第四十六話 My Father's Eyes(下)
雨の音が聞こえる――
「結城君のお父さん?!」
「お父さ……」
司は舞の言葉をその意味をまだ正しく呑み込めていないようすで、そのまま、うつろに繰り返した。口を覆っている舞と司の目が合ったあとで、司は口を開きかけてまた閉じ、舞の腕に抱き起されている男性の顔をじっと見つめた。
「この人が、僕の……」
勢いよく顔を上げた司の目に猜疑と怒りが燃えていた。その表情に、舞は苦しいほどに見覚えがあった。いつもそうだ――司とあたたかな静かな時間を過ごしたあとには必ずこんな風な心冷える決裂がやってくる。その原因はいつも決まって自分のせいだ。
「京野、お前がなぜ……!」
しかし、続く司の言葉を、男性の低いうめき声が遮ってしまった。少年と少女とは同時に男性を見下ろした。その時初めて、舞は男性の眼鏡が割れていることに気がついた。
白くひび割れた眼鏡の奥に、薄紫色の光がぼやけた。舞と司が見守る間に、男性は低くうめき、舞に助けられながらも身を起こしつつ、時折顔をしかめては頭やら腰やらに手を伸ばしかけた。打ちつけたところが痛むらしい。
「あれ、僕は……?」
とかすれた声で言って、男性――否、司の父親は、ようやく舞と司の存在を認めたらしかった。割れた眼鏡を外して、司の父親はまず舞をまじまじと見ると「ああ、舞ちゃん」と言った。それから、司の方を向いて、今度はまじまじと見つめることもなく、
「……司」
ほっとしたように、けれども少しさびしそうに微笑んで。
「無事だったんだな、よかった」
そして、ふっと息子から目を背けて立ち上がる。
なおも舞と司とはまだ地面の上にしゃがみこんだままであった。二人の視線は同じ高さにあるはずなのに、もう司の目は舞を捉えていなかった。司の目は父親だという男性がつい先ほどまでいた空間に、まるでまだそこに父親の姿が残っているかのように、貼り付けられたままだったのだ。一方の舞は残像を追っていた。立ち上がったスラックスのポケットに、皺くちゃになった手紙が押し込まれていて、その端がはみ出ていたのが確かに見えた。
司の父親はすでにこちらに背を向けて、通りを歩んでいくところであった。我に返った舞が呼び止めても振り返ろうとしない。舞は雨に濡れた睫毛をしばたかせるうちに、司の父親が向かっている先に、くらげのような、白い、おぼろなものが転がっているのに気がついた。開いたままのビニール傘だ。
「ま、待ってください!」
舞の言葉がようやく傘のない司の父親を立ち止まらせる。降りかかる雨の重みで白いシャツが灰色に染まっていくのが遠目にもわかる。それでも舞は止めなければいけないと思ったのだった。
「あの、結城君に伝えることは……!」
「ないよ」
取り立てて声を張り上げたわけでもないのに、短い言葉は低く確かに舞たちの耳に届いた。残酷なまでに確かに。
「何もない。今まで僕は父親ではなかった。だから、これからも父親ではいられないんだよ」
「でも……!」
でも、私には言ったじゃない。伝えたいことがあるって。伝えなきゃいけないんだって。あの言葉は何だったというの?あの時の言葉に嘘はなかったはず。なぜこんなにもあっさりと挫けてしまうというの?
