第四十七話 トビー奪還作戦!(上)
雨の音が聞こえる――
「トビちゃん、元気かな」
資格取得のための勉強だといって、分厚いワークブックの上でペンを動かしていた母がふとつぶやく。司はソファの上で洗濯物を畳みながら決してそちらを振り見ようとはしなかった。母親は続けて溜息をつく。
「トビちゃんのためにはよかったのかもしれないけど、うちとしてはさびしいねぇ」
「別に……世話が大変だし」
トビーは元の飼い主が見つかったから返したなどという嘘を、聡明な母が信じているとは到底思えない。それでも病院から帰ってきた朝、司がそう告げたとき、母は「そうなの」と言ったきりそれ以上何も言わなかった。母はきっと何かを察したのだと司は信じ、心密かに感謝もした。だからこそ、今こうして子犬の話を蒸し返してくる母には苛立ちとともに不信感を覚えた。
「絶対取りもどすからね」
京野舞がある日、そう言った。昼休みにひとり図書室へ向かおうとしていた司をわざわざ追いかけてきた舞は、息をはずませながらも強くまっすぐな瞳で司を見据えていた。澄んだ翡翠の瞳だった。その瞳を黙って見つめ返しているうちに、司は以前ほどこの少女に嫌悪感を抱いていない自分に気がついた。かといって決して好感を抱いているのでもなかったが、いつのまにかこの少女は司の胸をかき乱さなくなっていたのだ。
「トビーちゃんの居場所ね、見つかったの。トビーちゃんはね、今、北山にいるの。琥珀と――あの大きな狼と一緒に。でも、トビーちゃんは、私が絶対取り返すから。だから心配しないでね、結城君」
恐らく自分でも意識しないうちになのだろう、舞は司の手を取って両手でひしと握りしめていた。クラスメートに見られでもしたらどんな噂が立つか恐ろしいところだが、幸い図書室へ続く渡り廊下に人気はなかった。少女の手のわずらわしいまでのやわらかさと熱さと小ささとを、司は冷えた右手に押しつけられていた。それは子犬のぬくもりをも思い出させた。
「……どうでもいい」
司は目を逸らして、舞の手をそっと払いのけた。
「僕にはもう関係ないことだ」
ああ、同じことを言った。あの雨の夜に――あの時は父親のことについて。そうか、僕には関係がないのだ。子犬のことだけではない。実の父親のことさえもが、この僕には……
「そんなことないよ」
舞は格別むきになるわけでもなく、司の拒絶にも怯まず毅然としてそう言った。
「だってトビーちゃんは結城君の家の子だもの」
「拾っただけだ。野垂れ死にさせるのも忍びないから……あの怪物と生きられるならそれでいいだろう」
「よくないよ」
「どうして」
「だって……だって、私たち、琥珀を退治しなきゃいけないもの」
司がはっとして舞の顔を見遣ると、今度は舞の方が顔をうつむかせた。小さな肩の震えが、瞳にかかった前髪の先までをも揺らしていた。
「琥珀はトビーちゃんのお世話をしてる。でも、大勢の人を殺したし、これからもきっとそうするから、倒さないといけないの。私は京姫だから……」
舞はその先を言わなかった。だが、司の耳にはその先の言葉が降ってきたかのように思われた。雨滴のごとく。雨宿りの木の洞のなかで、いつしか聞いたことのある言葉が。
『そう、だから仕方ないのかな。みんなのためだから……』
(僕はあの時、初めてあの少女を……)
「司、テーブル片づけて。お茶にするから」
母親の声で我に返った。膝の上には乾燥機をかけたばかりのバスタオルがまだ広げたままで置いてある。タオルを畳み終えた司がテーブルの方へ寄っていくと、母親が勉強のためにかけた近眼用の眼鏡の奥でいぶかしげに目を細めながら、テーブルの上から取り上げた本の表紙を眺めていた。司はあっと思った。
「『琥珀伝説の研究』?まーた古そうな本を借りてきて。琥珀ってあの琥珀?狼の?」
「……知ってるの?」
