第四十八話 琥珀討伐作戦!(上)
暗い、痛い、苦しい。ここはどこなの?
誰か助けて……ああ、こんな情けない台詞、言いたくなかった。
ここはとても熱いのに体は凍えそうなほど寒い。お願い、誰か……誰か、ここから連れ出して。
ここはどこ?ここは地獄なの?だとしたら、私は永遠にここにいなければならないの?
もうみんなに会えないの?
……もう結城君に会えないの?
私は結城君に伝えたいのに。伝えなきゃ、いけないのに――――
夜は刻々と更けていく。いつもなら皆とうに布団にくるまっているという時刻だというのに、白崎家のその一室では誰一人としてまんじりともせず、眠気を訴える者もいない。シャンデリアは煌々と輝きながら自身の影を白い壁に投げかけていたが、その微細な影は、池の水面に投げかけられてついに緋鯉の口を逃れた麩のように、この部屋の底に落ち、澱みゆくのではないかと思われた。そうでもなければこの明るさはあまりにこの部屋の沈鬱に似合わない。
ルカは壁にもたれかかり、組んだ膝の上に肘をついて額に手を充てていた。長い金色の髪もまたその顔の半ばを覆い隠しているせいで、その表情を見定めることはできない。玲子は窓辺に車椅子を寄せ、柏木もまたその脇に彫像のように立って身じろぎひとつしない。翼と奈々とは部屋の隅に設えられた寝台の傍らに腰を下ろしていたが、翼は絶えず大粒の涙を落として声もなく泣き続け、奈々はその肩を抱いて決してそのそばを離れようとしなかった。左大臣は寝台の枕元に立って、横たわる人の顔をじっと見下ろしている。横たわり、目を開けようとしない人の。
「姫さま……」
ベッドに横たわる舞の皮膚は蝋のように不吉なまでに青ざめて、シーツの色とほとんど変わらないほどだ。か細く不規則ではあるがせわしない呼吸と、かすかに震える瞼とが、辛うじて舞の命のさざめきを伝えている。翼が決して離そうとしない手は氷のように冷たく少しも温まる気配はないのに、舞の額には小さな汗の玉が浮かんでいた。左大臣がタオルで拭っても、後から後から汗は噴き出てくる。
「非常に難しい」
深夜だというのに往診に駆けつけてくれた医者のドミトリーは、険しい顔を一同に向けた。
「何か毒のようなものでやられたように見えるが、何の毒か特定するのは非常に困難だ。もちろん調べてはみるが、恐らく現代医学の手の届かぬところにあるものだろう。玲子嬢の時のようにね」
「じゃあ、舞は治らないんですかっ?!」
涙を浮かべた翼がりつくと、ドミトリーは疲れと慈愛の滲んだ目を細めて翼を見遣った。
「私には治療法がわからないんだ。申し訳ない、お嬢さん……だが希望は持つことだ。ルイ、私は一度戻るが、何か変化があったらすぐに呼んでくれ。明日の朝から私もこの家に泊まり込むことにしよう」
「ああ。すまない、ミーチャおじさん……」
静まり返った白崎邸のどこかで時計の鐘が鳴る――午前一時。ドミトリーが帰ってからすでに一時間あまりが経過したのだ。長いこと黙り込んでうつむいていたルカが、気だるげに掻き上げた前髪の下からじっと時計をねめつけて、重々しく口を開いた。
「そろそろ皆休まなくては。翼も奈々も明日は学校だろう?舞のことは私が見ておくから心配いらないよ」
そうは言われても翼も奈々も一向に動く気配がない。ルカは溜息をひとつ吐いて億劫そうに立ち上がり、並んで座っている二人の肩の上に後ろから手を置いた。
「さあ二人とも」
「……ルカさん」
涙で濁った翼の声に近づくために、ルカは屈みこんだ。まるで大人が子供の話を聞こうとするときのように。
「なんだい、翼?」
「あたし、情けなくて仕方ないんです。今夜のこと……!舞がこうなったことだけじゃない。あたしたち、琥珀に全く歯が立たなかった……!」
声もなく泣いていた翼の噛みしめた歯の奥から嗚咽がこぼれ出す。ルカは先ほど伯父がそうして翼を見遣ったように目を細めてうなだれた。
