第四十七話 トビー奪還作戦!(下)
『琥珀が山を降りた。被害者が出ないうちに居場所を突き止めなければ』
白虎の声で眠りから覚めた舞は、左大臣が指さすままに窓の下を覗きこんで、見知らぬ車が停まっているのに気がついた。それでも舞はまだ夢とも現ともわからぬまま寝ぼけ眼であったが、車から降りてきた人物が柏木だと知るとはっとして、パジャマのまま左大臣とともに階段を駆け降りて家を出た。両親はまだ起きていたのかもしれない。居間の電気はついていたが、誰も舞が飛び出していったことには気づかなかった。
「お乗りください、姫さま」
「でも、どこに……?」
柏木に傘を差しだされて戸惑いながら舞が尋ねると、柏木はそっけなく「話は後です」と言った。舞は胸に抱きかかえた左大臣と顔を見合わせて、とにかく乗らざるを得ないと判断した。
『舞、左大臣、車には乗れて?』
後部座席のシートベルトを締めた瞬間に、玲子の声が降ってきた。舞は玲子からは見えないのも忘れてうなずいた。
「でも、どこに行くの?」
『北山よ』
「北山ですと?しかし琥珀が街に現れたと先ほど白虎殿から……」
『その通りです、左大臣。だからこそ舞は北山に向かうべきなのです……舞、今ならば子犬を取り返せるわ』
「あっ……!」
舞は雨滴に打たれたようにぱちぱちと目を瞬かせた。
「トビーちゃんを助けられるの?」
『助けられるかは貴女次第よ。白虎たちが琥珀を仕留めてくれることを願ってはいるけれど取り逃がす可能性はゼロではない。あまり時間はないと思って、舞。夜の、それも雨の山のなかで子犬一匹を探すのは困難よ』
「大丈夫。私には京姫の力があるもの!」
力強く答えて、舞は鈴をぎゅっと握りしめた。以前にも京姫の霊力を使って、敵やルカの居場所を探ったことはある。変身さえすれば山中であれトビーの居所はすぐわかるだろうと舞は信じていた。そうでなくては困る。トビーを取り戻して、元気なままで結城司の家へ連れ帰らなければならないのだから。
(待っててね、結城君……!)
『……現時点では琥珀の居場所は不明よ。左大臣は舞の援助をお願い。柏木は舞と左大臣を山に送り届けたら白虎たちと合流して。戦力は少しでも多い方がいいわ』
「かしこまりましたぞ!」
「かしこまりました」
車は夜の闇を縫うようにして雨夜のなかを抜けていく。舞は左大臣を膝に抱えたまま、ただ眦に、過ぎていく街の灯を見た。それは窓硝子に貼りついた雨滴のために歪み、不吉な彗星のように白い尾を引いていた。
赤星家の車を飛び降りた京姫は、目を閉じて静かに呼吸をした。思い出すのは遠い舞台の記憶――離れていても司と強く結びついていたころの記憶である。汗をきらめかせながらテニスラケットを振るっていた司の姿が、雨に前髪を濡らして微笑む司の姿へと変わっていく……トビー、どこにいるの?
目を瞑ったあとの暗闇は変わらなかった。だが、その奥より新たな暗闇が滲みだしてくるのに、京姫は気がついた。雨の夜の闇、光届かぬ山中の闇――そのなかに横たわっている薄灰色に浮かび上がってくるものはどうやら倒木であるらしい。そしてその倒木の下に……いた!トビーだ。倒木の下に掘られた穴のなかで震えている、この小さくて丸いものはきっとトビーだ。しかし、これだけではこの山のなかの一体どこであるのかわからない。
その時、不意に、倒木の影に震えるトビーの映像に、別の映像が紛れ込んできた。赤いよだれかけをかけられた小さな地蔵が三体――京姫は当惑しつつ目を開いた。
「姫さま、お分かりになりましたかな?」
待ちきれないように左大臣が尋ねる。
「見えたよ!見えたけど、お地蔵様なんて……」
この北山には以前訪れたことがあるが、どっかに地蔵が祀られていた記憶はない。では今の映像は一体なんだったのだろうか。
と、その時、京姫は何者かの視線を感じた気がして、はっと辺りを見渡した。左大臣が訝しげに見守るうちに、京姫はちょうど山道の前に広がる竹藪の闇のなかに、七、八歳といった年頃のおかっぱ姿の少女がひとり立っている。姫はどきりとした。が、思い出してみれば以前もこの山であの少女と会ったではないか。白虎と篝火を追ってこの山に来た時に。名前は確か……
「こっち」
姫が口を開くより前に、少女はつぶやくように言った。
「舞お姉ちゃん、こっち。早く来て。また狐さんが悪いことをしたの」
「は、はなちゃん……?」
ようやく思い出した名を呼んでも、少女は笑いかけることもなく、ただ落ち着き払った大きな瞳でじっと姫を見据えていた。でも、一体なぜこんな時間に女の子がひとり山のなかに?