「有名だもの。日本版オオカミ王ロボでしょ?子どもをさらわれて取り返しにきて殺されちゃうのよね」
――狼を信仰する風習は日本各地にみられるが、狼が主人公となる伝説は全国的にもめずらしく、取り立てて山深い土地でもない桜花市にかような伝説が残されたことは極めて興味深い……琥珀伝説が長くこの地に語り継がれた理由のひとつには、命がけで我が子を救い出さんとしたあわれで勇敢な父狼の物語がひとびとの胸を打ったということがあっただろう――本のなかにそんな文章があったことを司は思い出した。
(琥珀はなんのためにトビーのやつを世話してるんだろうか。自分の子と錯覚してるんだか、自分の子の代わりなのだか……)
「……それで結局、琥珀の子も殺されたんだろ?」
母親はぱらぱらと本を捲っていたが、司が尋ねると「ん?」と小首を傾げてから思い出して言った。
「ああ、そうねぇ、ううん、違う違う。たしかお清の方が引き取って世話したって話よ。琥珀が殺されてすぐに杣谷勝忠が病気になってね。勝忠はその病気が原因で亡くなるんだけど、それがどうも琥珀の祟りらしいって噂が流れだしたの。それでお清の方がせめて琥珀の子供たちだけでもりっぱに育てあげて、琥珀の供養をしようって」
「ふーん」
では琥珀は我が子を守ったのだ。命と引き換えに――司は何となくざわつきはじめる胸を鎮めながら、母がテーブルを片づける手伝いをした。窓の外の雨の音に、遠からぬ記憶の声が紛れないように気をつけながら。
僕たちはね、その方がお互い幸せでいられるんだ。偶然すれ違っただけだと思い込んでいる方が。親子なんかじゃない方が……
「ルカせんせーい、玲子せんせーい、京野さんがさぼってます!」
「ちょ、ちょっと、言いつけないでよー!」
慌ててパソコンの画面に覆いかぶさる舞であったが、翼と奈々が脇から容赦なく引き剥がそうとする。それは、とある午後、もう日が傾きかけてきたころの白崎家の一部屋でのできごとである。
「なに見てたの舞ちゃん?エッチなサイト?」
「エ、エッ……?!ち、ちがいます!そんなの見ません!」
「ほら、仕事さぼってた罰だから。見せて見せて」
「だいじょーぶ。ルカさんも玲子さんも今いないから怒られないって」
翼と奈々に説得されたのだかそれとも強制されたのだか、舞は羽交い絞めにしていたノートパソコンを仕方なく解放して、こっそりと眺めていたものをおとなしく翼と奈々の前に示した。ぱちぱちと睫毛をしばたかせながら見つめるその先には眼鏡をかけた品のよい男性の写真が掲げられている。
「誰これ?結城要……?」
「もしかして結城のお父さん?」
翼の声に、舞はこくんとうなずいた。結城要――水仙女学院大学公式サイトの写真は今より少し若い頃のものだろうが、微笑み方がどことなく覚束ないようにみえる。まるで心から笑ったことのない人が、笑いの形をなぞっただけとでもいうような。写真と名前のかたわらに書かれた紹介文を奈々が声に出して読み上げる。
「えーっと、英文学部准教授、専門はブロンテ姉妹を中心とした19世紀英文学、っと。ふーん……まっ、とにかくよくわからないけど、顔は結城に似てる感じがするね。目元とか」
「水仙女学院の先生なんだ。すっごーい」
「うん。でももう来年からは他の学校に行くんだって。結婚して、もうすぐ他の街に引っ越しちゃうし……だから、結城君にちゃんと伝えてほしいなってそう思ってるんだけど…………」
舞の目は、結城要の名の下に示されたアルファベットの羅列を知らず知らずのうちに辿っていた。yukiからはじまるその文字列は結城要准教授の大学のメールアドレスであり、准教授に連絡がとりたい者は誰でもそのアドレスにメールを送れるようになっていた。誰でも――たとえ個人的な要件で話したい者であっても?
(余計なおせっかいだよね……結城君だって絶対嫌がるもの。それに、そもそも私に何ができるっていうの?)