……玲子からの指示を受けて一行が琥珀の出現した住宅街の一角へと到着した時、琥珀は金の彗星のような尾を振り上げて唸りながら、緋色に燃える瞳で四神たちを振り返った。「あっ」と青龍が声を上げたのは、その牙から水たまりへと滴り落ちるものがあったためだ。街灯の光が黒ずんだ水の色を照らし出していた。
「くっ……遅かったか!」
琥珀の前足が押さえているものを見下ろして、青龍と玄武は思わず顔を背けた。そこには無残に喰い殺された死骸が転がっていたのだ。柘榴のような半身を晒して……
すかさず白虎が吼えた。
「怯むな!ここで仕留める!」
二つの神なる獣の魂が、片や金色の憎悪に汚れ、片や純白の正義にきらめきながらも、眼差しを介して触れ合ったとき、獣たちは哮り立った。未練一つ見せるでもなく骸を投げ捨てて宙に飛び上がった琥珀の爪と、すばやく抜かれた白虎の桐一葉が、暗い雨のなかに稲妻のように閃いた。獣の剣戟が高く鳴り渡った。
「玄武!援護してくれ!」
「わかった!」
玄武が神渡を構えるのと共に、玄武の首に巻きついていた領巾がひとりでに解けて、巨大な白い蛇の姿へと変わった。蛇は濡れた道路の上を激流となって泳ぎ、地上に降り立ったばかりの琥珀の左脚に絡みついた。琥珀は木守の首を噛みちぎらんとするも、木守は器用にそれを交わして負けじと牙をむいた。
ヒュン、と風を切る音と共に、黒い影が琥珀の瞳を過る。琥珀は木守にカッと開いた赤い口腔をすばやく引っ込ませ、忌々しそうに夜空を見上げると水を跳ね飛ばすように素早く頭を振った。硬い金の鎧はそれだけで玄武の矢を呆気なく弾き飛ばした。
「ダメだッ!白虎、矢が……!」
雷光を受けて琥珀が飛び上がる。白虎の一刃を琥珀が交わしたのだった。と、木守が琥珀の脇腹へと食らいつき、無数の雨滴を受け星の河のように鱗のひとつひとつを輝かせて、雨空にたなびいた。琥珀の牙が木守の尾をめがけて伸びたその時だった。
『青海波ッ!』
水柱で宙に舞い上がった青龍が、凍解をかざして叫ぶ。凍解の刃先から霧のような細やかな水が放たれ、やがてそれは水の刃となって琥珀の肉体を薙いだ……本来ならば、そうなるはずであった。
琥珀はフッと蔑むように鼻を鳴らした。と、琥珀は青龍を取り囲んでいる雨粒をも、玄武と白虎が立っている大地をも震わせるような咆哮を発したかと思うと、後ろ足の一蹴りで木守を吹き飛ばし、さらにはその勢いを以って、襲いくる水の刃に頭から突っ込んでいった。
「うそ……!」
逃げることなど、交わすことなど想定していなかった。まさか敵が青海波に真正面に向かってくるだなんて思いもしなかったから。青龍の体は水柱を踏みそこねて空中で大きく揺れた。そして、青海波を悠々と引き裂いて現れた琥珀の牙と爪が、落下しかける青龍を捉えようとしていた。
『葦垣!』
『氷室!』
地面から伸びた植物の蔓が琥珀の爪牙より先に青龍を捉えて、急いで地上に引き下ろした。一方、地に降り立った琥珀は氷の剣に囲まれたが、琥珀は獰猛な唸りとともにたちまち氷を砕き散らしてしまった。
「こいつは……」
眉を潜めた白虎に琥珀が飛びかかる。白虎が桐一葉で応戦する間に雨は凍てつき、氷柱となって琥珀を苛まんとしたが、琥珀は氷柱を悠然と蹴り飛ばし、殴打し、噛み砕き、その先が突き刺さって血が噴き出るのもものともしない。白虎は琥珀の牙に応ずるだけでも精いっぱいだというのに。
不意に琥珀が向きを変え、矢を構える玄武の方に烈風となって駆けてきた。玄武は燃え盛る緋色の瞳を目掛けて矢を放つ。が、瞬きひとつで弾かれる。青龍が咄嗟に玄武を庇おうと立ちはだかるが、何も唱えきれぬうちに二人の体は宙高く跳ね飛ばされた。
「青龍!玄武!」
白虎が咄嗟に地を蹴り出して落下する青龍のもとへ駆けつけ、その身を受け止めた。遠からぬ地点に落ちた玄武の身は、木守が支えた。青龍は白虎の腕のなかでぐったりと気を失い、玄武は低いうめき声をあげている。たった今、琥珀の眼と対峙しているのは白虎と木守だけであった。
(何たることだ。たかだか獣だと侮っていた。しかし、こいつは想像以上に……!)
