第四十八話 琥珀討伐作戦!(下)
「……始まったようですな」
変身できないという理由で戦闘要員から外された左大臣は、今は玲子と共に白崎家の一室の留守を預かっている。舞の様子は一向に変わらない。悪化もしないかわりによくなりもしないのだ。時折唇が動いてなにごとかつぶやいている様子であったが、それは夢のなかより抜け出し得ぬままだ。
「上手くいけばよいのですがな……」
ノートパソコンに映るライブカメラの映像には、獣道を掻き分ける玄武と木守の姿が映し出されている。玄武は時折立ち止まり、弦を打ち鳴らしたり、矢を射掛けたりしている様子であった。司令塔役の玲子はしばらく映像に見入っているようであったが、特に大きな動きがないことを確かめると、舞の寝ているベッドへと車椅子をつと寄せて、舞の頬のかたわら、左大臣の目の前に小瓶を差し出した。
「これは?」
「昨夜ルカが言っていた篝火の薬です」
左大臣は両腕をいっぱいひろげて小瓶を支えた。瓶のなかにはかつて篝火が青龍に渡したときとそっくりそのままの姿で、葛の葉に包まれた何かがおさめられている。
「出かける前にルカから預かりました。左大臣、貴方にお渡しします」
「つまりは、この老いぼれに決定権があるということですな」
「誤解なさりませんように。責任を押し付けるわけではありません」
玲子の口調はいつもよりいくらかやわらかかった。
「誰よりも冷静にご判断をされると」
「お若い方はご存知ないでしょうが、自制心は年とともに弱くなるものですぞ」
「それでもあなたを信頼しておりますわ」
テディベアの黒目の反射が、小瓶の上に丸い小さな影となって留まり続けている。今となっては、この老人の叡知に託すほかない。玲子は伏せるようにして目を左大臣から逸らすと、再び映像の方を振り向こうとした。その瞬間だった。
『玲子さん!出たよ!』
玄武の声に玲子と左大臣は今しがたの遣り取りも忘れ去り、急ぎノートパソコンの方へと駆けつけた。玲子は車椅子で。左大臣は大きくジャンプして。
『白虎とボリスとアンドレが今追いかけてるとこ!すっごい速いよ!全然追いつかないもん……!』
玄武がそう喋っている間にキーボードの上で指を走らせていた玲子は、ライブカメラの一台の前を白い影がすさまじい速さで通り過ぎていったのを確かに認めた。このカメラに映るということは……玲子は急ぎ頭のなかの地図と照らし合わせた。
「このまま山を下ると西に逸れすぎるわ。玄武、後方からでいい、白虎の援護をお願い」
『了解!』
「青龍、柏木、聞こえて?」
『はいっ!』
玲子の問いかけに、やや食い気味に青龍が答える。
「順調にいけば恐らくあと三分弱で琥珀が姿を現すわ。琥珀をこれ以上野放しにはできません。必ずここで仕留めるわよ」
『大丈夫!今度こそ絶対に決めてやるんだからっ!』
「しかし、焦ったり思いつめたりするのは禁物ですぞ、青龍殿!落ち着いていつも通りにされればよいのです」
『わかってるよ、大丈夫っ!』
さらになにごとかを加えようとする左大臣を、玲子は手で制した――これ以上、青龍には何も言わない方がよい。
凍解が震えているのを、青龍は右の掌で感じた。これは武者震いだ、と青龍は自分に言い聞かせる。あたしは何も恐れてはいない。今までもそうだったし、これからもずっとそうだ。
(大丈夫。前世でも現世でも、ずっと修練してきたんだから)
青龍は一度ぎゅっと目をつぶってそれから開いた。墨が滲みだすように、黒々とした巨大な塊となった北山が、夜いっぱいに膨らんでひろがった。まるで山自体が巨大な生き物みたいなように思われる。獰猛な牙と爪を隠し、獲物に飛びかかろうと身をひそめている、漆黒の獣――それはきっと琥珀よりももっと凶悪で狡猾な生き物だ。青龍が倒さなければいけない琥珀など、この漆黒とくらべれば子犬のようなものではないか。
(前回は不意打ちを食らっただけよ!大丈夫。この凍解で斬れなかったものなんてないんだからっ……!)