「はなちゃん、どうして……」
「はなのお父さん、狐さんにだまされて行っちゃった。狐さんがお父さんを起こしたの。お父さんはずっとねむっていたのに。はなたちを守ってくれてたのに」
お父さん?そういえば以前、このはなという少女はやはり一人でいて、父親が近くにいると言っていたような気がするけれど。それでははなとその父親はこの近くに住んでいるということだろうか。しかし、考えるのは後にしよう。姫は意を決して尋ねた。
「はなちゃん、トビーちゃんを見なかった?小さなわんちゃん。私たち、どうしてもトビーちゃんを探さなきゃいけないの。できるだけ早く……!」
「知ってる。そこに狐さんもいる。だから退治して。そうじゃなきゃお父さんが帰ってこれないんだもん……」
初めて少女の顔に表情らしいものが認められた。もっとも透き通るように白い肌をした少女の姿は、身に着けているブラウスもろとも、竹藪のなかにぼんやりと浮かび上がっているためにはっきりとはよくわからないが。京姫は力強くうなずいた。
「わかった!」
「行くよ!」と左大臣に声をかけて、滑るように歩み出した少女の姿を京姫は追い始めた。左大臣はなぜだか出遅れたようすだった。狩衣は竹藪のなかを走り抜けるのには不向きなのだろうか。けれども今の姫には左大臣を顧みている余裕はなかった。
はなはスカートから突き出した細い足ですばやく駆けていく。しばらくその後ろ姿を目で追っていると、交錯した竹の影にその姿がすっと紛れてしまい、走りつづけながらも必死に目を動かして探していると、そう遠からぬところに再びその姿が突如湧き出たように見えるほどだ。一方の京姫は雨に咽び、泥濘に足を取られ、濡れた落ち葉に滑りかけて走るので、たちまち全身がびしょ濡れに、そして泥だらけになった。しかし、今の姫にはただわずらわしいと思われるだけだ。山の斜面を全力で疾走する苦しさもものにならない。今、姫の頭にはただ震えるトビーの姿だけがあった。
再びはなの姿が消えた。すでに竹藪を抜けきって山の中腹あたりに辿りついている、というころだった。京姫はふと足を止めて荒い呼吸を整えた。肺のあたりが熱い。脇腹がきりきり痛み、額を濡らしているのが汗なのか雨なのかさえわからないほどだ。冷気が開いた口から頤へとじんと沁みた。はなの姿はどこにもない。
「はな、ちゃん……?」
はあはあと息をしながら二、三歩踏み出した先に、京姫は赤い涎掛けの色を見た。それからクーンクーンと鳴く子犬の声を耳にして、京姫はたちまちあらゆる痛みを忘れ去り、声を上げた。
「トビー!」
声はかすれた。
「トビーちゃん、どこ?!」
キャン!と甲高い声が上がった気がした。すぐ目の前の闇のなかだ。思わず駆けだした京姫は、太い木の根っこが目の前に横たわっていることに気づかず、なおかつその木の根の先から急な下り斜面になっていることも気づかずに、根に足を引っかけ、「わあ?!」と悲鳴をあげながら空中で引っ繰り返り、斜面をも転がり落ちた。幸いにも斜面を数メートルほど滑落したところで、京姫の体は何か硬いものにぶつかって止まった。が、その衝撃で頭を打ちつけた京姫はしばらく地面の上に伸びたまま、目を回していた。
「な、なんでこんな目に……」
なにか温かくやわらかなものが頬に触れる感触で、京姫は目が覚めた。まるでなにものかに舐められているような。触れるとちょっと濡れていて、でもふわふわして、ぽかぽかしているもの。この感触は……
「トビー!」
京姫は土の上から飛び起きた。どうやら京姫の体を受け止めてくれた倒木こそ、トビーが丸まっていた場所、琥珀の塒であったらしい。子犬は京姫との再会に文字通り小躍りして狂喜しながら、姫の胸元に飛びつき、その腕に抱かれて嬉しそうに姫の頬や口元を舐めた。元気そうだ。よかった。琥珀はしっかりトビーの面倒を見ていてくれたらしい。姫の口元から笑顔が消えた瞬間であった。
「……ごめんね」
トビーを抱きしめながらそっとつぶやいた。
「ごめんね、琥珀。トビーと引き離して。でも……」
でも、私は約束したから。結城君と。トビーを取りもどすって。
トビーはあなたの子じゃないの。それに、あなたはこの時代を生きるものじゃない。だからトビーの面倒は私たちに任せて。
(いいんだ、舞。これでいいの。約束は守れたんだから、あとはただ琥珀を倒……)
「お姉ちゃん!」
はなの叫ぶ声がした。その声に我に返ってみると、トビーが京姫の肩の上でウーウーと唸り声をあげているのもまた聞こえてきた。まるで京姫の左肩越しに、姫の背後にいる何者かを威嚇しているかのように。
「お姉ちゃん、あぶな……!」
右肩に何かが当たったのを京姫は感じた。硬く冷たいその何かは当たった勢いのままに姫の衣装を破り、皮膚を裂き、肉を貫いたようだった。じんとした疼きを、京姫は皮膚で守られているべきところの内側に感じた。
翡翠の瞳が大きく見開かれた――
「お姉ちゃん!!」
京姫の上半身は大きく闇にのけぞってから前方に倒れ込み、倒木の幹にもたれかかった。もう体は動かなかった。
姫は右肩から広がっていく痺れがたちまち全身に伝わり、手足を鉛のように重たくするのをただ待つことしかできなかった。瞬きさえも意のままにならず、呼吸がうまくできなかった。息をしようとして口を開くと舌先がぴりぴりと乾いて、感覚を剥ぎとられていくようだった。それなのに右肩からだけは焼かれるような痛みが留まり続けて去ることがない。乱れた呼吸にあわせて、小刻みに視界が揺れている。樹々と葉と闇。でも、これは風のせいかもしれないし……
『姫さま、応答してくだされ!姫さま!』
左大臣の声がする。
『舞?……舞?!』
これは玲子の声。いつになく取り乱しているようだ。でも返事ができない。
「あー、痛かったですかぁ?ごめんなさいね」
……誰?