『白虎、戦況はどうなの?こちらからはあなたたちの姿を捉えられないわ。一体どうなっていて?』
玲子の言葉にも迂闊に応じられない。どんな些細なきっかけで獣が再びこちらに飛びかかってくるものかわからないからだ。白虎の身はすでに雨に降られてぐっしょりと濡れていたが、それとは別の、気味の悪い温もりを持ったものが、額からにじみ出るのを白虎は感じていた。駄目だ……今のままではとても敵わない。舞が山に向かっている。せめて、その足止めだけでも。
腕のなかで青龍が目を覚ました様子だったが、白虎は本能的に琥珀から目を逸らしてはいけないことを知っていた。朦朧とする意識と、息苦しくなるほどの痛みのなかで、青龍はふと琥珀の足元を見た。無残に半分だけになった、柘榴のように真っ赤に割れた、人の残骸を。
もし獣に表情というものがあるのならば――その刹那、琥珀は嘲笑を浮かべた。黒く縁どられた口の端が吊り上がって捲れ、赤い歯茎と並び立つ白い牙とがのぞいた。琥珀はおもむろに頭を低く垂れて屈みこみ、その白い牙を、食い残し(傍点)に立てた。
「やめっ……!」
叫びかけた青龍の瞳は光を失ったので、獣が獲物を貪る影絵だけがそこに映り込んだ。肉を千切り骨を砕く、その音は地の底でなされる所行の音楽のように雨の間を這い、低くささやかでありながら。厳かに、故にひときわ冒涜的に。
ほんの数秒のできごとであったに違いない。人であったものが人の残骸となり、その残骸がこの地上から跡形もなく消え失せるまで。そう長い間、少女たちが息を詰めて眺めていたわけがない。眺められたわけがない。
赤く濡れた水溜まりを飲み干して、琥珀は突如両耳を闇に向けてピンと立てると、空まで揺るがしそうなほどの遠吠えを響かせた。呆然と立ち尽くす少女たちには目もくれず、琥珀は風となり立ち去った。塒のある北山に向かって。
最初に我に返ったのは白虎であった……
「二人は寝ついて?」
時計が午前三時の鐘を打っている。薄暗い廊下からシャンデリアが変わらず煌々と輝く部屋に戻ってきたルカに、寝台の傍らから玲子が尋ねた。
「なんとかね。翼の方はミーチャ特製の飲み物が必要だったけど、まあ……」
「お嬢様もそろそろお寝みになりませんと」
柏木が脇から言うと、ルカはイラっとしたようにその横顔を睨んだが、はなからルカなど気にもかけていない柏木は女主人の方しか見ていなかった。
「姫さまのことは私と左大臣殿にお任せください」
「いやいや柏木殿、貴殿も休まなければなりませんぞ」
と、舞の汗を拭う仕事に余念なくも左大臣が言う。
「わたくしはこの体ですからな。しかし、柏木殿は生身の人間。それにこのところ寝ずの番が続いておりましたからな」
「柏木、帰宅して仮眠を取りなさい。午前十時に指示を出すわ。それから、ルカ、貴女も眠らないと」
「私はいい。明日は欠席するつもりだから」
玲子の目が眼鏡の奥できらりと光った。
「ルカ、私が言えた義理ではないけれど……出席日数は大丈夫なの?」
「正直大丈夫ではないけれどなんとかなるというところだな。それに我が姫君が生命の危機なんだ。出席の心配なんてしていられないさ」
ルカは肩をすくめてそう言いながら、舞の顔をのぞきこんだ。途端に口元に浮かんでいた微笑が掻き消えた。まさしく言った通りだったのだ。出席の心配なんてしていられない――
「舞、いったい何者に……」