青龍はぱっと頭上の月へと視線をかかげた。この地上へ普く光を投げかけて闇を薙ぐ、麗しき十四日目の月が北山の上に浮かんでいた。
月…………
前世における、たった一度の敗北も月の下だった。檜皮葺の屋根の上では、真っ赤な月に手が届きそうに思えたほどだ――いや、手など届かなくてよかった。月の上は死者の世界だったから。この剣の刃さえ触れられればよかったのだ。そうしてまさに京に降りかかろうとしていた夥しい死を斬り捨ててしまえれば、よかったのに……
「あたしの務めはあんたを斬ること。なぜなら、あたしは青龍だから」
あたしはああまで豪語した。それなのに、凍解はあの男を斬り損ねた。そして、真っ赤な月が遠ざかっていって――
「来たぞ、青龍!」
瞬きとともに月は拭われた。遠い記憶の海を駆けて、青龍は白い月が照らす桜花市の地上へと舞い戻ってきた。はっとして見開いた青い瞳に獣の影が映り込むより早く、青龍は足裏に地の底で幾万という太鼓を打ち鳴らしているような轟きを感じた。琥珀が来る――
月光が金色に煌めく琥珀の毛並みを照らし出したとき、闇が燃えだしたように青龍には思われた。それがただの炎であれば、清き水を以って消すことができたのに。二頭のボルゾイ犬は銀色の星のように琥珀の後から駆けてきたが、山を駆け降りてきた疲れもなんのその、急激に加速して琥珀に並ぶと、恐れ知らずにも二頭揃って琥珀の脇腹に飛びかかった。さすがの琥珀もこの時は地に転げ倒された。金の炎と銀の星々が狂おしく悶えるようにのたうち回りながらいっそう強く燃え上がり、獣が怒鳴り合う激しい吠え声の応酬が静寂を蹴散らした。
「青龍、今だ!」
その声が地を渡ってきたことにも、青龍は気づかなかった。ただ、急に背中を押されたように、青龍は慌てて刀を構えなおしたのだった。……おかしい。凍解を握る手が震えている。心が記憶のなかに置き去りにされたままで帰ってきてくれないのだ。
『は……』
走井。たったそれだけだ。めいっぱい叫べばいいのだけなのに。記憶のなかの紅の月が青龍をすくませる。体が動いてくれない。敗北の痛みと悔恨とが、この現世から青龍の身を切り離してしまったようだ。嫌だ、動いて、動いて、動いてよ、あたし。お願い、今怯んでいる暇はないの。あたしはみんなを守らなくちゃいけないの。今度こそ姫を守らなくちゃいけないんだから。動いて……!
ボルゾイたちがぱっと琥珀から離れた。それは賢い判断であった。そうでなければ琥珀の牙をまともに喰らっていたであろうから。ボルゾイたちは琥珀から間を置いて、けたたましく吠えた。
「青龍!」
銃声が放たれ、矢は月光に紛れて琥珀の身に降りかからんとする。琥珀はいずれもさっと一瞥しただけで見事に避けた。身を交わした先で、白虎の氷が後ろ足と尖った口吻とを捕らえたが、それらもたちまち振り払われる。氷の口輪を砕いた琥珀は、月を見上げ、憤怒と憎悪の咆哮を発した。
誰もが――柏木さえもが――そのおぞましい声に圧倒されるなかで、青龍はやっと手先の感覚を取り戻した。凍解が闇を裂くその線もきららかに、青龍は走り出した。
闇が風になって冷えた皮膚の上を流れていく。しかと見据えた先に、金色の獣は今宵の月のように燦然と君臨している。両耳を揃えて立て、心ここにあらずといったように月を見上げながら。
『走……!』
今度こそ仕留められる、そう確信したその矢先、琥珀の姿がふっと掻き消えた。
「えっ……」
最後の二、三歩を余分に駆けて、青龍ははっと振り返る。やはり琥珀の姿はない。唖然として空を見つめる青龍の耳に、地の底で幾万の太鼓が打ち鳴らされるような地響きが伝わってくる。しかし、それは次第に小さく、次第に遠く。
「ちっ、また逃げられたか……!」
遠いにおいを嗅ぐように鼻先を夜空に突き出したボルゾイ犬の背に触れつつ、外套をはためかせて、白虎が忌々しそうに呟いた。その忌々しさは琥珀に向けられているのだろうか。それとも、もしかして……
「玲子、聞こえるか?!またもや逃げられた!そして悪いことに街の方に逃げたようだ!」
『了解、行方を探るわ。あなたたちはその場で待機して』
「お嬢様、差し支えながら琥珀の向かう先に心当たりが」
その言葉に、皆は一斉に柏木の方を見た。柏木はまるで玲子と対面しているかのように直立不動の姿勢をとって、周りの者など眼中にないようだ。