まるで舞の胸の叫びを聞きつけたかのように、司の父親は片頬だけで振り向いた。
「僕たちはね、その方がお互い幸せでいられるんだ、舞ちゃん。偶然すれ違っただけだと思い込んでいる方が。親子なんかじゃない方が……」
口調こそ優しいものの、そこには大人が子供に道理を押しつけるときの冷徹な疲労が顔をのぞかせていた。次の言葉だけには心がこもっていたのかもしれなかったが。
「さよなら舞ちゃん」
「待っ……!」
「やめろ」
静かな司の声に制されて、舞は口をつぐんだ。立ち上がる司の肩越しに遠ざかる影を見守りながら、舞はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。全ての親子が親子であるというだけでは幸福になれないのだとは、舞にもわかっていた。親子であることで不幸になる親子もいるだろう。けれども、結城父子の場合は本当にそうなのだろうか?同じ親子が幸福な父と子として暮らしていた光景を舞は見ていたのだ。
立ち去る人は屈んでビニール傘を拾い上げると、角を曲がって見えなくなった。まるで初めから幻であったかのように。少女と少年だけが、顔を突き合わすことさえできぬままにそこに取り残された。これほどまでにお互いの存在に居心地の悪さを感じながら、そして雨に降られながらも、二人は一歩たりとも足を動かせず、その場から逃れきれないでいたのだ。舞はかつてないほどに重苦しい気持ちを、突然渡されて降ろすことのできない荷物のように抱えて立っていた。雨が首筋を伝って襟の内側さえをも冷たく湿らせていく。
「……もう帰れ」
ようやく司が口を開いた。
うなだれた司の黒髪が雨に濡れてつややかに光っているのを見た時、舞は鋭い痛みを胸に感じた。舞はなぜ自分が一歩たりともここから動けずにいるのかを悟ったような気がした。
「早く帰らないと、風邪を引くぞ」
「ごめんなさい……」
「……なんのことだ」
「黙ってたの、私。お父さんと会ったこと。今夜私が留守をしてるときにお父さん、来たんだよ。もうこの町を出ていかなきゃいけないから、最後に結城君にさよならを言いたかったって。それで手紙を……!」
「京野」
舞がはっとしたのは、司の声が異常に優しい声音であったからだった。いつもの容赦なく相手の想いを叩き落としてしまうような調子ではない。だが、それは決して舞を受け容れた証ではないはずだった。
顔を上げた舞は、隣を通り過ぎていく司の影がゆっくりと右肩の上を過るのを、まるで肩に触れられたかのように思った。薄く開いた下唇が雨滴を受けた。
「もういい……僕には関係ないことだから」
「結城君……」
下唇に受けた雨滴が滴り落ちる。司の影もまた舞の皮膚を流れ落ち、背後に伸びた舞の影と重なって、蝶が花を飛び立つようにまたふっと離れていく。
扉が閉ざされる音を舞は聞いた気がした。それでもその場に立ち尽くしたままでいたのは、今夜この家の窓辺でひどく傷ついた少年が眠れぬままに夜を明かさねばならないことを舞は知っていたからだ。舞に彼を救う術はなかったからだ。
(どうして結城君だけ、こんなに苦しまなくちゃいけないの?なぜ結城君ばかりが不幸にならなきゃいけないの?どうしてあの幸せだった司が、こんな風になってしまったの……?)
苦しい夢から目覚めた翌朝、白崎邸から高級車で送られて登校し、桜花中学校の生徒ならびに教員を唖然とさせた舞たちであったが、皆が騒ぐ声も舞の耳には入らなかった。司はいつもと同じように教室にいて、いつもと同じように人を遠ざけてぽつりと座っていた。舞の方を見ないのもいつも通りであった。それでも、舞はなにも出来ないままの自分でいいのだとは思えなかったし、思いたくはなかった。
封筒を開けてみる。深呼吸をひとつして辿りはじめる玲子の字。
四月十二日、私は鈴の音を聴いてあなたの元へ駆けつけました。ルカは公演のためにモスクワへ行っており、四神として覚醒し動くことができるのは私一人……
読まれない手紙が、ここにも。
「柏木殿、そのご衣装、歩きにくくないですかな?」
「いえ、慣れてしまいましたので」
柏木は答えてから考え深げに眉をひそめた。
「左大臣殿こそ、そのお姿で動きにくくありませんか?」
「いえいえ、却って小回りがきいてよいといいますか、老体より動きやす……ゴフッ!!」