左大臣が京姫を発見した時、京姫は倒木のそばに仰向けに倒れていた。意識はすでに遠のいており、左大臣の呼びかけ対する応答もなく、右肩の後ろには突かれたような深い傷があり、そこから流れ出る血が美しい桜色の衣装を染め上げていた。恐らくこの傷口から毒のようなものを体内に注入されたのであろうというのが皆の共通した見解であった。
「琥珀はひとりでに目覚めたわけではないわ。何者かが長い眠りから目覚めさせ、よみがえらせた。まだ私たちの知らない敵がいる――漆は配下を増やしたようね」
「そいつの仕業ということか」
「可能性よ。無論そうではないということも」
「そんなに大勢雇われてかなうものか。よほど人徳があるやつだな、漆も。まっ、元月修院さまともあれば人心掌握など容易いのかもしれないが」
「……ねぇルカ、毒と聞いて何か思い当たることはなくって?」
無言でじっと見つめ合った後で、やがてルカは丸テーブルのティーソーサーから蝶の形を模した砂糖菓子をひとつ右手で摘まみ上げた。それをまるで手品師のように裏表にひっくり返して玲子に見せつけた後で、ティーカップのなかに放り投げた。砂糖の蝶は冷めた紅茶のなかに沈んでいった。
「こいつだろ?」
一連の動きを終えて、ルカは溜息をつきながら右手で狐の影絵を作ってみせた。
「えぇ。篝火は毒のクナイを使ったといったわね」
「ああ、それに煎湖で舞の前に姿を現している。その時は舞を助けたようだが、あいつは信用ならない。あいつの仕業だとしても私は驚かないよ」
「毒消しは篝火自身が持っているのかしら?」
「恐らくは」
と言ってから、ルカはしばらく考え込んだ後で、
「……実はひとつだけ持っている」
「なんですって?」
玲子ばかりではない。左大臣も、その場にまだ残っていた柏木も驚いたようにルカを見た。ルカは先ほど砂糖を放り投げた紅茶をぐっと飲み干し、苛立ったように音を立ててけ残りを噛み砕いて顔をしかめた。
「君の言った通り、篝火は以前、青龍を毒のクナイで襲ったことがある。その後で篝火は毒消しと称したものを青龍に手渡したが、さすがに青龍は懸命だ、それを飲むふりをしてみせた。結局毒と思われたものは篝火の幻術でね。青龍が薬を飲むふりをしたらたちまち症状は消えたわけだが……まあつまり、その時に青龍が飲まなかったものが残っているというわけだ」
「それは翼が持っているのかしら?」
「いや、私だ」
ルカは苦しげに息をしている舞の元へ再び歩み寄り、左大臣の手からタオルを取り上げると自分の手で舞の汗を拭った。
「敵のことはひとつでも多く知りたかった。だからそんなつまらないものさえ取っておいたわけだ」
「して、ルカ殿、それはどこにございます?」
左大臣が黒釦の目でルカを見上げて重々しげに尋ねると、ルカは物憂げに左大臣を見つめ返した。
「私の部屋に保管してある。だが、効き目は保証できない。何も効果がない可能性が極めて高いよ。なにせ以前は毒自体が幻覚だったのだから」
「しかし、少なくとも毒ではありませぬな。篝火はそれを青龍に飲ませようとしていたのですから」
「お使いになるつもりですか、左大臣?」
柏木が意外そうな口ぶりで投げかける。
「口をさしはさむようですが、まだ篝火の仕業とも決まったわけではありません」
「えぇ、その通りです」
玲子もうなずいた。
「リスクが高すぎますわ。元は毒ではなかったとしても、今の舞の体に投与したとしてどのような効果を引き起こすかわかりません。薬は毒になり得ます」
「慎重なあなたらしくもない、左大臣」
ルカは疲労を滲ませながらもいたわるように左大臣に微笑みかけた。
