、澄んだ水の音を耳元に聞き、ぬるんだ身が海の冷たさに清められていくのを感じるとき、旭の胸にはいつも同じ思いが湧きあがる――もっと深く、深く。誰の手も届かないほど深く――――
水のなかのきらめきが瞼を刺した。驚いた旭が見やった先に、水底にあっていっそうかぐわしき女体があった。深い感謝にみたされた蒼玉のまなざしがあった。
水泡の向こうで、人魚はほほえんでいた。藻屑のように千切れ漂う網を掻き分けた人魚の手が、戸惑う隙さえも与えずに旭の両手を取ると、ふしぎな冷たさがじんと皮膚に染み入った。その見知らぬ冷たさに酔いしれているうちに、旭は唇を奪われた。
その接吻によって、旭は海のなかで呼吸をすることをおぼえた。ほんのわずかなひとときでこそあれど。人魚は旭と手と結び、解き放たれた悦びをこの海女の乙女と分け合った。自由に海の世界に遊ぶ悦びを。
「辛気臭いところですねー。それで人魚はどこにいるんです?」
ものめずらしさもすでに薄れてきたのらしい。華陽が足先で僧衣の肩をつついて言った。
「……まもなくやって来られます」
「まもなく、ってほんとうでしょうね?あたし、待たされるのきらいなんですよ」
大きなあくびをして、華陽は目に見えぬベッドでもあるかのように宙に横たわってみせる。やわらかな狐の尾が垂れて、旭の目の前をゆたりゆたりと揺れている。その尾の先を見極めてから、旭は顔を背けた。
「して、人魚さまをどうするつもりなのです」
「まっ、いろいろと?人魚の身は余すところなく使えるってご存知でした?人魚はね、生きたまま解体さなきゃいけないんですよ。これがなかなかめんどーでめんどーで……」
不快な語りにも旭は動じなかった。うつ伏せに身を返した華陽の片目が上から面白そうにこちらに注がれているのに気づいていたから。
「まっ、でもそれだけの価値はあるわけですよねぇ。だからこそ大昔には人魚狩りっていうのが流行ったんですから。肉は食べられますし、髪を織り込めば決して破れず燃えずのすてきな服ができあがります。眼球はアクセサリーになりますし、皮膚はランプのシェードに使えば水中でも使える優れもの。鱗や鰓はある界隈では通貨として使えるんですよ。血にも解毒作用がありますし、あっ、そうそう、あと心臓は……」
「もう結構」
旭は合わせた手に数珠をかけつつ、諭すように静かに言った。
「ごまかされるのは至極不快。その程度のものが目的ならば、他の人魚を探せばよいでしょう。なに故私たちの人魚さまにこだわる?」
「ふふ、いい質問ですねぇ。認めてもいいですよ。人魚の肉体なんかに、ほんとはこれっぽちも用はないってね。あるなら頂いていきますが……あたしが欲しいのはね、人魚さまへの『信仰』ですよ」
信仰、と訊き返す旭に、華陽は不敵な微笑みを浮かべつつうなずいた。
「『信仰』の力ってすごいじゃないですか?だって、本当はありもしないものに命を与えるかと思えば、逆も然り。どんなに偉大な神でさえ、一度信仰を失えば、風に吹かれるままにゆらゆらとさまようだけ。だから、あたしは、八百年の間、人魚が集めてきた『信仰』が欲しいんです」
「しかし、かようなものを奪って何になるのです?お前には『信仰』などというものは有り余っているでしょう。否、信仰と呼ぶべきではない。畏怖でもない。『恐怖』というべきか。お前はかつて三国の民より『恐怖』を搾り取ったであろう?」
旭の目が細くなった。
「……白面金毛九尾の狐」
「……その名で呼ばれるのは久しぶりですよ」
華陽は笑みこそ崩さなかったが、旭は瑪瑙のような華陽の瞳の奥に燃え立つものを見た。表面上は美しい女のまま、しかし、そのなかでは獣が赤い舌をさらして舌なめずりをしているのだ。その口腔は臓物を喰い飽きて血にまみれ、骨を砕き飽きた牙だけが白く閃いている……
と、聡い獣の耳がぴくりと動き、華陽は獲物の気配を嗅ぎつけたようにさっと顔を上げて身を起こした。それはほんの一瞬の幻影ではあったが、旭は華陽の口が耳まで裂け、眦が眉まで吊り上がるのを見た気がした。だが、もはやそんな些事に構っていられる猶予はない。この女の正体はすでに葛の葉よりも明らかなのだから。
「どうやらお出ましのようですねぇ」
耳を澄ませてみる。尾鰭で幾重の波を掻き分けてこの洞窟へと近づいてくるものの気配が、確かにする。けれども……なぜだろう。人魚以外にあり得ないのに、どこかがいつもの人魚とはちがっている気がする。その泳ぎは、共に手を取り合って海の底に潜いたあの遠い日々の悠然とした泳ぎではない。別のなにか?それとも、もはや失われてしまったというのか――この八年の歳月の間に。
否、失われてしまっていても構わない。どれほど姿が変わり果てようと、ただ人魚を守り切るだけだ。十六の娘のくだらない、でも痛切な願いをかなえてくれた人魚。八年に一度島を訪れては海神のみ恵みをわけあたえてくれた人魚。旭の老いに胸を痛め、ある年その脇腹の肉をみずから切り取って持ってきた人魚――永遠に人魚と共に生きていたい、ただそれだけのために、泣きながら、震えながら、血まみれの肉を口にした夜は、昨日のことのように覚えている。
旭の掌《手》のなかで、数珠が砕け散った。船底に散らばる珠の音が華陽の意識を捉えたその瞬間、旭は小刀の刃先を華陽の胸元へと押し込んだ。
「貴様に人魚さまは渡さぬっ!!」
もっと深く、深く。