『どこだというの?』
「子犬のいるところかと」
結城、くん……玲子の背後で、かすかな声が呼んでいた。振り返った刹那に、玲子の眼鏡と寝台の上に置かれた小瓶の反射がぶつかりあって弾けた。
午後から降り出した雨が止んだ。晴れ上がった空を見上げて、トビちゃんの散歩に行っておいでと母親は嬉しそうに司に勧めた。
散歩とは言いつつも、いきなり地面の上を歩かせることには不安があったので、司はトビーを抱いたまま外に出た。二十分か三十分間だけ家にいなければいいのだ。母親がささやかなご馳走をこしらえている間。今日はきっとお祝いになるのだろう。トビちゃんお帰りパーティだとかいって、また厄介なことになるに違いない。
司は自宅近くを流れる篠川沿いを歩くことにした。住宅街は時々とはいえ車が通るし帰宅中のサラリーマンたちともすれ違わなければならないが、川沿いの道は静かだ。見なければならないものは街灯の照らし出すところだけ――雨露を真珠のようにちりばめたほの温かい川辺の暗闇から、川のせせらぎと、かすかに澱んだような水と草のにおいが立ちのぼってくる。川が気になるのか、トビーは司の腕から身を乗り出してフンフンと鼻を鳴らしていた。
家々の窓に連なる団欒の灯影も対岸にあれば手が届かない――そこまで思って、司はふと、それほどまでに卑下しなくともよいのではないかと心づき、驚いた。なぜなら、今宵、母親がこしらえようとし、そして司が心待ちにしているものこそ、かの灯影であるのだから。
「これでまたみんなで暮らせるねぇ」
昼間の母の言葉が思い出される。誰も見ていないにも関わらず、司は街灯の光が引っ掛かったのだとでも言いたげに、ごくさりげなく眉をひそめた。自分はこの言葉にこだわりすぎていると思った。穿ちすぎだ。母はもしかして「みんな」で暮らしたかったのだろうかだなんて。確かにものさびしい暮らしではあったけれど、母子二人の生活に不満はなかった。父親など必要なかったではないか。
皮肉な笑みを浮かべるのは、子犬が父親不在の穴を埋め得るのだという自分自身の発想ゆえであった。たかだか子犬一匹でその不在が塞がってしまうというなら、父親なんてものはなんと頼りない存在なのであろう。きっと自分は父親というものを過小評価している。父親が何たるかを知らないから――現世でも、前世でも。
『…………もっとご一緒にいて、父上……お願い、こっちを見て……」
くしゅん、と胸元でトビーが小さなくしゃみをした。寒いのだろうかと思って、司は着てきた上着の胸元に子犬を引き入れて、上着の釦を閉めた。トビーがもぞもぞと後ろ足を動かすのがシャツの上、すぐそばに感じられる。くすぐたくって温かい。これはきっと父親とは違うだろう。でも、司は満ち足りて微笑んでいた。
そろそろ引き返そう、あの橋まで差し掛かったら。そう思って、ふと、対岸に不思議にも月光の溜まる場所があるのに気づいた司は、そちらへ目を向けて慄然とした。
トビーが胸のなかで必死にもがこうとするのを司はぎゅっと抱え込んだ。獣は唸り声をあげて司を睨みつける。山で熊と出くわしたときには背中を見せずゆっくりと後ずさるとよい、そんな話を以前聞いたのを思い出して、司は駆けだしたい衝動を懸命にこらえながら、いつの間にか鉛のように重くなったスニーカーを慎重に持ち上げた。
川面は霧のような冷気に包まれていた。呼吸をするに肺がきりきりと痛み、皮膚がぴんと張りつめていくのを感じた。胸に抱いた温もりからも遠ざけられていくような気がして、司はいよいよきつくトビーを抱きしめた。この震える腕はもう温もりを手放すつもりはない。
まるでそんな司の心を見抜いたかのように、獣は怒号を上げると、鎌のごとく尖った爪で土を蹴り上げ川面を飛び越えんとする。金色の月は跳躍する獣の影に覆われて遠ざかったにも関わらず、燃え盛る琥珀の毛並みの煌めきのためにいっそう間近に迫りきたように思われた。司は思わず身を翻して駆けだしていた。背を見せようが見せまいがいずれにせよ琥珀は襲いくるのだから構わないだろう。獣が着地した振動が司のスニーカーを捕らえる前に、琥珀は司に向かって猛然と突進してきた。トビーを抱えた司には振り切ることは難しかった。獣のにおいが濃く漂ってくる。
ああ、だめだ、捕まる――!