「舞のことが心配な気持ちはわかるが、もうしばらく待とう。今この瞬間にもミーチャが舞の血液を検査してくれている。せめてその結果が出るまでは」
テディベアは長いこと打ちひしがれたように立ち尽くしていたが、やがて深く息を吐いて、舞の頬の横に座り込んでしまった。
「皆さまの仰るとおりですな。わたくしとしたことが。老いぼれらしくもなく気ばかりが急いて」
「それほど大事なのでしょう、舞のことが」
ルカがタオルを左大臣に渡しながら優しく言った。
「私たちも気持ちは一緒だが」
「……わたくしはもう姫さまの最期など見たくはありませんからな」
タオルを抱きしめて左大臣は独りごとのように低くささやいた。ルカと玲子は同時にはっとした顔をした。
「あんな光景を見るのは金輪際わたくしひとりでよいのです」
沈黙のなかで、玲子がそっと舞から顔を背けたことにルカは気づかないでいたが、忠実な柏木は、続けて玲子がそっと自身の鳩尾のあたりをさすり出すのを認めるなりすぐさま尋ねた。
「お加減が優れませんか、お嬢様?」
「いいえ、何でもないわ……それより早く帰りなさい、柏木」
「鳩尾が痛むのは胃だぞ、玲子。手のかかるボディガードとやらのせいでキリキリしてるんじゃないのかい?君も早く休むべきだよ」
女主人の前では不毛な言い合いを避けるように心がけている柏木は三白眼で冷ややかにルカを一瞥しただけで、玲子の前に畏まって部屋を去った。柏木の足音が完全に遠のくのを待ってから、ルカは玲子の車椅子に手をかけて、玲子の抵抗もなんのその、強引に部屋の外へと連れ去った。
「ルカ」
「駄目だ、君は寝ろ。私も舞を左大臣に頼んで少し寝る……で、君も明日はさぼるのかい?」
「えぇ、もちろん」
「迷いないな。人に出席日数のこと説教できるか?」
「私の欠席は事故だと思われているから問題ないわ」
深夜の会話はひそやかに、見えない玉となって暗い廊下をはずんでいくようである。不思議なことに、あの明るい部屋から離れることで二人はようやく安らぎのようなものを覚えはじめていた。体がようやくこの時間にあるべき暗さの元に置かれたためかもしれなかった。アーチ型の窓の向こうでは雨の影が降りしきり庭園の芝生をしめやかに濡らしている。今この世界で目を覚ましている者は自分たちだけではないかとさえ思えてくる、夜の静けさの不思議な錯覚……
この世界の全てのものたちの眠りを覚まさぬように、玲子はいっそうひそめた声で切り出した。
「ルカ、ひとつ相談したいことがあるのだけど……」
「えっ?えっ?トビちゃん?」
目を逸らしつつ司が子犬を差し出しても、早番の仕事から帰宅したばかりの母親はにわかには信じがたいようすで何度も息子と犬の顔を見比べていた。
「えっ、うそでしょ。なんで……」
「やっぱり育てられないから返すって。元の飼い主が」
悲しむべきなのか喜ぶべきなのか――母親は一瞬迷った様子であったが、ぴいぴいと犬らしかぬ声で鳴きながら手足をばたばたさせている子犬を見ると、もうたまらなくなったように満面の笑顔を浮かべて、司ごとトビーを抱きしめた。
「な、なんだよ?!」
意外な事態に今度は司が暴れ出そうとするが、母親は決して離そうとしなかった。
「よかったね、司。よかったね、トビちゃん。これでまたみんなで暮らせるねぇ!」
「ぼ、僕は別に……!」