思いつめたような舞の表情に、翼と奈々は顔を見合わせる。
(でも、伝えてほしい。ううん、絶対に伝えないと――お父さんの言葉)
「なにか動きはあって?」
背後から突然声をかけられて三人は飛び上がった。なにも仕事をさぼっていたのは元はといえば舞だけなのだから、翼と奈々はびくびくする必要はなかったのだが。ルカに扉を支えてもらいながら部屋に入ってくる玲子の目が、眼鏡越しにほんの一瞬、パソコンの画面をとらえたような気がしたが、翼のすばやい動きがすぐさま画面を切り替えた。
「う、ううん。と、特にはなんも……!」
「先日調べて知ったんだが、狼というのは薄明薄暮性といって、明け方や暮れ方に活動するそうだ。琥珀のやつもそろそろ動きはじめるころかもしれないな。注意して見ていなければいけないよ、舞」
ルカにウィンクされて、舞は思わず顔を赤らめて目を逸らした。どうやらばれていたようだ。
舞たちの目下の任務は、北山にある琥珀の縄張り近くに仕掛けられた十数台のライブカメラ(ルカが購入し、左大臣と柏木が命がけで設置した)の映像をノートパソコンから常時監視することで、琥珀が街へ降りるようなことがあればすぐさま対応できるようにしておくことなのである。
が、一日中眺めていても琥珀の姿は映り込まない。ならばリスでもタヌキでも映ってくれれば少しは退屈がしのげそうなものであるだが、何か動いたかと思って期待してみると風が木の葉をそよがせているだけなのである。健全なる中学二年生の少女が飽きはじめるのも無理はないのであった。と、そんなところで舞はチョコレートクッキーをかじりながら、昨夜母親に聞いた話を思い出したのだ――そういえば、司君のお父さんは水仙女学院の先生だったわね。
「さて、玲子とも今話していたんだが、相談がある。パソコンから目を離していいからこちらに集まってもらえるかい?」
舞たちがノートパソコンをそのままに丸テーブルの周りに集まると、ルカは玲子と自分の分の紅茶を注いでから席につき、脚と腕を組んで切り出した。
「このまま琥珀が動くのを待っていても仕方ない。私たちにはすべきことがあまりにも多く、時間には限りがある。私たちは漆の行方を探らなくてはならないんだ。いつまでもPCの前にはりついているわけにはいかないさ」
それはもっともだと三人の中学生たちもうなずいた。ルカは続ける。
「琥珀はなぜだか動かない。左大臣の話だと、琥珀は結城司からさらった子犬の世話にかかり切りになっていて今は復讐どころではないそうだ。このまま山の中に引きこもっていてくれればいいんだが、そうもいかないだろう。やつは普通の狼ではない。やつは憎悪と復讐の獣――いつ人間を再び襲ってもおかしくはないんだ。そしてもし、新たな犠牲者が出た時は……その時は何もしなかった私たちの責任だ。無論、誰が責めるわけでもないが」
ルカは丸テーブルを囲む少女たちを見渡して低く言った。
「次なる犠牲者が私たちの友人や家族でないという保証はない。以上の理由から、私は一刻も早く琥珀を倒すべきだと考える。異論はあるかい?」
誰も答えなかった。舞だけがきっと胸のなかでこっそりと付け足したのだろう――それに、トビーちゃんを早く取り返さないと、と。
「なら結構。では次の話題に移ろう。具体的な作戦をどうするかということだが、先ほど玲子と相談してひとつ考えてみたんだ。君たちの意見を聞かせてほしい」
「この作戦ではそれぞれ分かれて行動することになるわ。まずは青龍と玄武、あなたたちには勢子の役割をしてもらうわ」
「セ・コ?」
翼と奈々が同時に聞き返す。
「つまりは琥珀を塒から追い出す役よ。琥珀が飛び出してきたら今度は白虎たちが琥珀を麓の方に追い立てる。ルカ、地図を出して」
「街とは反対側の麓、地図でいうとこの辺りだな。ここにちょうど開けた場所がある。ここに私たちが琥珀を追い立てる」
「京姫、左大臣、柏木はこの場所で待機よ。琥珀が山を降りてきたら京姫が琥珀を仕留める。左大臣と柏木が援護をするわ」