なんたる奇妙な光景であろうか。オールバックにスーツ姿のいかめしい中年男性と、だいぶ古びてきたテディベアとが仲良く並んで、午後の山のなかを歩き回っているのである。ちなみに最後に聞こえてきた音声はテディべアの方がスーツ姿の男を見上げながら歩いていたために前方の倒木に気づかず顔面から衝突した音であったが、スーツ姿の男性の方は悠々と倒木を踏み越えてから足を止めて、仰向けに倒れているテディベアを見下ろした。
「ご無事ですか?」
この状況でさえ、にやりともしないのはさすがというところか。
「心配、無用、ですぞ……!」
左大臣は痛み(?)に打ち震えながらも起き上がって顔を押さえつつ答える。柏木はさっと周囲を見渡した。まだ日が高いというのに、山中は樹々の枝が幾重にも重なっているせいで薄暗く、奇妙なまでに静まりかえっている。ここは桜花市内の北端にそびえる北山と呼ばれる山で、以前は市のイベントとして筍狩りなどが行われ、市民の憩いと交流の場ともなっていたのだが、数年前に奇妙な事件が起こってからはあまり人が寄り付かなくなっていた。そのせいか、手入れもほとんどなされておらず、参道に横たわる倒木が片づけられずにそのままになっていたり、不心得者が捨てたゴミが散らばっていたり、看板の注意書きが薄れゆくままに放置されていたりもするのだが、それゆえに今の左大臣のごとき悲劇も起こり得るのであった。
柏木は磨いたばかりの革靴がぬかるみの中に沈みこんでいくのを感じてそっと足を上げた。ちょうど今しがたその上に足を置いていた泥と落ち葉は干からびて、木漏れ日を受けて白くひらめいたが、そのひらめきのさままでが、置き去りにされて長いこと風雨に曝された骸の白さに通ずるところがあった。一体なぜこんな山のなかを歩き回らねばならないのか。
「い、行きましょうぞ、柏木殿。今日こそはなんとしても琥珀の姿を見つけなければ……!」
そう、桜花市民を《《跡形もないまでに》》喰い殺していたとみられるかの魔獣を見つけるためである。作戦会議の結論としては、琥珀は日中は人気のない場所に、恐らくは山や森のなかに身を隠していて、夜になると町に降りてくるのだろうという意見が採択され、学校に通わねばならないいたいけな少女たちに代わって、その塒を探し出す使命が、光栄にも柏木と左大臣に与えられたのであった。
かくして、このちぐはぐなコンビは散策には至って不似合いな格好で以って、山中をさ迷い歩いているのである(もしこの二人にもう少し現代的感覚があれば、魔獣に出くわすことより人間に出くわす方を恐れたであろうに)が、最初の探索地としてこの北山が選ばれたのは、近隣住民から最近この山から野犬の遠吠えのような声がするとの情報が市に寄せられているためだった。
「……しかし、思えば不思議な巡り合わせですな、我々も」
命じられれば一日中物を言わぬように女主人によって訓練された柏木は、再び道を歩みながら左大臣が語り出すのにやや怪訝なそぶりを見せた。
「どういう意味です?」
「いえ、姫さまがたはともかく、我々は再び会うはずなかった組み合わせですからな。京姫と四神のみ魂は幾度も清らかな乙女のうちによみがえると言いますが……皮肉なものですな。わたくしと柏木殿はよみがえるもなにも、全く《《同じ》》なのですからな。姫さま方が前世と呼ぶ、あの時代はわたくしどもにとっては『昔』なのです」
「『昔』はこんな風にあなたと歩き回ったものです」
転がる枝を踏みつけて、柏木。
「そして悪さをしましたな」
テディベアは木の幹をジャンプして超える。
「……して、貴殿はいかにして『昔』のままこの世界に来られましたかな?」
「『昔』の悪さゆえに転生を許されず、やむなく。あなたも転生できぬがゆえのそのお体かと」
「しかし『昔』の肉体ごとこちらへ来ることは常人の業ではありますまい。そのところを詳しくお聞かせ願いますかな」
「それはできません」
「ほう、それはまたなにゆえに?」
「答えられません」
二人の足が同時に止まった。
「……朱雀殿が何かなさいましたかな?」
左大臣は釦の目に柏木の姿を映して畳みかける。かわいらしい造りが表現でき得る限りでではあったが、老獪な政治家の油断ならぬ微笑が、テディベアの顔面に写し取られていた。
「必要とあらばお嬢様は、ご自分がなさったことを全てあなたたちに話される」
柏木は三白眼を真っすぐ前に向けたままだ。
「話されないということは、可能性は二つ。あなたたちは知る必要がないか、もしくはあの方は何もしていないか」
「そのどちらなのです」
「私などにはわかりかねます」
「……柏木殿、わたくしとて単なる好奇心から聞くのではありませぬぞ」