子犬のやわらかさと、久しぶりに感じる母親の腕の温もりが胸と背とから司を挟む。トビーが帰ってきた直後は驚きと不安でいっぱいだった。突き返せばよかったとも思った。うちでは育てられないのだと。でも、母親がこれだけ喜ぶのならよかったのかもしれない。司は同じ言葉を胸のなかで何度も反芻している自分に気がついた。
――これでまたみんなで暮らせるねぇ……
「要くん、要くん」
段ボールに囲まれている今、カーテンをすでに取り外してしまったにもかかわらず、窓の外の日はなかなか枕元まで届かない。薄い布団の上でうなりながら目を覚ました結城要は、肩を揺すぶっている眼鏡をかけた細身の中年女性をぼんやりと見上げた。
「あれ、久子さんどうしたの?」
「どうしたのじゃないったら、まったく。今日は六限に講義でしょ!」
「えっ、今日は金曜だっけ?」
「金曜日!それも二十二日です!……明日は何の日だか覚えてる?」
「あっ、ああ、もちろんさ……」
この段ボールの群れを見れば嫌でも思い出すよ、という余計な一言は呑み込んで、要は布団からのろのろと起き上がると、大きなあくびをしながら寝ていたそのままの恰好にハンガーから引きずり降ろして取り寄せた鳶色のジャケットを羽織った。布団のそばで正座をしていた女性はその光景を見るなり立ち上がり、ずかずかと歩み寄って、シャツの襟をぐっと引っ張った。
「よくこんな恰好で女子大生に嫌われないわね」
「うん?ああ、ちょっと抜けてるほうが可愛いんだってさ。よかったね、若い子たちと同じ感性で」
「それどーいう意味よ?」
笑いにごまかす要の顔をじっとにらんでいた女性は、ふとあることに気づいたようだった。
「あれ?眼鏡は?」
「ああ、ちょっと割っちゃって……」
「修理中なの?」
「いや、ここにあるけど」
シャツの胸ポケットからひび割れた眼鏡を取り出して見せる要に、女性は一瞬唖然とし、呆れかえってため息をついた。
「どうしてそのままにしておくかなぁ、もう」
本当にね、と要は微笑みながらも胸中同じことをつぶやいたのであった。本当に。もしかしたら僕は割れた眼鏡などというものに縋ってしまっている?それが息子との最後の夜の形見になってしまうような気がして。
(そしてこれだけがたったひとつ、僕があの子のために犠牲にできたものなんだ。情けないな、眼鏡たった一つか……あの時はあの子を守るためになら命だって惜しくないと思えたのに)
ひび割れた眼鏡をかけてみて、鮮明な切れ端の寄せ集めになった世界のなかに婚約者の顔を見つけ出す。明日、ついに妻となるその女は、いつもよりいよいよ奇妙な未来の夫の様子に、呆れながらもどこか当惑しているようだった。その姿がなんだか可憐だった。
(でも、こうして幸福を前にしてみると、やはり失わなくてよかったと思う僕がいるんだ。ごめんね、司……やっぱり僕は父親失格だね)
黙ったまま婚約者を抱き寄せ、眼鏡をポケットにしまいこんで、ぼやけた視界で結城要は家を出た。もしも、もう一度会えたらなんて期待はもう捨てよう。あの少女に言った通りだ。偶然すれ違っただけだと思っている方が、親子なんかでない方が、自分たちははるかに幸せなのだ。
「か、要くん!着いたらちゃんとメールチェックしなよ!」
急に抱き寄せられてしばしぽかんとしていた婚約者の声が、慌てて背中を追ってくる。古アパートの廊下を歩む要は片手をあげることでそれに応えた。ふと肩越しにすでに暮れかけた空を見上げてみる。昼下がりに降り出して要を午睡に導いた雨はすでにやみ、西の空には狂おしく燃える深紅の残照を前にして黒い雲が山並みのようにそびえつつも、ゆっくりと遠ざかりつつあった。