「玲子さんは?」
すかさず奈々が尋ねる。
「私はこの場所で指揮をとるわ。現場にいても邪魔になるもの」
と、玲子は自嘲気味にもならずに答えた。それから眼鏡の奥から皆の顔を見回して、
「他に何か?」
はい、と翼が手を挙げた。
「ひとつ気になったんですけど、『白虎たち』だとか『私たち』だとか誰のことですか?皆の名前は全部挙がりましたよね。じゃあ白虎と一緒に琥珀を追い立てるのって……」
ああ、と低くつぶやいたルカが、金のティースプーンでティーカップを叩く。鈴のような音が鳴り響いた後で部屋の扉が開き、二頭のボルゾイ犬が幻影のようにすっと現れて、軽やかな足取りでまっすぐに主人の元へと向かってきた。立ち上がって愛犬を迎えたルカは、二頭の間にしゃがみこみ、その首のあたりに手をかけて微笑みながら、唖然としている舞たちの方を見遣った。
「『私たち』さ。ボリスとアンドレイは狼狩りの名手だからね。きっと力になってくれるはずさ。ああ、心配しないでも、もちろん掠り傷ひとつ負わせるつもりはないよ」
「えぇ……」
一同が呆気にとられているなか、舞は白馬のような美しいボルゾイ犬の姿から似ても似つかぬまん丸の子犬を思い出していた。ふと、舞は気づいた。
「トビーちゃんは?トビーちゃんはどうするの?」
いまひとつ目線を合わしきれぬままに舞が玲子に訊くと、玲子もまた紅茶に目を落としたまま、
「作戦中はひとまずは琥珀退治が優先よ。作戦が終了し次第、山中を捜索しましょう。恐らくは琥珀の塒にいるはずよ」
「こまちゃんに確保しといてもらおうか?あたしたちが琥珀と戦ってるあいだ、こまちゃんがトビーを守ってくれるよ」
「大丈夫ですか、それ?こまちゃん、トビーちゃんを食べたりしませんよね?」
「へーきじゃない?たぶん」
「たぶん……」
青ざめた顔で繰り返す舞に、大丈夫大丈夫!といつもの根拠のない自信に満ちて奈々は笑う。せっかく琥珀を倒せてもトビーが木守に食べられてしまうようなことがあれば……舞は司に合わせる顔がなくなってしまう。それだけは絶対避けたい。こまちゃんには作戦の前にたらふく美味しいものを食べておいてもらうことにしよう、と舞は心に決めた。でも、何がよいのだろう。
「舞」
玲子の静かな声が舞を不毛な物思いから醒まさせた。いつのまにか、翼と奈々は両隣の席を離れて犬と戯れはじめている。丸テーブルをはさんで向かい合っているのは舞と玲子だけだった。
なにげなく顔を上げたせいで、舞と玲子の目があった。舞は不意を突かれたように「あっ」と思ったが、そのまま目を逸らすことはできなかった。
「手紙は読んで?」
「えっ。あの、その……いいえ」
「そう」
特に驚きも落胆もしないらしい。特に意外にも思わぬということは、玲子は舞の臆病さをよく知っているということかもしれない。舞は玲子の胸のうちをまるで知らないというのに。舞は急に居心地の悪さを感じはじめた。
(玲子さんはどこまで知ってるのかな。司が変わっちゃった原因が玲子さんなら、もしかして玲子さんは……)
「……玲子さんは、この人を知っていますか?」
舞が丸テーブルにノートパソコンを載せて示した画面に、玲子は目を細めた。返事はごく簡潔だった。
「えぇ」
「司の家族はどうして変わってしまったんですか?……ううん、それはもういいの。ひとつだけ教えてください。司を前の司に戻すことはできますか?」
玲子は細めたままの目をゆっくりと舞の方へもたげて、しばらく考え込むような表情をしていたが、やがて言った。
「可能性はゼロではないわ」
「できるってことですか?」
「いいえ、そうも断言できないけれど。言葉通りよ。可能性はゼロではない」
玲子は車椅子の上で居ずまいを正した。
「舞、一人の人間が、経歴から人格まで変わってしまうなんて、かつての私たちには考えられないことだったの。それが現実に起こってしまった。可能性がゼロだと思っていたことが起こった今、その反対のことが――結城司が以前の結城司に戻らないだなんて、誰が断言できて?」