左大臣はついに厳しい声音になって言った。
「姫さまや四神の皆さまが覚醒された、それさえも本来ならばあってはならぬこと。姫さまがたはごく普通の少女として、戦いなど知らず、前世も思い出さず、平和な日々を過ごされていたはずなのです。ましてや我々はこの世界に存在してよいはずがない。琥珀を亡霊と呼ぶならば、我々は果たしてなんですかな……そうですな、さだめし異物といったところですかな」
「異物、か」
柏木はつぶやいて、唇の端を歪めて笑った。左大臣が眉をひそめるような笑い方だった。
「言い得て妙だ」
「つながるはずのない前世と現世がつながり、異物たる我々がこの世界に存在している。これは看過できぬ事実ですぞ。たとえそれを『奇蹟』と呼びたくなるほど哀切な追憶が我々にあったとしても。なぜなら忌々しいことに、この『奇蹟』は漆のもたらしたものなのですからな」
柏木の皮肉な笑みが剥がれ落ちる。
「柏木殿、貴殿がいかにして現世に来たか、それを問いただす理由がお判りになりましたかな」
「……漆がどのようにして現世によみがえったのか、その手掛かりがあるかもしれないとでも?」
「さすがご明察」
勝ち誇り高らかに笑う老人を前に、柏木は小さく肩をすくめてみせた。しかし、それは降参のしるしではなかった。
「では、あらかじめ言っておきましょう。残念ながら何の手掛かりにもならないと」
「おや、なぜそれをわたくしに判断させてはくれぬのです?」
「私が現世にいるのは『奇蹟』ではない」
答えながら柏木は胸ポケットに手を差し入れる。取り出された銃身が木漏れ日を反射して釦の目を射抜いても、左大臣は身じろぎひとつしなかった。
「では、なにが貴殿をここに呼び寄せたと?」
「……」
その刹那、左大臣と柏木とは風の唸りを聞きつけた。二人の瞳と銃口が同時に一つ所へと向けられる。
木の間を抜けて《《それ》》は山を駆け降りてくる。それは獣というよりは牙であり、牙というよりは風であり、風というよりは憎悪であった。左大臣の目と柏木の目は確かにそれを映しているはずなのに、捉えられるのは黒煙のごとく蟠った巨大な何かと、蹴上げられる落ち葉だけである。
「柏木殿!」
「わかっています……!」
柏木は放った銃弾は遠い木の幹を穿つ。続けざまに放たれた弾もまた、木の葉を撃ち落とし、枝を散らばしたものの、すさまじい勢いで駆けてくる憎悪の影には届かなかった。
影が初めて黄金の獣の形となった時、引鉄を引くのにはもう間に合わなかった。二人はそれぞれ木陰へと飛び込んで、鋭い牙から身をかわすので精いっぱいであった。二人が先ほどまで立ち尽くしていた泥濘を、怒り狂った獣の咆哮が占めた。
「おお……!」
仰向けになって獣を見上げている左大臣が思わず声を漏らしたのも無理からぬことであった。なぜなら間近で見る魔獣は、夜の闇のなかで見るよりもはるかに巨大で神々しさに満ちていたからである。日の光を浴びて金の被毛は短い耳の先からその尾まで燦然ときらめき、むき出しになった牙のつやめきは雫が滴るかと思われるほど、声は全身の毛を逆立たせ鼓膜を圧した。魔獣より神獣との呼ぶ方がはるかにふさわしいように思われる。かの獣の緋色の眼がかくも憎しみに満ちていなければ。
「これぞ伝説の狼……!」
咄嗟に体勢を立て直した柏木の銃弾が、狼の耳をかすめた。しかし、琥珀は二発目を許さなかった。柏木が身を潜める木陰へと琥珀は猛然と飛びかかり、その巨躯のぶつかった衝撃で大樹が薙ぎ倒されてもなお、自身は平然として、逃げる柏木の姿を目で追っていた。左大臣がすかさず叫んだ。
「柏木殿!我々の手には負えませぬ。ここは一度引きましょうぞ!」
そう叫びながら駆け出した、というよりも山の斜面を滑り降りはじめたテディベアの動きを目の端に確かめて、左大臣は舌を打ちつつもすなおに忠告に従った。問題はこの魔獣が撤退を見逃してくれるかということであるが……琥珀はやはり逃げる獲物を追ってきた。
「左大臣!」
柏木は金色の影を振り返りつつ怒鳴った。
「我々がこのまま無事に山を降りたとして、この獣を白昼の街に解き放つわけにはいきません!」
「いやはや!その通りですとも!」
左大臣の姿は見えず、ただ声だけがそう遠からぬ場所から聞こえてくる。
「二手に別れましょうぞ!奴を撒くのです!」
その時、獣が速度を緩めはじめたことに二人は気がつきはじめた。やがて獣の足が完全に止まると、左大臣と柏木とは恐れ知らずにも立ち止まって、荒い息を吐きながら琥珀の姿を振り仰いだ。琥珀は牙を剥きだしかすかに唸って二人を威嚇したが、襲いかかってくる気配はなかった。