焦った足が地面を捉えかねたために、司は辛くも琥珀の爪を逃れた。が、咄嗟にトビーを庇おうとして仰向けに倒れた身を、獣の影が踏みしだいだ。
トビーがきゃんきゃんとわめいている。まるで何かを必死に訴えているようだ。後頭部を打ちつけたせいでくらくらと回る視界のなかで、琥珀が鼻先で空を掻くのが見えた。その提案は却下する、とでも言いたげに。トビーはいっそう甲高く鳴いた。が、多分その懇願は聞き入れられないはずだ。
間もなく噛み砕かれるという段になった。さあ聞いてみよう。僕は失望している――?いや、ちっとも。これこそ僕のよく知っている人生だから。小春日のあとに烈風が吹き寄せる。誰かの微笑みに裏切られる。おなじみの人生だ。だから……これが最期だとして、格別なにも憎めない。僕は琥珀のように亡霊にはなれないだろう、きっと。助けさえも期待していないのだから。
司の手がトビーの背に伸びると、琥珀は低くうなりだした。司は怯まない。獣の前足の重みに抗って胸の半ばまでを起こすと、緋色の炎の向こうにある黒い惑星の本体を見据えて冷ややかに笑った。それは司が自らの生そのものに向けて浮かべてみせる表情であった。そして発せられる言葉も。
「……お前は賢いな、琥珀」
冷笑が乾いた風を吹かせる。
「そうだ、僕といてもこいつは幸せにはなれない。だから命がけで取り戻しにきたんだろう?立派な父親だ」
乾いた風は深い溜息となる。
(上出来じゃないか。僕は父親というものを知らずに過ごしてきた。その人生の最後に、父性が嵐のように怒り狂って押し寄せて僕を喰い殺すのだから)
ひび割れていたあの眼鏡……
「待ちわびたかいがあった」
…………もっとご一緒にいて、父上。
「そうだ、父親に殺されるなら本望だよ」
雨の音が聞こえる――
一発の銃声がこの世界の全ての音を打ち砕いた。ぱっと身をかわした琥珀の前足に蹴り飛ばされて、司の身はトビーを抱えたまま大きく跳ね、そのまま河川敷の斜面を転がり落ちた。
「結城君!」
ふわりと桜の香りがした気がして目を開ける――まさか。この声が、香りが、彼女のはずがない。これは窮地に陥った自分が作りあげた幻聴だ。絶望しなくても済むように、そう必死に言い聞かせながら見上げた先に、宝冠に、流れる髪に、華奢な肩に月光を浴びる可憐な少女の立ち姿があった。
「京野、なんで……」
「結城君、大丈夫?」
迷いなくすらりと差し伸べられる白い手。ああ、この少女はいつだって…………
「……ああ」
伸べられた手を握りしめて、司は立ち上がる。その温かさを司はもう煩わしいとは思わなかった。一瞬同じ高さに並んだ瞳が互いのきらめきを返して閃きあった。その時、見えないながらに確かに結ばれたものは、司が京姫を見下ろすようになってもほどけることはなかった。
二人の瞳はともに琥珀を見上げた。
「あいつのねらいはトビーか」
「うん……結城君はここで待ってて。トビちゃんのこと離さないでね」
「わかってる」
司は胸のなかに包んだ子犬を抱きなおしてうなずいた。子犬は司を見上げてクンクンと鳴いていたが、もうじたばたと動き回ることはない。京姫は左大臣と激闘を繰り広げている琥珀から目を離して、トビーの顎をそっと撫でてさびしげに微笑んだ。
「トビちゃん、ごめんね。でも、これからは私たちがトビちゃんを守るから大丈夫だよ」
トビーは首をかしげながらつぶらな目で京姫をじっと見つめている。その視線に耐えかねたように顔を背けた京姫は、打って変わって毅然と身を翻して、斜面を数歩のぼった。「京野」と呼ぶ声に、京姫は振り返った。その顔はいつもよりほんの少しだけ青白かった。
何を言おうとしていたのだか、急に司はわからなくなってしまった。振り返った顔が想像していた顔と少し異なっていたせいだろうか。その顔は凛々しく、優雅であった。いつもの明るく親しみやすい京野舞の笑顔ではない。まるで高貴な姫君のような――そして気づく。今この瞬間、自分の目の前にいるのは、京姫であるのだと。京に安寧をもたらし、民に永久の慈しみを与え、清浄なる孤独のなかに短い生涯を終える聖なる巫女。この手など決して触れるはずのなかった貴い姫君。
それでありながら、彼女は京野舞でもあった。だから、たとえ戦場にあっても、司に向かって微笑みかける。その翡翠の瞳に映し出されているのは、結城司、たった一人だけであった。
「なあに、結城君?」
優しい声で京姫が尋ねる。まるでちょっとした会話の切れ端のように。その何気ない調子のために、司はようやく言いたい言葉を思い出した。
「……気をつけろよ」
「うん……ありがとう」
翡翠の瞳で闇に軌道を描いて、京姫は歩み出した。