京姫の視界に映ったのは、倒木を踏む足であった。爪を宝玉のように白く塗った、褐色の美しい素足だ。細く引き締まった足首には金の環が幾重にも飾られ、その踵は緋色の豪奢な裾が覆い隠している。女の素足だろうと思われたが、無論尋常の女ではない。素足でこんな山道を歩けるはずがないからだ。それにこの足は歩いてきたにしては、あまりにも清潔すぎる。
くすり、と笑い声が頭上から聞こえた気がした。
「こんばんは、お姫さま。そして突然ごめんあそばせ。でも、いまあなたに琥珀を倒されるのは、あたし的にはちょっと困るんですよねぇ。もっと大虐殺をしてもらわないと、人々の『きょーふ』は集まらないじゃないですか。『きょーふ』こそが『信仰』の源ですもんね」
京姫はぞっとした。この女の声は芙蓉の声ともまた違う。芙蓉の声は毒を含ませた絢爛な絹であり、美麗な外見の裏にどこまでも毒の重さを引きずっていた。だが、この女の声はまるで毒の重みをはなから感じていないかのように、鮮やかなまでに跳躍して、軽薄に響く――それは生命の重みを知らぬ、というより全くもって知ろうともせぬゆえに成せる業である。しかし、まるで聞き覚えがない声なのに、すでに知っているようなそんな気がするのは一体なぜだろう。
そこまで考えたところで、一瞬意識が遠のきかける。素足の女は再び笑う。
「ふふ、だいじょーぶ!死ぬほどの毒じゃありませんから。まっ、せいぜい一週間ぐらい寝ててくださいな。あっ、苦無は返してくださいねー。引き抜くときちょっとチクっとしますけど、まっそこはガマンガマン!女の子ですもん、ねっ?」
屈みこむ影が視界に触れた瞬間、ほろほろと崩れ始めていた視界はついに闇に溶け去った。と、同時に激しい痛みが右肩に走り、京姫は「ああぁっ!」という自分の苦悶の悲鳴を聞いた。女の嬌声が毒花の香のように闇に広がって咲いた。
「だーめ、泣かない泣かない。せっかくのきれいな顔が台無しですよー?……あーもうっ!そんなかわいい声出されると、見たくなっちゃうじゃないですかぁ」
褐色の足先が頬に触れたような気がした。そのまま顔を蹴られて、姫の体は仰向けにひっくり返されたようだ。自分の体のことなのにどうなっているかがもうわからない。視覚が失せて、触覚が失せて、最後に残ったのは聴覚だけだ。それも次第に失われつつある。
「ふふ、かわいい顔……もっといじめたく……う……」
トビーが近く唸り吠えたてている声が聞こえてくるが、それ以外の物音は途切れ途切れでうまく聞こえてこない。ああ、トビーお願い。ちょっとだけ静かにしてて……
「あー、うるさ……だか……ぬは……なんで……」
「おね……ん!」
『舞……へん……………こは…………た!』
「……めさ……!……さま……!」
「姫さま!しっかりなさいませ、姫さま!お返事を……返事をなさいませ!」
うつろな瞳で横たわる京姫を揺すぶりながら左大臣が呼びかける時、京姫の唇がかすかに動いた。左大臣にはただ葉を伝って落ちる雨滴を受けただけと思われただろう。たとえ聞こえたとして、左大臣は安堵できなかったことであろう。多くの人が必死に京姫を呼ぶなかで、姫は誰に応ずるわけでもなかったから。姫はただ、遠い夢のなかにいる人の名を呼んだのだ。痛みと苦しみのなかでただ会いたいと思ったその人の名を。
「結城、君……」