「……はて?」
キャンキャンというひどく場違いな甲高い声に、二人ははっとして辺りを見渡した。まるで子犬の鳴き声のような。まさしくその通りで、狼の後ろのあたりで茂みがごそごそと動いたかと思うと、土と落ち葉の色にその毛色を紛らわせながらも、子犬が一匹飛び出てきて、ぱたぱたと尾を振って狼の前足にじゃれかかった。琥珀は鼻先で子犬をつつき、汚れた毛並みを舐めてみせたが、その姿は傍目には子犬をあやしているようにも見えた。
人間どもの視線に気づいた琥珀は、苛立ったように低く吠えた。琥珀の眼から緋色の炎が失せ、代わりに鏡のような銀の凪ぎがそこに湛えられていた。左大臣と柏木とは思わず顔を見合わせる。だが、詮索している暇はなかった。あちらがこれ以上追ってこないというのならそれを幸いとしなければならない。今の戦闘力ではとても太刀打ちできないことを、二人はともに理解していた。
柏木は銃を向けたまま、左大臣はカンフーの構えのようなポーズをとったまま、揃ってそろそろと後ずさる。警戒する人間どもを蔑むように、琥珀は胸を反らして鼻を鳴らし、尾を大きく振った。すると、子犬はまたもやその尾にじゃれついた。
「……送り狼というものがあるそうです」
琥珀の姿が見えなくなると、銃を胸ポケットにしまいこんで柏木はそんなことを言った。
「夜分に山中を歩くと後を追ってきて、隙あらば人間を喰い殺そうとする物の怪のことだとか。これは単なる伝承に過ぎませんが、どうやらニホンオオカミとやらには自分の縄張りに立ち入った人間の後についてきて、縄張り近くを去るまで見張っているという習性があったのだそうです」
「なるほど。すなわち、琥珀が我々を襲ったのは、我々が縄張り近くに立ち入ったからで、喰い殺そうとする意図はなかったと。途中で追うのをやめたのもそのせいであると」
「あくまでも可能性に過ぎませんが」
と、ようやくアスファルトの道に差し掛かった柏木は、スーツに貼りついた小枝や落ち葉を叩き落として言った。なおも用心深く道路脇のカーブミラーを確かめた柏木であったが、やはり琥珀は追ってこない。
「しかし、この話が正しければあの場所こそ琥珀の縄張りだということだ。居場所を突き止められたのでは?」
「ふむ。そして琥珀が近頃人を襲わぬ理由も、なんとなく分かった気がいたしますな」
と、こちらも全身にひっついている小枝やら葉やら泥やらを必死に叩き落としながら左大臣。
「琥珀はあの子犬を育てているに違いありませぬ。今の琥珀は人間を襲撃するより、あの子犬にかかりきりなのでしょうな」
左大臣と柏木がカーブミラーの中で豆粒ほどの大きさになった頃である。鏡の中、下部の湾曲からぴんと立った二つの白い三角耳がのぞいて、ぴくぴくと動きはじめた。やがて大丈夫と判断したものだろうか。耳の持ち主である褐色の肌の美しい女の顔がひょこりと現れて、鏡の《《内側》》よりカーブミラーの縁にすらりとした長い指がかけられる。その指には色とりどりの宝石が輝いて、味気ないオレンジ色の鏡の縁に思わぬ色どりを添えていた。
「あー、もうなんなんですかぁ、あれ」
鏡のなかの女は黒くつややかな髪のなかに耳を引っ込めながら呆れたように呟いて、真向かいにある山の方を見上げた。
「せっかくよみがえらせたのに、ぜんぜん仕事してくれないじゃないですかぁ。華陽がんばったのに。犬なんて、大、大、大っ嫌いなのに……くすん」
それから華陽はふと落胆の表情を冷ややかに凍らせて、
「……やっぱし獣ごときに殺戮は任せちゃいけないんですねぇ」
だって、殺戮ってもっと壮絶に盛大に行うものでしょう?肉体を悉く破壊して、精神を遍く蹂躙して。殺戮とはあるいは切りつけること、抉り、捥ぎとること。束縛し、切断し、刺突し、削剥し、穿貫し、歪曲し、圧搾し、粉砕すること。欠損させ、焼尽させ、狂乱させて。そう……だからつまりもっと、欲望のままに。
白く塗った華陽の唇をいつの間にやら涎が汚していた。が、どこぞより「ワン!」と一声聞こえた瞬間にその顔より狂気が消え失せ、華陽はびくっとして急に縮み上がった。中年女性に連れられたマルチーズがカーブミラーに向かって吠えていた。
「あらまあ、キャンディちゃんどうしたの?ミラーなんかに向かって吠えて……」
「はわわわわわわ……」
華陽の姿は鏡のなかから消え去った。