「……私が欲しいのは、そういう答えじゃないんです」
舞は胸のなかに徐々に温かく、そして熱く滾りながら、蟠ってくるものを感じていた。それはふつふつと涌いてきて、舞の体と心の、ちょうど外界に接しているところの輪郭をぼやけさせた。舞は自分の感情以外のすべてが曖昧になっていくような気がした。感情自体も舞には得体の知れぬものであったが。風邪を引いて熱を出し始めたときの不愉快に、それはよく似ていた。
「私にその能力があるかということね。あるいは私がその方法を知っているか」
「はい……」
「ならば答えはノーよ。私にはできない。どうすればよいかもわからない」
やはり駄目なのだ。舞はうなだれて太腿の前で細い指をきつく絡め合わせた。もちろん舞だって期待していたわけではなかった。もし仮にそんな方法があるとして、実行したかどうかもわからない。結城司を以前の司に戻す――それはもはや舞にとっては、舞が以前の司を取り戻すことではなかった。ただ司だけが元の明るさと幸せを取り戻せばいいのだ……たとえ舞がその隣にいなくとも。
「舞」
ボルゾイたちと戯れていたはずの奈々たちの歓声が聞こえなくなっていた。部屋の空気が弓弦のように引き絞られて、張りつめている。玲子の声が沈黙をかき鳴らした時、舞はそこに聞き覚えのあるひとつの調べを聞いたような気がして、顔を上げた。
「もし結城司が以前の結城司に戻れば、あなたは幸せになることができて?」
私の幸せ……?
「……わかりません」
「では、貴女はどうすれば幸せになれるのかしら?」
「私は……」
感情とそれ以外の輪郭さえわからなくなってしまった。そもそもなぜこんなことを考えているのだろう。私が幸せになることと、結城君が幸せになることと、どんな関係があるっていうの?そう、私たちの幸せはもう「関係がない」んだから……
『幸せに、なって…………』
舞ははっとした。おぼろげになっていた視界のなかに、こちらをまっすぐに見つめる玲子の姿だけが鮮明に見えた。まるで噴水をはさんで向かい合っていることに気づかずにいたのに、ちょうど水が途絶えたことで、相手の存在をはっきりと認められるようになったみたいだった。その噴水の名はあるいは忘却ともいったかもしれない。
「すざ……」
……けれども、再び水は噴きあがる。
舞のなかにはひとつの感情が確かにそこに存在したのだという名残とも言えぬほどの名残だけが、小鳥の足跡よりも微かに、そこにとどめられていた。舞は夢から覚めたように当惑して、瞬きをした。
玲子はゆるりと舞から視線を外して、カップのなかの紅茶の波に瞳を預けている。代わりに翼、奈々、ルカの目が心配そうに舞を見つめていた。舞はしたたかに微笑まなければならないことを知った。
「私は……琥珀を倒さなくちゃ」
それから舞はルカの方に向き直って言った。
「ルカさん、作戦はいつなんですか?」
「あさってかぁ。急だねぇ」
白崎家からの帰り道、奈々が頭の後ろで手を組みながらつぶやく。すでに肌寒くなりつつある今日このごろ、通りを並んで歩く三人の少女たちは銘々お気に入りのコートを羽織っていた。奈々は受験生なのだからと家族に心配されて、妹たちが編んでくれたマフラーまで巻いている。舞が首をかしげる。
「でも、なんであさってなんだろう?」
「あさっては満月ですもん。それに予報だと天気がいいし。ほら、山の中は真っ暗でしょ。月の光でもなくちゃ、あたしたち、戦えないじゃないですか。琥珀はにおいでわかるからいいかもしれないけど」
翼の説明に、舞と奈々は「なるほどー」と声をそろえて感心している。翼は呆れたように肩をすくめた。
舞はふと空を見上げた。今もなお残照は溶け残りのように夜の底に沈殿していたが、はるか天頂では星の微細なゆらめきまでもが手に取るようにくっきりと見え、それはちょうど夜そのものが、その天鵞絨のようになめらかな漆黒の皮膚に夥しい星を象嵌された痛みを、涙ぐみながら訴えているようであった。そして、午後から薄い膜のように浮かんでいた乳白色の月は、触れても凛と硝子質の肌で弾き返しそうな、冷ややかな硬さに満ちていた。満月まであと二日――
「舞」
翼の声に顔を下ろす舞。翼はしばらくもじもじしていたが、やがて意を決したように言った。
「絶対にトビーを取り戻そうねっ!そしたら結城のやつにも伝わると思うんだ。舞がどれだけあいつのことを好き勝手こと」
「翼……!」
舞の頬がほの赤くなる。
「あたしね、思ったんだ。今日の玲子さんとの会話を聞いて。やっぱり舞は結城のこと諦めちゃいけないって。だって、舞は結城のこと、本当に大切に想ってるんだから。だから、あたしたち、協力するからねっ!」
翼の空色のコートの肩のあたりで奈々も明るくうなずいた。
「そうそ。こまちゃんには絶対タビーを食べさせたりしないからさ。安心して!」
「トビーですけど……」
そうだ、私はトビーを取り戻さなければ。舞は少し長い袖のなかで小さく拳をぎゅっと握りしめる。翼と奈々はああ言ってくれているけれども、たとえ結城君と結ばれなくったっていい。でも、あの雨の夜に、明るい昼休みに、「僕には関係ないことだから」、そう言った結城君だけは救いたいの。トビーを手渡して、笑いながら言ってみたい。関係はまだあるんだよって。伝えたいの。結城君のお父さんは、結城君のことを――――
「素直に伝えればいいのに。愛してるんだって」
ノートパソコンを見つめる玲子の車椅子の背もたれに腰を預けて、ルカはソーサーからティーカップを摘まみ上げつつ呟いた。
「誰の話?」
「もちろん君だよ」
「そう。何のことか思い当らないけれど」
「無論、舞に対してさ」
玲子は何も答えない。答えられないのか、それとも答える必要もないと思ってのことであるのか。ルカはもう一押しすることに決めた。
「君は舞を愛してる、心から」
「似つかわしくないわ、そんな言葉は」
玲子はむきになるでもなくただ静かに切り返す。
「些末なことではなくて?私の感情など……舞の関心は私の行為にあるのだから」
「そんなことはない。舞は君がどうしてそうしたのか、それをとても知りたがっているよ」
「知ったところでどうなるというの」
玲子の表情が見たくて、ルカは部屋の窓に目を投じた。夜の闇を支える窓硝子はシャンデリアのきらめきばかりを宿すことに夢中で、背中合わせになっている友の顔を映してはくれなかった。
「煩わしいだけよ、行為と感情とが一致していない場合は。少なくとも舞には一致していないように見えるはずだもの。私が舞を愛していながら、舞の愛する人を奪っただなんて」
「それでも伝えることには意味があるんだ」
ルカはゆっくりと丸テーブルの方に歩いて空になったティーカップを置くと、次々と切り替わるライブカメラの映像を、遠目にはただ夜空に薄緑の雲がかかっているようにしか見えない山のなかの景色をひたすらに眺めている玲子の肩に、腕をまわした。後頭部に頬をすり寄せて、玲子の髪を結い上げているバレッタに長い指で戯れかかると、燃え立つような紅の髪はするりとほどけて、白いうなじを覆い隠した。長いこと結い上げた髪のなかに絡めとられていた香りが、こぼれて広がった。
「……愛してるよ、玲子」
ルカはバレッタを抱える手を再び玲子の右肩にまわしてささやいた。
「……」
「ねぇ玲子、信じて。今、こうして想いを伝えても君の胸はかき乱されない。でもいつか、私の言葉が君を救う時が来ると私は信じている。誤解しないで。それは君が私を愛してくれるとか、そういう意味じゃない。それでも救うんだ。誰かに愛されていたということが、君を。そして舞を」
ルカの吐息が思わぬところでひとつ揺れた。
「だから私は構わない。たとえ今、君が私を煩わしがっていても」
「……煩わしいわけではないわ」
決して平静なだけではない口調で玲子が応える。
「貴女のことは大切に想っている。前世からずっと」
「そうだろうね……だから君は白虎を手にかけた」
「えぇ、人を殺したわ。貴女のために」
ルカの右手にかかった指は、ルカの手を握り返そうとしたためだろうか。それともただバレッタを取り返そうとしただけか。
「……そう、だから私は現世を生きていられるんだ。玲子、わかっただろう?銃弾で、あるいは言葉で、想いを伝えることで人は救われる」
玲子は何かを言いかけたようだった。たとえば、私は想いを伝えたわけではないわ、だとか。私はただ貴女を撃ったのよ。貴女を殺したの、だとか。しかし、玲子の唇が動く前に、ルカは人差し指だけをすっと伸ばして、玲子の唇に押し当てた。そして見えないことを知りながらも微笑んだ。
「私のことを持ち出せば話題を逸らせると思ったのかい?その手は食わないよ。もう慣れてしま……」
玲子がはっと息を呑むのを間近に聞いて、ルカはバレッタを持った手に縋る指が求めるままに顔を上げた。玲子の指はぱっとルカの手を飛び立つと、キーボードの上で何やらせわしなく動いた。とあるカメラが捉えた山中の映像が巻き戻されていく。
「動いたか?」
「わからないわ。ただ……」
画面の端に表示された白い数字が数秒前の時刻に遡る。玲子の手が止まると、薄荷色の闇は一瞬静止したのち再び動きはじめる。闇のなかに風にそよぐ枝と葉、苦悶するかのように螺旋を描いて飛ぶ羽虫の影が描き出されたかと思ったその次の瞬間、燃え盛る星を連れた風が全てを薙いだ。
わずかなキーボードの操作で、再び映像は巻き戻った。ルカは玲子の車椅子の背もたれに手をかけて前のめりになり、玲子はまっすぐな姿勢だけは保ったまま、食い入るようにスローモーションで再生される映像に見入っていた。燃え盛る星を連れた風――それはまさしく巨大な美しい神なる獣が、憤怒して駆ける姿であった。
「琥珀……!」
その時、玲子の携帯電話の着信音が鳴り響いた。玲子は右手でキーボードを操ってカメラを切り替えながらも、すかさず電話に出た。
「お嬢様」
「何かあって?」
「琥珀の奴がちょうど今しがた山を駆け降りていきました。街の方へ向かう様子です」
「琥珀が街に……?」
玲子のつぶやきにルカははっとしたように窓を見遣るなり、大股で窓の方へと歩み寄り、バン!と勢いよく窓を開いた。シャンデリアの輝きばかりを悠長に映し出していた窓はいつのまにか降り出した雨音を遠ざけ、か細いその姿を闇に紛らわせてしまっていたのだ。ルカは眉をひそめた。
「わたくしは今から車で街へ向かいますが、目視での追跡は不可能だと思われます」
「わかったわ。とにかく街へ……いいえ、待って。追跡が不可能というなら今すぐ舞の家へ行って。琥珀については四神たちで対応するわ。ルカ」
電話を切った玲子が振り返ると、窓辺に立つ人はすでに白虎となっていた。折しも吹きつけてきた風が白虎の髪と白い外套とをはためかせた。シャンデリアの灯影が揺れる。
「琥珀討伐は貴女たちに任せる。舞は北山に向かわせるわ」
「北山へ?なぜ?」
「琥珀がいない今こそ例の子犬を取り返す絶好の機会だもの。子犬を確保したらすぐにそちらに合流するわ」
「それまでに片を付けておくさ」
微笑む白虎は窓枠に足をかけて、それからふと何かを思い出したかのように駆け戻ると、すでにパソコンに向き直っている玲子の手にバレッタを押し当てた。その直後、白虎の唇が玲子の頬に触れかけてふと離れたが、玲子の瞳がその唇を追う動きのままに白虎の後ろ姿を追った。
再び目が合った時、玲子は何かつぶやきかけてためらい、言った。
「……桜花市内の全ての監視カメラの映像にアクセスしたわ。琥珀を見つけ次第連絡する」
「わかった。行ってくるよ」
白虎が窓から発ったあとで、玲子は瞳を次々と切り替わる膨大な監視カメラの映像へと投げかけた。投げかけながら玲子は手早く髪を結い上げて、手渡されたばかりのバレッタで留めた。




